ベネズエラのガイタを、どう聴いたら良いのか|日本でのリスナーを増やすためのリズム・スキーマ

はじめに

南米のベネズエラには「ガイタ(Gaita Zuliana)」という音楽がある。私はガイタが大好きだ。しかしながら、ガイタを聴いている日本人というのはとても少ない。
というか、自分以外に熱心にDigしている人を見たことがない。2年前に上記のツイートをしたが、その後も自分が世の中を検索する限りにおいて、状況は変わっていない。

「あ〜日本でもガイタが流行ってくれないかな〜」などとボンヤリ考えながらシャワーを浴びていたある日、ふと「日本でガイタが流行るために、お前は何か貢献しているのか?」という問いが頭の中に流れ込んできた。
これまでもnoteにガイタのことを書いてはいた。だが、それは単に自分の感想をまとめるための文章であり、日本のガイタリスナーの増加に寄与するものとは言い難かった。

同じ日、たまたま読んでいた名著『音楽知覚認知ハンドブック』に、以下の記述があった。

幼少時から様々な楽曲を聴くことで自分でも気がつかないうちに、また明示的な音楽教育によっても、個々の楽曲を越えて一般化された、音楽処理のためのスキーマが形成される。それは特定の音楽文化の成約を受けており、同じ音楽文化内の曲ならば、初めて聴くものでもある程度理解することができる。しかし、経験のない現代音楽や民族音楽などは、既存のスキーマでは処理できないため、そもそもどのように聴いたらよいかもよくわからない。聴き所を教えてもらったり、何度も聴いて自分なりに聴き方を模索したりすることで、スキーマが拡張されて、理解できるようになる。また、スキーマに基づく次の音への期待と、それに対するタイミングや音高や和声の逸脱などによる、期待への裏切りが、音楽的感情の基礎であると考えられる。

『音楽知覚認知ハンドブック』P95 強調は筆者

なるほど。もしかしたら日本でガイタが流行らないのは、日本人がガイタという音楽を「既存のスキーマ」では処理できず、そもそもどのように聴いたら良いか分からず、ガイタに価値を見い出せないからではないか。
自分の場合、聴き所を教えてくれる人は誰もいなかったので、ガイタを何度も聴いて自分なりの聴き方を模索した。けれども他の人は聴き所さえ分かれば、スキーマが拡張されてガイタを楽しめるのではないか。

上記がかなりの希望的観測であることは重々承知しているが、人生には希望が必要である。ここから先の文章は、私が思う「ガイタの聴き方」=スキーマを提示することで、日本のガイタリスナーの増加を目論んだものである。


6/8拍子の2拍目アクセント

6/8拍子の2拍目

ガイタとは、6/8拍子の2拍目にアクセントを置くことである。
この定義は筆者のオリジナルであり、決して一般的な定義ではない。また、必ずしも全てのガイタが6/8拍子の2拍目にアクセントを置いているとは限らない。
だとしても、日本人がガイタを聴く時、まず持つべきリズムのスキーマはこれだと、私は思う。

例えば、ガイタのリズムを支える楽器であるTambora(タンボーラ)では、以下の動画のようなリズムパターンを叩く。

このショート動画は、タンボーラにGolpe viejo(古いビート)とGolpe nuevo(新しいビート)という2つのパターンがあることを解説している。その違いは6/8拍子の3拍目にキックを叩く(viejo)か、リムを叩くか(nuevo)の違いである。
逆に言えば、それ以外の変わらない部分が、ガイタをガイタたらしめている要素だとも言える。すなわち、6/8拍子の2拍目と5拍目にキックを叩くこと、である。

Golpe ViejoとGolpe nuevoの比較。6/8拍子の2拍目と5拍目にキックを叩くことは変わらない。

8分音符なのであえて6/8拍子と書いているが、実際の聴感上は3/4拍子で捉えた方が分かりやすい。仮に3/4拍子を「ち・い・ん」と表現するならば、ガイタは「い・にい・さん」というリズムになる。

3/4拍子を「いち・にい・さん」で表現した場合の、ガイタのリズム感

後段の「さ」でもキックは叩くのだが、ここは3/4拍子のタイミングとも一致しているので、あまり緊張感がない(弛緩している)。逆に、前段の「い」は3/4拍子から外れたところにアクセントがあるので、緊張感がある。
つまりガイタは、リズムパターンの中において緊張と弛緩とが繰り返されており、楽典から言葉を拝借するならば、ずっと「解決」し続けているリズムなのである。

