"安楽死"という選択肢も欲しいよね

 タイトルからも察せられると思うが、割と暗い内容なので、そういうのが苦手な人は読まない方がいいかも知れない。
 それと、不謹慎で無礼な表現を多く含んでいる。先に書いといたから、嫌なら読むな。文句も受け付けない。

 ある日、バイト先でいつも通り無愛想にレジ打ちをしていると、顎に怪我をした背の低い婆さんが買い物にやって来た。絆創膏も貼っておらず、皺だらけの顔に付いた真っ赤な傷が痛々しかったのが印象深い。
 婆さんはちらし寿司のパックとグレープフルーツが一つずつだけ入った買い物カゴを僕に渡すと、いそいそと財布の中を漁り始めた。
「いらっしゃいませ。当店のポイントカードはお持ちですか?」
 僕がマニュアルに沿って訊ねると、婆さんは「あぁ、ハイハイ」と頷いて財布の中から老人専用の黄色いポイントカードを取り出し、僕に手渡す。僕は流麗な手付きでカードを機械に読み込ませた後、さっさと婆さんに返す。何の事はない、いつもの作業だった。
「では、7番の精算機でお支払いお願いしまーす」
 先に書いた通り、婆さんが持って来た商品は二つしかなかったので、ほんの数秒でレジを通し終わった。商品とレジ袋の入ったカゴをカートに乗せてやり、精算機の前まで進んだ婆さんが財布から現金を取り出す様子を眺めていると、その婆さんはこう言った。
「あらぁ〜……お金、足りない」
 婆さんはちらし寿司とグレープフルーツを買うために必要となる数百円すらも持っていなかったらしく、僕の方を向いてこう続ける。
「千円、入っとると思ったんやけど……なかったねぇ。どうしようかねぇ」
 困り顔で財布の中を見せてきても、僕には何もしてあげられない。まさか代わりに払ってやる訳にもいかない。思わず苦笑してしまった。どうしようもこうしようもないだろう。金を持っていないのなら代金の支払いが出来ないので、お前は何も買えないのだ。金を持って再び来店するか、諦めて帰宅するか。二つに一つだ。さっさと選べ。などと考えていると、婆さんが言う。
「お金、持ってくるしかないねぇ。これ(商品)、預かっといてくれる?」
 よし、そういう事なら任せておけ。婆さんの割に決断が早い点だけは気に入った。さっさと戻ってこいよ。
「分かりました。ここ(5番レジ)に置いとくので、また来て下さいね」
「うん、うん。5番ね。5番に預けました」
 こうして、婆さんは何も乗っていないカートを押しながら、店から去っていった。これが午後七時頃の出来事だ。

 そして、その二時間後。買い物カゴの整理のために各レジを回っていたパートのオバちゃん(マツムラさん)が、婆さんが預けていった商品を見つけて僕に訊ねた。
「これ、返品するヤツ? 返してこようか?」
 僕は手を振って否定する。
「いや、違うんです。預かってるんですよ。まだ買いに来られてないんですけど」
 僕の返答に、マツムラさんは目を細めた。
「もしかして、背ぇちっちゃいおばあちゃん?」
 マツムラさんの、もう個人が特定出来ていそうな口振りに、僕は目を丸くした。
「そうです。お金持ってなかったんで、取ってくるって……」
 僕はキョロキョロしながら店外の様子を窺う。しかし、婆さんが現れる気配すらない。
「あ〜。それ、もう来んヤツやで」
「え? そうなんですか?」
 婆さんが店に来てから既に二時間が過ぎた今、何となくそんな気はしていた。しかし、僕がわざとらしくトボけていると、マツムラさんは少しだけ得意気になって説明し始めてくれた。
「よく来るんよ、あの人。ちょっと認知が入っとるみたいでね……」
 認知が入ってる……ああ、認知症の事を言ってるのか。僕はハッとした。そうだとすれば、金を持っていないのにも納得である。たぶん、家族が持たせていないのだろう。しかし、それなら外を出歩くのも力尽くで止めて欲しいものである。
「じゃ、これ(商品)、返しとくで」
「あ……はい、お願いします。すみません」
 結局、その後の一時間、婆さんが再び来店する事はなかった。マツムラさんの予想が当たったのだ。そんな事を考えつつ、首尾良く退勤した僕は、いくつかのお菓子を買ってから店を去り、帰宅の途に就いた。

