あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #15


#15 母のこと


わたしの知っている花の名前のほとんどは、母の口から覚えたものだ。
母は、売っている花と道端に咲いている花とをひとしく愛する人で、わたしの幼稚園の送り迎えのあいだ、ずっと足もとを指さしながら歩いた。おおいぬのふぐり、はくもくれん、かたばみ、ほとけのざ、ねじばな、わたしもすぐに覚えて、受け売りで幼稚園の友だちにじまんした。

毎年どくだみが咲き始めると、そのころのことをよく思い出す。春を終えて梅雨に入る前、ちょうどいまごろだ。
「どくだみはくさいから嫌われてるけど、花はかわいいでしょ。十字架のかたちの花なんだよ」
それが、キリスト教徒でもあった母の決まり文句だった。どこか教会の集まりでそれを聞いてきて、ずいぶん感銘をうけたらしい。そういいながら母はよく、どくだみの葉っぱをいちまい摘んで手のなかで叩いて遊んだ。そうするとにおいが立つのだ。そして、ひらいた手を幼いわたしに嗅がせ、おもしろがった。
そう教えられて育ったせいで、どくだみの花をみると、なんとなく不憫でいたたまれない気がしてくる。みんなに嫌われているにもかかわらず、ちいさく祈りのかたちをとりつづけている花。白くやわらかい十字架を背負っている花。

いまでもたまに、どくだみを見ると葉っぱを一枚叩いてみる。手の鳴る軽快な音といっしょに、鼻にしみるにおいがわっと四方に拡がる。わたしはもともと、そのにおいがきらいではないので、そのまままんざらじゃない気分で歩きだす。

高校三年のとき父方の祖父が他界した。もともと医療施設で寝たきりの状態だったとはいえ、誰もまったく予想していないタイミングだった。
その日は大学受験の模擬試験当日だった。休み時間に着信が入っていて、折り返してみるとそれが祖父の訃報だった。電話に出た父は、でもとにかく模試は最後まで受けてきてかまわない、きっとおじいちゃんだったらそうしなさいというだろう、という。
ふと顔をあげると、たまたま同じ会場だった学校のクラスメイトが遠くでこちらを見ていた。そこで急に自分が泣いているのが気になった。最悪だ。模試の休み時間に親と電話しながら泣いていたら、試験が解けなくてくじけている人にしか見えないだろう。
それがひたすらくやしかったことをよく覚えている。

祖父の死をうけて、おそらく親族の誰もが心配したのが、遺された祖母のことだった。
祖父が入院してからというもの、祖母はつねに混乱していた。そしてその大半が、祖父のまわりの女性に対する嫉妬として発露した。看護師の女性にやきもちをやいて怒り、無理やり病室を一人部屋に変え、しまいには見舞いに来た母やわたしをにらむようになった。ベッドの上で祖父が痩せていくにつれて、健康なはずの祖母もいっしょに痩せていった。

あるとき、その祖母から母に、泣きながら電話がかかってくる。彼女はヒステリーを起こすといつも母に電話をかけてくる。どこか冷静な部分がのこっていて、息子である父に話せば叱られることがわかっているのだろう。
その日、祖母はひとりで病院をおとずれた。祖父とまだ恋人どうしであったころ着ていた真っ赤なワンピースを、数十年ぶりに着て。
看護師の若い女性への対抗心だったという。当然、当時まだ意識のあった祖父に怒られて追い返され、それで泣いて母に電話してきたのだった。電話口で、祖母は「むかしはこれを着ていったらきれいだといってくれたのに」と訴えたらしい。

祖父の入院していた病院はそこまで大きくもなく、ほかの入院患者も退院の見込みのない老人ばかりだった。いつも誰かが眠っていて、なぜか洗剤のにおいがして、壁も床も看護服も入院服も、すべてがパステルカラーの建物。そこで、祖母の真っ赤なワンピースが、どれほど目立ったことだろう。