遅れてくる4つ打ち

他方で、タンボーラのリズム(ここではGolpe nuevaとする)を「カカカカ」と表現してみる(リムショットが「カ」で、キックが「ド」である)。
これが繰り返されると「カカカカカカカカ」となるが、よく見ると4つの「ド」が(2つの「カ」を挟みつつも)それぞれ等間隔で出現している。つまり、これは「ド」だけを抽出すると4つ打ちなのである。

一般的な(クラブミュージック的な)4つ打ちは、4/4拍子で「ち・い・ん・い」とキックを打つが、ガイタを6/8拍子で捉えると「いち・にい・さん・しい」とキックを打つことになる。

譜面で表すとこう。キックは2つのリムを挟みつつ、等間隔で出現しており、4つ打ちである。

この8分音符1つ分遅れて打たれるキックをどう捉えるかは個人差があるかもしれないが、私としては4つ打ちの特性として、ある種の安定感があるように思われる。

つまりガイタは、3/4拍子で捉えると解決しっぱなしのジェットコースターだが、6/8拍子で捉えると均等で安定しているという、相反する要素が畳み込まれたリズムパターンなのである。
こう書くと凄いことをやっているようだが、実際の作業としては6/8拍子の2拍目にアクセントを置いただけである。非常にシンプルなことのように思える反面、ガイタの他にこのリズムを採用している音楽があるかと言われると、意外と見つからない。

三拍子の拡張

私がガイタに価値を見出している大きな理由は、こうした三拍子のリズムの拡張性にある。

注|本文では「三拍子」という言葉を、3/4拍子と6/8拍子を包含した概念として使用しています。
また、同様に「四拍子」という言葉を、4ビート・8ビート・16ビートなどを包含した概念として使用しています。

欧米や日本のポップミュージックにおける四拍子には、皆が競い合ってリズムの拡張をしてきた歴史がある。しかしながら三拍子については、同様の拡張が行われてきたとは言い難い。

まだまだ三拍子には可能性があるのではないか、そこが残されたフロンティアなのではないか、という根拠のない直観が私にはある。
そうした直観を念頭に、ガイタが持っている三拍子の拡張性について、私に把握できたものを次項以降も上げていく。

アウフタクト(弱起)の拡張

もう一つ、ガイタを聴く上で持っておきたいスキーマが、アウフタクト(弱起)の拡張である。
アウフタクトとは、Wikipediaから引用すると「あるフレーズが、小節の最初からではなく、その前の小節の途中から開始する」ことである。

アウフタクトはJ-Popにおいてもよく使われる。四拍子の楽曲はもちろんのこと、日本でヒットした三拍子の楽曲を思い浮かべてみると、平松愛理「部屋とYシャツと私」、木村 弓「いつも何度でも」などはサビがアウフタクトである。

では、ガイタにおいて、アウフタクトはどのように拡張されているのか。
それは、上記Wikipediaの記述に即して言うと、しばしば「あるフレーズが、小節の最初からではなく、その前の前の小節の途中から開始する」のである。

どういうことか。例として、Gaiteros de Pillopoが1985年にリリースしたヒット曲「El Barbero」の歌い出しを聴いてみたい。この曲はいわゆる「サビから始まる曲」であるが、サビの頭に到達するまでには1.5小節分のアウフタクトがある。

私は初めてガイタを聴いた時、このアウフタクト拡張のスキーマを持ち合わせていなかった。故に、サビの頭がよく分からず、自分がいま何小節目にいるのか迷い、楽曲構造を把握するのに時間を要した(が、これを読んだあなたはスキーマを得て、ガイタを適切に処理できるようになるだろう)。

「El Barbero」の歌い出し。1.5小節分のアウフタクトがある。

四拍子の音楽においてアウフタクトが1小節を超えるケースというと、先のWeb記事にも登場する森山直太朗の「陽は西から昇る」などが思いあたる。しかしながら、その出現率で考えると、かなりレアなケースである(私がガイタ以前にアウフタクト拡張のスキーマを有していなかったのも、その聴き慣れなさに由来している)。

四拍子のアウフタクト拡張がレアなのは、それをやると楽曲に「間延び」が生じやすく、音楽的に使いづらいからだと考えられる。
しかしながら三拍子では、その1拍分の短さゆえに「間延び」が生じず、1小節を超えるアウフタクトが音楽的に使いやすくなるのである。