 その二日後。タマゴの特売日だったので、憂鬱な気分になりつつも出勤。その日は4番レジだった。しばらく忙しい時間が続き、僕はせっせとレジ打ちに励んでいた。そして、午後七時半を過ぎ、客足も落ち着いてきた頃。件の婆さんが来店してきた。
 婆さんはいくつかの商品と共に、再び5番レジにやって来た。顎の傷はガーゼで覆ってある。僕は4番レジから様子を見ていただけなので、カゴの中に何が入っていたかまでは見ていないが、二日前と同様に商品の数は少なかったと思う。
「あれぇ〜……お金、持ってなかったねぇ」
 思わず、胸が締め付けられるような感覚に見舞われた。5番レジ担当の人(イワタさん)は、困ったような表情で、それでもニコニコしながら婆さんに話し掛ける。
「どうしますか? お金、持ってくる?」
「そうやねぇ。これ(商品)、戻してくるねぇ」
 今日は戻すのかよ。一昨日も戻せよ。僕は心の中でツッコミを入れた。これ以上に虚しく、そして無意味なツッコミもなかなかない。認知症(あくまでマツムラさんの憶測だが)の婆さん相手に……。
 そこで一旦、婆さんはレジを離れた。その後の行動を監視していた訳ではないので、詳細は分からないが、たぶんちゃんと商品を戻しに行ってくれたと思う。とは言っても、正しい位置に戻せたかどうかは疑わしいが。まあ、それは仕方ない。仮にそうだったとして、別に責める気もない。

 そしてその数分後、婆さんはまた5番レジに現れた。
「あのぉ〜……さっき、預け物をしたと思うんやけどねぇ〜……」
 僕は思わず目を閉じた。それは一昨日の事だ。当然、この日は何も預かっていないイワタさんは、オロオロして困っていた。この時点で、婆さんの行動を見ているのが精神的にかなり辛くなってきていた。この件については、誰も悪くないと断言していいだろう。強いて言うなら、婆さんの家族には問題があると思うが……。こんな状態の婆さんから目を離すなよ。外で事故にでも遭ったら大変だぞ。
「ううん、何も預かってないよ? サービスカウンターには行ってみた?」
 認知症患者相手には、否定する行為は逆効果になる、と祖母が言っていたのを思い出した。曾祖母と接していた時に学んだ事らしい。相手が言う事を否定せず、ウンウンと頷いておけばいい。しかし、イワタさんはそれをしなかった。肯定しても意味がないからだ。だって預かってないんだもの。
「えぇ〜……。5番やと、思うんやけど……」
 婆さんも困っていた。僕は二人に助け舟を出そうかとも思ったが、何と言えばいいのか分からず、ただ見ている事しか出来なかった。正直に説明しても、イワタさんはともかく、婆さんには絶対に理解できないだろう。
 確かに、婆さんが商品を預けたのは5番レジで間違いない。よく覚えていた、と褒めてあげたいくらいだ。しかし、それは一昨日の出来事であって、今日は何も預けていないのだ。それを認知症患者である(あくまで憶測だが)婆さんに説明するという行為の、何と虚しい事か。分かってもらえる気がしなかった。
「う〜ん、う〜ん」
 婆さんがキョロキョロして、4番レジに突っ立っていた僕と目が合う。そうだ、婆さん。アンタが商品を預けたのは、このヒョロヒョロのモヤシ野郎なのだ。思い出せ──。無駄だと知りつつ、僕は祈った。そしてやはり、その祈りは誰にも届かず、無駄に終わった。僕の顔を見ても、婆さんは何も思い出せなかったのだ。
 婆さんは一旦、レジを離れた。

 そして今度は、婆さんの娘と思しき人物と共に、二人でレジを訪れた。
「ホントに預けたん? 勘違いやないん?」
 面倒臭そうな様子で娘(と言っても相応のババアではある)が訊ねる。婆さんの介護に疲れ果てている様子が、その一瞬だけで察せた。声が露骨に冷たかったからだ。
「5番……う〜ん……5番なんやけどねぇ」
「ほら、帰るよ。こっち」
 こうして、娘は店員に謝る事もせず、婆さんを連れて店を去った。

 前置きが長くなってしまったが、ここからが本題である。
 今はこうして普通に生活出来ているものの、自分もいつ、この婆さんのように認知症患者となり、あらゆる記憶が定かでない状態になるか分からない。だからこそ、そうなってしまった時のために、"安楽死"を選択肢の一つとして用意しておいて欲しいと、今回の件を通じて、心の底から思った。
 あのような状態になって、家族からも疎まれて(あの婆さんがそうなのかは分からないが、少なくとも僕にはそう見えた)……それでも生きていたいとは思えない。想像するだけで死にたくなる。
 今の日本ではまだ不可能だが、僕が老いるまでの数十年の内に、色々と考え方が変わって、安楽死を選ぶのが可能な未来になっていて欲しい。切に。
 もし、僕が認知症になったら、さっさと安楽死させてくれ。介護なんてしなくていい。施設に入れる必要もない。僕に使われるお金がもったいない。これが言いたかった。

 以上。
 読んでくれてありがとう。

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