その話をわたしにこっそり教えてくれたとき、母はみょうにしずかだった。祖母の奇行を気味悪がったりおもしろがったりすることも、スキャンダラスな語り口を用いることもなかった。ただ平坦な声で、「おばあちゃんは、ずっと愛が足りなかった人だから」といっただけだった。
母にはこの、けっこういろんなことを「愛」のひとことで説明しきろうとするきらいがある。わたしと弟をつかまえては「あんたたちはちゃんと愛されて育ったから」といい、わたしが友だちの話をすると、「その子、あんまり愛されてないんじゃないかなあ」と心配する。そういうときはだいたい、みょうにしずかな顔をしている。

祖父のからだは病院から引きとられ、最後の一晩だけ家に置いておけることになった。翌日にはもう棺にいれられ、葬儀場へ運ばれることになる。わたしはどこかぼんやりしていて、死人を見られる機会は今後あまりないのではないか、などと思い、両親の目をぬすんで写真を撮ったけれど、さすがにすぐに消した。
祖母はとくに取り乱してはいなかった。ただ夜になると祖父のとなりに布団を敷いて、ひとばんじゅう冷たいからだに寄り添って眠った。

ところで、母の「あんたたちはちゃんと愛されて育ったから」が、「愛して育てたはずなのに、どうして」に変わるまで、そんなに時間はかからなかった。わたしが問題行動を起こして学校に呼び出されたり、母には理解しづらいことでいちじるしく苦悩したりするたび、母は「愛」を引き合いに出して嘆いた。あんたは十分愛されて育ったでしょ。なのになんでそんなに飢えているの? まだ足りないの?
むろん、わたしの人生の問題は、親子間の愛情の如何だけではない。だから、ひとりぼっちで苦しむわたしと、それを見て別途ひとりぼっちで苦しむ母、という構図が、うちでは長いあいだつづいた。ふたりとも苦しんでいるはずなのに、ぜんぜん融けあわない。

それで、だんだん、母は「愛」ということばを、自分の理解が及ばなかったときの最後の切り札として使っているらしい、とわかってきた。
たとえば、祖母のこと。母は内心、祖母の挙動を異常だと思っていたのではないか。けれど、祖母を「愛が足りなかった人」と名づけることで、泣きながら電話してくる祖母のことを、母なりに受け止めようとした。意識的にせよ、無意識的にせよ。
じぶんだったら絶対に赤いワンピースを着てお見舞いへいったりしないけど、おばあちゃんは愛が足りなかった人だから、しかたない。そこで、理解できなさに見切りをつける。
あのころの母のみょうにしずかな表情は、そういうことだったのだ。あきらめとも軽蔑ともまったく違う、どちらかといえば共存するための手段であるような気がする。いわば、「理解できない」と言いきってしまわないための切り札。母の想定のなかでは、「愛されている/いない」の違いは非常に大きく、そこさえあてはめてしまえばあとは納得がいくのだろう。

そしてそれは、わたしにだけは通用しなかったのではないか。
だって、「愛されている/いない」のがわたしなら、「愛する」主体に母自身を数えざるをえないから。わたしにそれをあてはめようとした瞬間、責任が母の方へはね返ってくる。

「そうやって、自分でどんどんつらいほうにいかないで」
母はときどきわたしに向かって、憔悴した顔でそういった。ようは、あんたは愛されて育ったのだから、自分で好きこのんで苦しんででもいないかぎり、そんなにうまくいかないのはおかしい……といいたいのだ。まるで、これ以上じぶんを責めないでほしい、と訴えているかのようだった。
わたしは母にそういわれるのが本当にきらいで、ときに逆上し、ときにまるっきり無視した。誰が好きこのんで苦しんでるって? いくら共存のための手段とはいっても、当時のわたしにとって、それが押しつけであることには変わりなかった。

でも、さいきん思うのだ。
最後の切り札を失い、はじめて理解できないということ、それも実の娘を理解できないということそのものに正面からぶつからざるをえない、それは、母にとってどれほどたいへんな仕事だったんだろう。