アウフタクト拡張の音楽的効果

では、この1小節を超えるアウフタクトには、どのような音楽的効果があるのだろうか。
そもそもアウフタクトというのは(一般的な四拍子の音楽においても)その音楽的効果の文章化が難しいところである。よって感覚的な話になることをお許し頂きたいが、「楽曲に円環性が出る」というのが私の意見である。

尻尾を頭が喰うウロボロスのように、フレーズの終わり(尻尾)と始まり(頭)を長いアウフタクトで連結する(喰う)ことによって、楽曲に円環性が出る……ということが言いたいのだが、言葉だけだと伝わりづらい気がする。

例えば先程の「El Barbero」でいうと、サビが16小節を1単位として2周するのだが、実際のフレーズ上は14.5小節目で1周目が終了しており、残りの1.5小節は次の2周目に向けた長いアウフタクトとなっている。結果として、サビの終わりと頭が連結されたような形になり、楽曲に円環性が出る。

サビの終わりと頭が連結されたような形になり、楽曲に円環性が出る。
本当は円形楽譜で表現したいところだが、筆者に技術がないため通常の楽譜で表現。

この「円環性」という感覚は、言葉や譜面だけでは伝わりづらいところがあるかもしれない。補足的に、日本における円環性楽曲の例として「直爺さんポチ連れは幾万ありとてしもしアカア〜」と続く「しりとり歌」を挙げたい(口承歌なので知らない人もいるとは思いますが)。

このしりとり歌は曲の最後で「皐月の鯉の吹き流し 何て長いんでしょう(正)直爺さん〜」と、歌のお尻と頭が連結しエンドレスにループする。私は幼少期に親からこの歌を教わったのだが、歌がループして頭に戻ってくる感覚が子供ながらに楽しく、ずっと歌い続けていた記憶がある。
私がいまガイタに抱いている円環性というのは、このエンドレスしりとり歌に感じていた円環性にかなり近い。たとえ音韻的にしりとりができなかったとしても、アウフタクトを拡張することで楽曲の頭とお尻の境目が曖昧になり、楽曲のループ感が増すのである。

上記を踏まえて、私はしばしば、ガイタの音楽性が万華鏡のようだと思う時がある。
万華鏡の一般的な構造は三角柱だが、内側を鏡張りにすることで辺と辺の境目が曖昧になり、結果として無限の世界が広がっているように見える。

ガイタも同様に、構造は三拍子だが、アウフタクトの拡張等により各パートの境目が曖昧になり、結果として無限の世界が広がっているように聴こえるのだ。

その他の音楽的特徴との相乗効果(Coro-Cantaの連結)

ここまで感覚的なことを書いてきたが、これ以外にもアウフタクトの拡張には、ガイタの他の音楽的特徴と組み合わさることによる相乗効果がある。

その1つが、コロ(Coro)カンタ(Canta)の連結がスムーズになることである。ガイタの楽曲構造には、1人のボーカリストが歌うカンタ(Canta)の部分と、皆で合唱するコロ(Coro)の部分とがある。

ガイタのグループの例(Elite Gaitera)。5人のボーカリストがいるが、この曲では一番左の女性(Ingrid Alexandrescu)がCantaを取り、残りの4人は賑やかしやCoroに徹する。映像は https://www.youtube.com/watch?v=WHD7kmhLSaw を参照のこと。

Coro-Canta自体は他のラテン音楽(サルサなど)にも見られる形式だが、ガイタでよくあるのは曲のヴァース(サビまで)をCantaが歌い、コーラス(サビ)をCoroで合唱するパターンである。
再びGaiteros de Pillopo「El Barbero」を参照すると、この曲もヴァースをCantaが歌い、サビをCoroで合唱するパターンになっている。

「El Barbero」のヴァースからコーラス(サビ)まで。

ここでCoroがアウフタクトを拡張すると、上図のようにCantaがヴァースを歌い終える前にCoroが並走してスタートすることになる。結果としてCoro-Cantaがスムーズに連結されることになり、サビへの淀みない突入が実現するのである。

三拍子のシンコペーション/アンティシペーション

ガイタのリズムにおける音楽的特徴を挙げるとキリは無いが、このnoteで最後に挙げたいリズムのスキーマは三拍子のシンコペーション/アンティシペーションである。(両者の違いは以下リンク先なども参照のこと。日常的にはあまり区別されず「シンコペーション」とまとめられる傾向にあるため、本文でも以降は両者をまとめて「シンコペーション」と表する)。

シンコペーション自体は全く珍しいものではないし、ポピュラー・ミュージックにおいて日常的に耳にするものだ。ただ、ここで想像力を働かして、いままで三拍子のシンコペーションなるものを聴いたことがあるか考えてみてほしい。

