あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #9
#9 見知らぬ三十九歳のこと
大人になりそこなってきた、という体感がある。二十三歳までにこなさなければいけなかった儀礼のいくつかをスルーしてしまった、というほうが正確かもしれない。
たとえば、大学に入るまで、友だちと夕食を食べたことがなかった。どうやらみんなは高校の放課後に買い物をしたりゲームセンターに行ったりしているらしい、そして家族ではなく友だちと夜ご飯を食べることがあるらしい、そう勘付いてこそいたものの、自分とは関係ない話だと思っていた。親が門限に厳しかったのもあるかもしれない。ラーメンも牛丼も、成人したころにようやくハラハラせずに食べられるようになった。
スポーツも授業以外でしたことがない。就職活動をしていると、じぶんの「リーダーシップ」のなさに目を見張る。どうやら、みんなはスポーツにかぎらず、なんらかのチームプレイを経験して育ってきているらしい。
まわりが初体験がどうセフレがどうと言いはじめても、「性」はいつまで経ってもよそごとに感じられて、ときどき異性に「そういう」目で見られると、それがすごく的外れに思えてウケてしまう。
お酒も飲めない。「こんどご飯行こうね!」といわれるとき、頭の中にはラーメンなどが浮かんでいる。わたしの外食の最先端がラーメンだからである。違うんだろう。みんなは高校くらいでラーメンやうどんや牛丼を食べ慣れて、いまは「鳥貴族」とかに行くんだろう(いや、たぶん鳥貴族でさえちょっと遅れを取っている。でもその上の例が出せない)。
「こんど遊ぼうね!」といわれるときは、最悪芝生広場のイメージが湧いている。よくて動物園だ。女友だちとふたりでお台場に行ったとき、相手はヒールなのにレインボーブリッジをまるまる徒歩で渡らせ、靴擦れさせてしまって猛烈に反省した。やさしい友だちだったからよかったものの、デートだったら絶対にふられていたと思う。だって……歩いて渡ったら楽しいかなと思ったから……。
なんていうか、気づいたら周回遅れになっていた。
わたしがおそるおそる薬局の安い化粧品に手を伸ばすころ、まわりの女の子たちはアルバイトしたお金を貯めてデパートのブランド化粧品を買っていたし、わたしが親に頼み込んではじめて徹夜でカラオケに行くころには、友だちは海外旅行に出かけていた。ひとつひとつは些細なことかもしれないけれど、それらが積み重なって、わたしいつまでたっても平均に追いつけない、周回遅れだ、と、今でも思っている。
わたし・友だち・友だちで編成された「九歳児のつどい」というライングループがある。「周回遅れ」たちが寄り集まり、主に動物園にいっしょに行くためだけのグループだ。売店で動物のぬいぐるみも買うし、ブランコにも乗る。これがもっとも体感に近い。わたしたち、ほんとうは九歳なのに、なんでか二十三歳のなかに放り込まれてしまった。
みんな、わたしたちを残して、いつのまにか大人になってしまった。
だから、ときどき誰かの子どもみたいな一面に出会うと無性にうれしい。むかしの友だちを見つけたみたいな気になる。
お酒は飲めなくても、酔っぱらっている人を見るのは好きだ。「大人っぽいなあ」と思っていた人が、酔って歌いだしたり、甘えたりしてくれると安心する。人目もかまわず路上に寝転んでしまうのなんか最高だ。
他人がめそめそしているのを見るのも好きで、みんなもっとめそめそしてほしい。これはわたしがやさしいからではない、相手の中にいる子どもと出会えるのがうれしいからだ。
そう、一見大人っぽく見える人も含め、誰のなかにも子どもみたいな部分は残っているらしい。それもわかっている。だからこそ、それを普段隠して、あるいは一旦置いておいて、きちんとお化粧したり、おしゃれな食事屋を見つけたり、仕事に行ったりしていること、それが果てしなく遠いことに感じるのだ。みんな、すごい。
なんとなく、大人になることは変容していくことだと考えがちだった。でも、もしかしたらそうではなく、子どものじぶんを核として、その上に層を増やしていくことなのかもしれない。幼児のわたしを覆い隠すように少女のわたしが生まれる。それをさらに覆い隠す、大人のわたし。重ねるほど、子どものわたしは遠くなっていく、でも、消えるわけじゃない。
