あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #23

#23 不特定のあなたのこと



 わたしが、あなた、と心のなかで呼びかけるとき、あなたのことはまだ知らない。

 「知らない人」には二種類あって、まずひとつが町や電車のなかですれちがう、具体的な姿がみえているけれど関わることのない人。 SNSで見かける人もここに入る。日常でたまたまふれあう膨大な人のなかで、関わりが極端に薄い大多数の人、という感じだろうか。この人たちのことは、出会ってはじめて「知らない人だ」と認識することになる。

 そして、もう一種類は、まったく姿のみえない不特定のだれか。 出会うこともなく、具体的に「この人は知らない人だ」と認識することもない、わたしのイメージのなかにしかいないけれど、でもおそらくどこかには存在しているであろうだれかだ。 

「姿がみえない不特定のだれか」は、大多数のことではないが、個別の存在でもない。「だれかそういう人もどこかにいるだろうなあ」という憶測、というとわかりやすいかもしれない。イメージする相手はいつもひとりで、かついつも移り変わる。 その人は、わたしが悲しんでいるときは幸せに満たされているし、わたしが楽しんでいるときには絶望している。そういう人がそれぞれどこかにはいるだろうからである。 それで、わたしはいつもそのだれかに遠慮して悲しみきれないし、楽しみきれない。まったく知らない、具体的な像も持たないだれかに、である。 

詩を人前で朗読したり、ことばのワークショップをつくるようになって三年ほど経つ。ときどき、「誰に伝えるために活動しているんですか?」とたずねられると、この「不特定のだれか」のことがまっさきに浮かぶ。誰のため、といわれたら、まちがいなく「いまわたしの知らないところで詩を必要としている不特定のだれか」のためだ。でも、その説明しがたさにだいたいことばを濁してしまう。 ありがたいことに、わたしのライブやワークショップ、働いている喫茶店に足を運んでくださる方、さらにはこのエッセイを読んでくださる方が一定数いる。さらに、「救われました」みたいなことを言ってくださる方もいる。

 それは心からうれしいのだが、同時に、まだ足りない、まだわたしには届いていない人がどこかにいる、という思いを捨てきれない。 きりがない。 

このことを白状するには勇気がいる。 「不特定のだれか」という存在は、あまりにあやふやで、取るに足らなく見えるだろう。そんなものを気にしつづけているのはばかばかしい、考え過ぎだと思われそうだ。 「目の前の人を大事にするのはよいことだ」という文言が、暮らしのなかにはよく出てくる。出会った人を大事に、家族を大事に、友だちを大事に。そういう文言の前に立たされると、「不特定のだれか」のあやふやさは一層際立つ。 

いちばん怖いのは、「目の前にいる人を大事にしていない」という謗りをうけることだ。もしそういわれてしまったら、わたしには返すことばがない。 ライブやSNSで「救われました」みたいなことをいわれると、「あ、そうなんですか、それはよかったですね」と一歩引いたリアクションをしてしまう。そこで自分が満足し、「不特定のだれか」のことを忘れてしまうのが怖いからだ。でもほんとうは、その人とともにもっと喜ぶべきことなのではないか。 家族や友だちと一緒にいるときもそうだ。自分が楽しければ楽しいほど「だれか」への罪悪感が襲ってきて、どこか冷めた心持ちになる。これも、一緒にいる人に失礼ともいえそうだ。 

ライブで共演した人が「今日ここにいる皆さんに出会えた奇跡」みたいなことをMCで語っていたり、友だち同士で遊んでいるときに「やっぱりこのメンバーは最高だよね」みたいなことを言われたりすると、息苦しくなる。そう思いたいときがわたしにも十分あるからこそ、うらやましくて、苦しい。いつまでもしつこく「まだ足りない」と言い張って、友だちやお客さんを大事にできずにいるのは、わたしだけだという気がしてくる。 どうしてわたしだけ、そこにいない人のことを気にして、悩んでいるんだろう。

 ◆ 

 「不特定のだれか」を意識するようになったきっかけは、はっきりと分かる。2011年の秋、大津で中学生の男の子がいじめによって自死へ追い込まれた。学校側の対応に問題があったとかで大きく報道され、何度も執念深く目に飛びこんでくるような印象を残すニュースだった。わたしは高校二年生、登校拒否の真っ最中で、自死という選択肢を通奏低音のように備えていた。

 だから、というのは安直すぎるかもしれないけれど、誰も引き止めることができなかったその男の子のことを、そのときどうしても他人とは思えなかった。自分の分身を亡くしたような錯覚にとらわれる一方で、彼を引き止めることができなかった人たちのうちのひとりでがわたしでもあると思った。 どうして生きているうちに彼の存在にたどりつけなかったのだろう? 

その思いは、すごい速度で飛躍した。彼はもういなくなってしまったが、そうでなければわたしが彼を知ることはなかった、彼が生きるか死ぬかの瀬戸際にあるとき、わたしは遠くで平穏に暮らしていた、彼が苦しんでいることは誰も報道してくれなかったし、わたしはそれを知りえなかった、 

では、いままさにそのように瀬戸際にある、わたしの知りえないほかのだれかも、どこかにいるのではないか? 