先に「日本でヒットした三拍子の楽曲」として平松愛理「部屋とYシャツと私」と木村弓「いつも何度でも」を挙げたが、これらはいずれもキレイに表拍を打つ音楽である。
もちろん、「部屋とYシャツと私」というJ-POPにおいて裏拍を打つ必要は全く無いし、清水信之の編曲はあるべくしてこうなっている。だが、それでもなお私が本曲に言及するのは、ポップ・ミュージックが三拍子に向き合った際の典型的なリズムの取り方が、本曲に見い出せると考えるからである。

四拍子の音楽で多少なりともダンサブルなものを作ろうとすれば、自ずとリズムはシンコペーションするものだ。では逆に、裏拍にアクセントがなく、表拍ばかりを打つ三拍子の楽曲はどうなるかと言えば、踊れないのである。
先に「四拍子では皆が競い合ってリズムの拡張をしてきた」と書いたが、それは「いかに踊れる音楽を作るか」という探求の結果でもあった。ここから「なぜ三拍子はリズムの拡張が行われなかったのか」という問いへの回答も、自ずと導かれる。つまり、踊れる三拍子という概念がなかったのである。

こう書くと「ワルツはダンスミュージックじゃないのか」と言われそうだが、
ここでいう「踊れる」というのはポップ・ミュージックの文脈におけるそれであり、
社交ダンス的な文脈におけるゆったりした踊りを意味しているわけではない。

さて、ガイタは三拍子の音楽ではあるが、他のアフロキューバンの音楽と同様、シンコペーションがリズムの肝となっている。
ここでは例として、 Los Algres Gaiterosの「El Ayayero」を聴いてみたい。

先に述べた「6/8拍子の2拍目アクセント」でリズムがシンコペーションしているうえ、歌メロディにも裏拍へのアクセントが効果的に置かれている。フロントマンを務めるNelson Romeroの特徴的なダンスも相まって、まさに「踊れる三拍子」である。

ちなみに、本曲の大ヒットで"El ayayero"が通り名となったNelson Romeroは、ベネズエラのスーパー・バンド:GUACOの80年代後半におけるガイタ・ナンバーの主要作曲家でもあった。
最後に、Nelson Romero作曲でGUACOが1989年に発表した名曲「La Placita」を聴いてこの章を閉じたい。ガイタで踊れ

おわりに

日本のガイタリスナー増加のために「ガイタの聴き方」=リズム・スキーマを提示するという本文の目標は、ここまでで一旦達成されたように思われる。


実はガイタを知るまで、私は三拍子の音楽というのが苦手だった。
巷の三拍子はどの曲も似たようなリズムパターンであり、進化がなく、退屈でつまらない、思考停止の音楽だと思っていたのである。

上記のWeb記事などからも伺い知れるが、日本には「三拍子=ワルツ」という固定観念がある。これには、3/4拍子の音楽をすべて「ワルツ」と称するジャズ文化からの影響等もあるのだろう。
しかしながら、クラシックなワルツを念頭において考えると、三拍子の音楽が全てワルツなのではない。これは非常に大事なことである。確かにワルツは三拍子の音楽である。だが、三拍子の音楽が全てワルツなのではない

「三拍子=ワルツ」という固定観念の先には何も生まれない。本当は三拍子にはガイタがあるし、それ以外にもリズムの拡張性があるはずなのである。


一応補足すると、2010年代のアニソン文脈においては、楽曲のBメロのみを三拍子にすることでメリハリをつけるブームがあった。

また、2010年代のヒップホップにおける三連符の流行など、この10年で音楽における「3」の受容には進展があったように思われる。

ただ、これらはあくまでも四拍子を前提とした、「4」を引き立たせるための「3」であり、三拍子を主体とする拡張ではなかったように思われる。


現実的には、日本人のリズムの基本スキーマは四拍子である。
仮にあなたがプログレッシブな音楽を愛好していたとしても、それを「変」拍子だと認識するときには、必ず四拍子との対比がある。

だとしても、「4」が「3」に置き換わる世界を、私は夢想する
まだまだ三拍子には可能性がある。そこが残されたフロンティアである。根拠はないが、私はそう直観している。

この文章が、日本におけるガイタの受容、さらには三拍子音楽の発展に、1ミリでも貢献できたとしたら望外である。


追記
文章だけではない実践として、全曲3拍子のアルバムを作りました!

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