もしそうなら、誰しもが子どものじぶんを隠しもっていることにも、それでいてわたしだけが大人になれないような気がすることにも、双方に説明がいく。わたしの築いてきた「大人」の層はところどころほつれ、穴があいていて、ときどき九歳がむきだしになる。
◆
さいきん、もっとも「子ども」の気配を感じ、胸をうたれたニュースの話をしたい。年齢でいえば大人も大人、三十九歳の男の人の話だ。
要約する。ある男性が飛行機のファーストクラスに乗り、帰ってきてから最低評価のレビューを書きこんだ。その日は彼の誕生日だったのに、それをサプライズで祝ってもらえなかったから、というのが理由だ。上記のニュースでは、「不満を爆発させていた」「場合によっては乗務員が利用客の誕生日を祝うこともあるが、必ず実施しているサービスではないということだ」と、どことなく非常識なクレーマーを責めるような語調。すでに削除されてしまったレビューの以下の箇所が引用されている。
「期待してた俺がバカでしたね」
「もうなんか泣けてきて、、泣いてしまいました」
三十九歳の男の人が、「他人に誕生日を祝ってもらえなかった」という理由で、飛行機のなかで泣いてしまう。そして、帰ってきてから航空会社を責める文章を投稿する。わたしがこのニュースを見たときの率直な感想は、「そういうとき、あるよねー!!」だった。
ないですか、そういうとき。最近でなくてもいいです、おそらく、子どものころに。
わたしが子どものころ、泣いたりへそを曲げたりする理由の多くを、「期待はずれ」が占めていた。ささいなことで軽やかに期待し、軽やかに裏切られる。
わたしが絶対にバスの降車ボタンを押したかった、なんならバスに乗るって決まったときから押したかったのに、先に誰かが押してしまった。料理の手伝いをしながら勝手に作ったヘンなかたちの餃子は、わたしが最後に食べるつもりだったのに、パパが食べてしまった。そのようにひいひい泣きながら、「すべてが自分の思うようにいくとは限らない」ということを覚え、大人になるにつれて手痛い期待はずれは減っていく。
でも、いまだに失敗もある。完全に予想外のところから期待を裏切られたり、あるいはそもそも気が滅入っていて、でも期待することで自分を奮い立たせたりなんかしていると、弱い。ラインの返信がないと眠れなかったり、「予定した時刻の電車に乗れなかった」というだけで駅のホームで泣いてしまったりする。
電車くらいでなんだ、と思うだろう。わたしもそう思う。ただ、そこで電車に乗れたかどうか、それだけがすべてかのようにかなしい日があるのだ。そういうとき、わたしの身体の底のほうにいる九歳のわたしが、もういまさらどうなったってかまわん、という感じで、腕をつっぱって泣きだすのがわかる。
正直、それが一般的なのかどうか、見当もついていなかった。聞いたこともなければ、わたし自身もあまり話したこともない。例によって「みんなはやく大人になってすごいなあ」くらいのものだった。
それで、件のニュースに「あるあるー!」と思いながらなんとなく付随するリアクションを見ていたら、それはそれは批判されていてびっくりした。批判、というか、ばかにする、というか、自分には絶対に起こりえないことだと言いたげなコメントの数々。クレームをつけて航空会社を困らせるのはやめろ、というのはまだわかる。いい大人がくだらないだなんだ、他に祝ってくれる人がいないのかだなんだ、めっちゃウケるだなんだ、挙句「わたしがファーストクラスに乗ったときは事前に伝えたので祝ってもらえましたよ!」である。
確かに過剰なクレームをつけるのはよくない。自分がかなしかったからといって人を責めてはいけない。でも、勝手にかけた期待でなさけない思いをしたあと、それを他人のせいにでもしなければいられないほどのときがあることさえ、わかってもらえないのか。
これまでわたしは、先に書いたように、誰もが子どものじぶんを抱えながらもうまく折り合いをつけて暮らしていて、わたしはそれがへたなのだと思っていた。でも、ちがうのかもしれない。わたしたちは、もうほんとうに取り残されてしまったのかもしれない。
◆