ごく自然なプロセスだった。自分自身が孤立していたことが、代表例としてそれを裏づけた。 それまでずっと、自分は誰にもみつからないひとりぼっちだと思っていたのに、一気に同じ境遇の人が世界中にいるように思える。 それは希望でありながら、すさまじい焦りも生んだ。自分はひとりではない、という喜びをはるかに越えて、いままさにだれかが死に瀕しているというショックが襲ってきたのだ。そして、もはやそれらはひとつ残らず他人事ではないのだった。 自分という存在が果てしなく拡張されてしまったような感覚だった。 

 きりがない。

 ◆ 

 この感覚について共感されることは少ない。多いのは、「やさしい」といわれるか、「やさしいぶっている」といわれるかのどちらかだ。 でも、ごくまれに、「不特定のだれか」を意識している人と知りあう。話しているうちにお互いなんとなくわかる。そういう人はだいたい、「まあ、おたがい大変ですけど、努力を絶やさずにがんばっていきましょうね」というようなことばをかけてくれる。どこか冷めた口調で。それが、「こうなってしまった以上苦しみつづけるしかないですね」の意であることも、よくわかる。 

「不特定のだれか」という存在は、おそらくわたしの処理能力をちょっと超えている。 「不特定のだれか」を意識することによって、しばしばキャパオーバーやバグを起こしてきた。「おれたちは仲間だ」といわれればその輪に入れなかった人のことを考えて尻込みするし、じぶんにはまったく関係ないことで逆上して人間関係を壊したりする。ときどき、あまりの無力感に打ちひしがれて、ふさぎこむ。 日曜の夜、ときどき「月曜日からの避難所」というスペースをひらいている。月曜日に自殺者が増えるという話を聞いてはじめた場所で、月曜日を迎えがたい人たちがやってきて、みんなで夜を越す。

 わたしは日曜日の十時ごろから翌日までずっとそこにいる。外で知らない人の来訪を待ち、喜んでいる一方で、家にはわたしと晩ごはんを食べたがってくれる家族を放っておいている。このことを「優先順位が一般的ではない」と指摘され、落ち込んだ。それもバグの一例だろう。

 「不特定のだれか」のことを考えるとき、ふしぎな親近感、「愛情」と呼んでもいいくらいの好感が、いつも湧いてくる。ただ、いかんせん相手が目に見えないから、その発散の方法がよくわからない。そういうとき、書くことはとてもちょうどいい。書くときだけは堂々と「だれか」を優先できる。 書いているときはひとりだから、誰に対しても一対一の関係になれる。それに、文字や声はからだを離れて飛んでいけて、物理的、時間的距離から自由になれる。 それはつまり、もしかしたら大津まで届くかもしれない、ということだ。 このエッセイも、そんなふうに書きつづけてきたような気がする。

 ◆ 

 わたしが、あなた、と心のなかで呼びかけるとき、あなたのことはまだ知らない。 このエッセイを書きはじめたときから、最後はあなたのことを書こうと決めていた。 わたしはしばしば心のなかであなたに呼びかける。あなたはどこにでもいて、どこにもいない。だから返事は来ないし、何通来ても足りない。 あなたのことだ。いまこれを読んでいるあなたのこと。 

わたしは大きな勘違いをしていた。だれか知らない人と出会うと、即座にその人を「不特定のだれか」から除外してしまう。その人はもう個別の誰か、「○○さん」であって、「だれか」ではない、まだまだ「だれか」はいるのだから、「○○さん」のことだけで喜んでいるわけにはいかない……というのがその理屈だ。 でも、「○○さん」は、かつて「不特定のだれか」であった人その人にほかならない。出会った瞬間に「だれか」ではなくなっただけで。けっきょく、より多くの「不特定のだれか」に出会おうとするなら、そのように増やしていくしかないのだった。だから、わたしは「だれか」には決して出会えないし、同時にたくさんの「だれか」に出会ってきた。 それをふまえてなお、あなたにむけて書きたいし、あなたのことを書きたいと思っている。あなたに出会うことを、できるかぎり怖がらずにいたいと思う。 

わたしは、なんだかしらないけれどあなたのことがとても好きだ。 不特定のあなたのことを好きでいるのはきりがなくて、しんどいけれど、でもなぜかとても好きだ。理由はぜんぜんわからないけれど、あなたのことを他人事とは思えない。あなたがなにで喜んでなにで苦しんでいるのか聞いてみたい。でも同時に、あなたがまるっきり他人であることも、よくわかっている。 

あなたのことはなにも知らない。 わたしはしばしばあなたに心のなかで呼びかけている。





★おしらせ★

今回で本編の連載は完結です。約一年のあいだお付き合いくださって、ほんとうにありがとうございました。

『あなたになれないわたしと、わたしになれないあなたのこと』を本にすることが決定しました!

二週間後、10/21より、わたしのやっている詩の朗読ユニット「Anti-Trench」が、アルバム制作クラウドファンディングをスタートします。エッセイの本はそのリターンとして販売します。本編より抜粋(加筆修正有り)+書き下ろし+α の予定です。

10/21、クラウドファンディングスタートとともに、このエッセイのあとがき
と特別編(#9がバズったときに怒りながら書いて没になった日記)を公開します!

もう一回だけお付き合いください! そして、ぜひ書籍版『あなたになれないわたしと、わたしになれないあなたのこと』もお手に取っていただければ幸いです!!

(向坂くじら)

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