あなたになれない わたしと、わたしになれない あなたのこと #1


#1  現代文の先生のこと


わたしが卒業した高校の面談室には、聖母像が飾ってあった。四人がけの机だけが置いてある窓のない部屋。二年生の夏休み明け、教室ではなく、そこへ登校していた時期がある。

本来の登校時間より少しあとに面談室に入ったら、一日そこから出なかった。そのかわり、授業がない教師がかわるがわるわたしのもとへやってくる。そして、洞窟のなかで出会った生きものをみるような目で、おっかなびっくり尋問をくりかえす。
わたしは下駄箱を見たクラスメイトにわたしが学校にいるとばれることをおそれ、いつもうわばきを履かず、革靴を手で持っていた。そして、だれに対してもいっさい口を割らなかった。
だけど、唯一楽しみにしていたのが、現代文の先生が訪ねてくる時間だった。

友だちを作るのがへただった。いや、作るには作れるんだけど、増やすのがへただった、というほうが近いかもしれない。とにかく、どうしても友だち争いが巻き起こる教室という装置やその速度に、わたしはうまく追いつけなかった。
それがゆるやかに限界にとどいたのがそのころだった。Facebookでみた溺れかけの犬とおなじだ。足のつかない井戸で、はじめは懸命に水かきをしたり陸をつかもうとするんだけどどんどん体温を奪われて、動きがにぶくなって、そのうちほとんど無抵抗で沈んでいく。
それで、わたしはとくに理由もなく教室を怖がるようになった。だから、面談室へやってくる先生たちは、その理由を聞き出そうとしては、失敗して去っていった。口を割らなかった、といったけど、本当のところはじぶんでもよくわかっていなかったのだった。


現代文の先生はまだ若い男性で、わたしをほとんどほめない人だった。国語が得意で、かつ教師たちに常に雑談の話題を探られていたわたしは、ぞんざいにほめられるのにちょっと飽きており、だからそれだけでもの珍しかった。
せまい面談室で「なにがそんなに怖いの?」とか「ここで友だちから逃げたら一生後悔するわよ」とか言われつづけ、まさに青菜に塩、というかんじのわたしのところへ、現代文の先生はだいたい眠たそうにやってくる。それで、自分が最近読んだ本の話とかをする。しかも、「あなたは読んだことないかもしれませんけど」みたいな態度で。

えっ、この人、わたしのことをぜんぜん大事にしようとしていないな、と思った。それで、なんとなく、現代文の先生の話には耳をかたむけるようになった。


先生には人をけむにまくところがあった。口を開けば「眠い」「疲れた」「面倒くさい」という。安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』に入っているという船乗りの話をすすめられて、わざわざ文庫本を買ったのに、そんな話は入っていなかった。だけど本自体はおもしろかった。「家どこ?」と聞くと、「地球」といわれた。

「いろんな惑星を旅してきた人しかその答え方しちゃだめでしょ」
「いや〜、火星は少し酸素が薄くてね」

そして、わたしのことについてはなにも尋ねなかった。だからといって話すのが楽しい、というほどでもなく、ただ、本当にわたしに関心がないのだろう、と思っていた。


ひと月ほどしてわたしがふたたび授業をうけられるようになったのは、面談室にこもる日々に行き詰まりを感じたからで、べつに現代文の先生のおかげではない。むしろ苦手だった女の先生の説得に根負けした形でもあり、現代文の先生の教師としての功績はほとんどなかったと思う。
でも、わたしは現代文の先生の授業がない曜日をえらんで学校をさぼるようになった。現代文の授業のあいだはつねに目を光らせる。そして、放課後に職員室を訪ねては、クラスの誰も気づかない授業の粗を指摘することをたのしんだ。
案の定、現代文の先生はそれをすさまじく面倒くさがり、「あなたと話すと疲れる」「悪いけどあなたを持ち上げてあげる義理はない」「用事がないなら帰ってください」などと冷遇しまくった。
そのたびに、心のなかで「そんなこといったらまた授業に来なくなったりするかもしれないよ」といってやりたくなった。だけど、結局一度もそれを口に出すことはなかった。そして、下校時刻ぎりぎりの石畳をとぼとぼ歩いて帰った。
だから、記憶の中の現代文の先生は、いつも疲れた目で眉根を寄せていて、西陽をうけている。


思いだすと、なんとなく、いつもわたしを更生させようとしつこかったほかの教師たちに申し訳ない気になってくる。だけど、そういう教師にやさしく顔を覗きこまれたり、手を握られたりするたび、寒気がした。お前の思いどおりにはならないぞ、という、ほとんど敵愾心に近い気持ちだった。
「あなたのことを大事に思っていますよ」という意思表示は、ときどき、(だから、わたしのいうことを聞いたほうがいいですよ)というカッコつきのメッセージをはらむ。そう、たぶん、現代文の先生は、一瞬もわたしを思い通りに動かそうとしなかった。ありのままのわたしを肯定する、みたいなことでさえなく、ただ無気力ゆえに、わたしのことをとくべつ大事にはしなかった。
だから、わたしは現代文の先生の前でだけは、なぐさめたり励ましたりする必要のない存在でいられた……


……と、思っていたのですが。

卒業したあと、大学の用事で母校を訪ねなければいけない機会があった。わたしは数年ぶりに現代文の先生に会えるのでちょっと浮き足立っており、現代文の先生はわたしを見つけるとちょっとめんどくさそうな顔をした。しばらく、大学の話とか、高校のときの友だちの話とかをして、話のテンポに隙間が空いたとき、先生がポイと投げ出すみたいにつぶやいた。


「あなたはそんなにニコニコしてちゃだめだよ。そんなに丸くなっちゃだめだよ」


な、な、なんだそれ!

そのときは言われていることをとっさに処理できず、「えっなんで……」と口走り、「おもしろくないなあと思って……別に適当に言っただけなのでいいですけどね」みたいなことを言われた記憶がある、いや、ぜんぜんよくない。ぜんぜんよくない!
なんでおまえにそんなこといわれなきゃいけないんだ、という反感もさることながら、あのときあんなにわたしに無関心だったじゃないか、そして、先生はわたしにずっと死に瀕した女子高生でいてほしかったのか、という衝撃で、ほかの会話をほとんど忘れてしまった。

と、いうことは、だ。
現代文の先生はあのころ、ほかの先生同様わたしを問題児だと思っていて、その上で無関心を装っていたのかもしれない。ぜんぜん教師としての職務を果たさないやつだなと思っていたけれど、とんでもない誤解だったのかもしれない。
だとしたら、そんなことですらっと心をひらいたわたしは、いったい……?


それ以来、先生には会っていない。
そういうわけで、現代文の先生がわたしにしてくれたことを心のどこにしまっておくか、わたしはまだ決められていない。
なんせ、人をけむにまくところのある人なのだ。

                           (向坂くじら)

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