さて、祖父が亡くなって六年半になる。親族全員の予想をあざやかに裏切り、祖母はみたところやたら元気だ。あっさり元の家を引き払って一人で住める家に引っ越し、保育園でアルバイトをはじめ、地域の合唱クラブに活発に参加するようになった。極端なときは、合唱クラブで出会ったすてきな男性の話を母に打ち明けさえするらしい。ふさぎこんだりヒステリーを起こすことはむしろ減った。憑きものが落ちたようだ、といってもいい。
母は笑って話す。きっと、ずっとおじいちゃんに愛されているか不安で、そのことばっかりだったんだと思う。いまはかえってすっきりしたんじゃない?

わたしには、そう思えるときと、思えないときとがある。
たしかに、遊びに行くと祖母は元気で、ずっと保育園の子どもの話をしてくる。でも、傍らには常に、祖母が墓に入れることを頑なに拒否している骨壺が鎮座している。食事をするときにはきちんと祖父の仏壇に供える分を取り分け、でもそうしながらも「どうせこれはあたしが食べるんだから、すこしでいいの」と、だれかに言いわけするようにぶつぶつくりかえす。冷蔵庫の中には、祖父が漬けた梅干しが化石のようになってねむっている。
祖母の家に遊びに行くたび、そこにある喪失の気配があまりに大きいので、わたしはくらくらする。それが底なしにあかるく、乾いた喪失であるせいで目に映りづらいけれど、気配はたしかにそこにある気がする。
同時に、これが、わたしが祖母に押しつけているものだったらどうしよう、とも思う。母が祖母にしているのと同じように、わたしが、たいせつな誰かを亡くすことにかんする出来あいの物語を、祖母に押しつけているだけ。
祖母はほんとうは、わたしにも母にも及びのつかない理由で元気になり、さみしがり、暮らし続けているのかもしれない。いや、むしろ、そっちの可能性の方が高いはずなのだ。とたんに、祖母が人間の輪郭をもったブラックボックスにみえてくる。そしてそれは母も、わたしも、おなじだ。

ただ、母と祖母とは、あきらかに以前より仲良くなった。それはたしかに、間に挟まっていて不要なやっかみを生んでいた祖父がいなくなったおかげかもしれない。祖母は多少おかしな挙動をいまだに起こし、母はそれにぞんざいな意味づけをする、そのふしぎなバランスで、ふたりは台所に並んでいっしょに夕食を作る。前までは、祖母はけして自分の家で母に包丁を握らせなかったのに。

おととい、どくだみの花が踏切の脇に咲いていた。
ぼーっとながめていたら、きゅうにずっとむかしからそれが好きな花だったような気がしてきた。いい花だ。思ったよりびっしり咲いている。深緑に点々と白い花びらが浮いて、それが線路の真ん中あたりまでつらなっている。群生しているとこんなにきれいなのか、と思い、「どくだみ 名所」でグーグル検索したけれど、そんな名所はないらしかった。それでもなんとなく気がおさえられず、いちど踏切を渡らずに電車を見送り、花畑を思うさまながめる時間をとった。
そのとき、わたしは十字架やにおいのことを、いっさい思い出さなかった。ひとときのあいだだけ、どくだみは健気で信心深い花でも、不憫な花でもなく、ただきれいなだけの花だった。
このことを、わたしは母に話さないだろう。
母はいまだにわたしのことを、「愛されているにもかかわらず、わがまま」と呼ぶ。さいきんは素行がいいのでそのくらいで落ち着いたらしい。わたしはやっぱりそれを押しつけだと思うけれど、いまはそれと戦わず、誤解されたまま、もしくは誤解しあったまま、暮らしつづけることもできるような気がする。これが、愛のせいだろうが、そうじゃなかろうが、十字架だろうが、そうじゃなかろうが、どくだみの花はきれいで、いつかそういう瞬間が母とのあいだにもおとずれるのを、わたしはいま、どうしても待っていてみたいのだ。

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