いまでも鮮烈に覚えている「期待はずれ」がある。
小学校六年生のとき、母が昼食に親子丼を作ってくれた。それが、父と、弟のぶんだけあって、わたしと母のぶんはなかった。
べつに、母がわたしにいじわるしていたわけではない。母がひとり食事をとらないのはよくあることで、また日頃から父と弟のほうが多く食べる。もちろん日常的にわたしが欠食させられていたわけではなく、ただそのときなんとなく、母が「父と弟はおなかが減っていそうだなあ」と思ったとか、そういう理由だったのだろう。
ただ、そのショックがすさまじかった。
母があまりにも自然にそうしたので、「なんでわたしのぶんはないの?」と聞くこともためらわれた。誰もそこに疑問をもっていない。わたしは飼っていた文鳥を見るふりをして食卓に背中を向け、ひそかに泣いた。
わたしのようすに、母はすぐに勘づいた。ただ、なんで泣いているのかまではわかってくれず、なに、どうしたの、なにがかなしいの、と問い詰められる。
「だって、親子丼が……」
そう打ち明けたときの、なんとみじめだったことか。わたしはべつに(もしかすると母の予想通り)、たいしてお腹が空いていたわけでもなかった。ただ、弟がしてもらえることをわたしがしてもらえなかった、そのことが悲しかっただけなのに。
母はちょっとびっくりして、わたしを抱きしめ、「ごめんね、まだ準備ができていなかったね、まだ子どもだもんね」といった。
そこではじめてわかった。母はおそらく、父と子どもに食事をサーブする役割を「大人の女性」として自らに課し、わたしがそこへ登っていくのをごく自然に待っていたのだ。そしてそのタイミングを見誤ったと感じ、謝ったのだろう。
わたしは母の肩を洟水でぬらしながら、なにそれ、全然できてないよ、できてるわけないじゃん、とぼんやり思っていた。
◆
いまでも、不用意に泣き出したくなったとき、わたし全然準備できていないなあ、と思う。じぶんが経験するであろうひとつひとつに対し、できるかぎり期待をかけず、おだやかでいたいと思うけれど、全然足らない。アンバランスな期待のかけ方をしてしまったり、準備が間に合わなかったりする。
あなたもそうだったんじゃないですか。
もし、わたしが誕生日にファーストクラスに乗って、きっと祝ってもらえるはずだとフライトの間じゅう期待していたのに何事もなく目的地に着いたら、泣くだろう。いい大人がなんだ、誕生日くらいなんだ、って、うるさいな、いまさらどうなったってかまわん、もうほかの誰が祝ってくれようと関係ないんだよ、だってそのためにファーストクラスに乗ったんだから。電車くらいなんだ、おりますボタンくらいなんだ、親子丼くらいなんだ、って、うるさいな。全然できてないよ、できるわけないじゃん。
がんばって築きあげてきた大人の層が、そんなふうに思いもよらないことでぼろぼろ崩れるときがある。
そういうとき、わたしたち周回遅れはあまりに無力で、これまで自分の表面にあったものは繕いだらけだったのだ、と痛感するはめになる。その上その恥じらいにまた追いつめられて、めちゃくちゃに他人を責めたりしてしまう。どこをとってもだめだめだ。全然ほめられたことじゃない。
ファーストクラスの男性への激しい非難を読んでいると、もしかしたら、ほとんどの人はもうこういうことをわかってくれないのかもしれない、と思いそうになる。
でも同時に、大人の層がいかに脆いかということを、わたしたちは経験でもってよく知っている。
だから、ネットニュースにコメントしたあなた。自分は二度と泣かないとでもいうような顔をしたあなた。あなたにも、いつか思いもよらないことが訪れて、あなたを構成する層がばらばらに崩れ去るときがくるのかもしれない。だって、期待はいつも及びもつかない方向から裏切られるし、あなただってかつては九歳で、それにびんびん泣いたことも覚えているはずだ。
そのとき、わたしは笑ってあなたを抱きしめて、「わかるよ! そういうときあるよね!」と言ってやる。それがいかにわたしにとっては準備しつくしたことで、この上なくばかばかしく思えることであっても、だ。
絶対に言ってやるからな。
(向坂くじら)
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