猫と荷車

 とある旅人が、村から村へと続く道を歩いていると、真っ向から男が荷車を引きながらやってきた。

 少なくとも、商人ではない。商人なら馬の一頭でも所有しているはずだし、品物を乗せて運ぶには、荷車はあまりにも小さく見えた。
 男と荷車が近づいてくるにつれ、旅人は関心をおぼえずにはおれなくなった。男の引く小さな荷車に載っていたのは、一匹の老いた猫ばかりだったのだ。
 男はそれ以外に何も載っていない荷車を、さも大儀そうに引いて歩いている。整備されていない道はよっぽど揺れるだろうに、猫は行儀よく座り込んだまま動かない。その姿は何かの絵本から抜け出してきたかのように滑稽で、旅人は思わず足を止めて、声をかけてしまった。

「やあ、ごきげんよう。いい天気ですね」
「ああ、どうも。ええ、ええ、いい天気ですね。ほんとうに良かった」

 声をかけられた男は特別驚くふうでもなく返事をした。彼はあまり頑丈な質ではないようだ。手足の発達具合からして、野良仕事に従事する立場ではないことは明らかだ。

「天気が悪かったら、出発を延期しなければなりませんでした。雨はコイツが嫌がりますからね」
「猫ですか?」
「猫です」

 奇妙な会話だった。きちんと意思の疎通は出来ているはずなのだが、いいようのない噛み合わなさを感じるのである。曖昧にひきつったような微笑を浮かべる旅人に対し、男は屈託のない笑顔をしていた。

「旅の方ですか。この先に向かわれるので?」
「ええ、村から村へとあてのない旅を。あなたは猫と一緒に何をしに出掛けられるのですか?」
「引っ越しですよ」
「引っ越し?」

 予想外の返答に、旅人は思わず男の目も憚らずに、露骨に荷車の中を覗き込んでしまった。やはり何も積まれていない。ふてぶてしい面持ちの猫が、じっと見上げてくるだけだ。

「――失礼。とても引っ越しの途中のように思われなくて」
「そうでしょうか。必要なものは全て載せてありますよ」
「猫ですか?」
「猫です」

 男は何も思うところがないのか、旅人の質問に淡々と答えて見せる。さも当然だというような振る舞いに、旅人は自分の感覚がおかしいのかもしれないと思わされるのだった。

「もともと住んでいた家や家財はどうされたのですか?」
「全部処分しましたとも」
「すべてですか?」
「もちろん、必要ありませんからね」
「どうやって生活を――」
「家を買うお金ならあります」

 男は懐から袋を取り出して、旅人に手渡した。そのあまりに無防備な行いに面食らいつつも、紐を解いて中を見てみると、たしかに数十枚の金貨と銀貨が詰まっていた。たしかにそれだけあれば、家は買えなくても長いあいだ借りることはできるだろう。旅の空のさなかにあっては、目に毒となる大金だ。旅人は慌てて袋の口をきつく結びなおすと、突き返した。

「用心してください。今しがた出会ったばかりでしょうに」
「そうでしたね。ええ、ええ。あなたが好い人で良かった」

 混乱する旅人に対して、まるでそのまま持ち逃げされても構わなかったとでもいうかのように、男は悠然と微笑んだ。

「ご心配ありがとうございます。ですが、大丈夫です。雨風を凌げればそれでいいのですよ。コイツは本当に水が苦手ですからね」
「……猫ですか?」
「猫ですよ」

 旅人は同じ答えが返ってくるとわかっていて、男ではなく猫を見ていた。
 猫は何も言わない。鳴きもしない。
 宵闇よりも深い毛色の黒猫だ。特別に明るい夜の満月みたいな目で試すように、挑むように旅人を見返していた。
 結局、ほんとうに訊きたいことは訊けなかった。旅人は男と別れ、男がやって来たであろう村を目指して歩き出した。夜になる前にたどり着くことができたのは幸いだった。これまでいくらでも夜を外で過ごしたことはあったけれど、その日はなぜだか夜が怖かった。闇を見るとあの体毛を、月を見るとあの目を思い起こした。

 翌朝、親切な村人に宿を提供してもらった旅人は、家主の娘に礼の銅貨を渡すついでに、訊ねてみることにした。

「つい最近まで、この近くに男と猫が暮らしていませんでしたか?」
「あら、よくご存じですね。お知合いですか?」
「いえ、ここまで来る道すがら出会ったのです。彼はどういう人でしたか?」

 娘はしばらく顎に指をあてて考え込んだあと、答えた。

「無欲で、いつもニコニコしている人でした。いつだったかもう忘れてしまいましたが、ふらりとやってきて住み着いたのです。雨風が凌げればいいと言って、馬小屋みたいな小さな家に、猫と一緒に暮らしていましたよ。
 風変わりな方で、仕事をしているところを見たことがなければ、何か調達しているところも見たことがありませんでした。どうやって生活しているのか、誰にもわからないのです」
「彼がやってきたことで、何か変わったことはありませんでしたか?」
「特に何も―― ああ、そういえば…… 以前は鼠害に悩まされていたのですが、すっかりなくなりましたね。猫ちゃんのおかげでしょうか」

 それだけ聞くと、旅人は必要なものだけを調達して出発した。
 これから立ち寄る村々のすべてに、男と猫の痕跡が残っているのじゃないかと、そんなことを考えながら。

「あれは、ほんとうにただの猫かな」

 猫ですよ。

 独り言に応えた者がいた気がして、旅人は道の真ん中でそっと振り返った。

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