見出し画像

熊代亨『「推し」で心はみたされる?』刊行記念トークイベント@阿佐ヶ谷ロフトA

「推し」から考える SNS時代の心のみたし方

https://twitter.com/twit_shirokuma/status/1747887212069536171

前提:熊代先生の本やTwitter、はてなブログは以前からフォローしていたが今回は書籍を読まずに行った。その上で、トークショー中に私がメモしたこと、感じたことをまとめようと思う。
※仕事以外でまともに文章を書く行為が久方ぶりなので稚拙な文章になっておりますことご容赦ください。
※下記文章中のダブルクォーテーション「""」は私のメモ由来(≒熊代先生の発言由来)です。

「推し」とは何か?

 私たちの承認欲求をはじめとした社会的欲求、自己愛心、ナルシシズムというものは2010年代からのSNSで大いに共有され、発散され、いいね!されてきた。
しかしながら、SNSで繋がっていることが当たり前で、常にSNSを確認し、いいねやコメントに一喜一憂して、時にはアナリティクスを用いるまでになった2020年代、私たちは"いいね文化に疲れている"。
 同時に、2020年代にはそれまで一部オタク界隈(特にアイドル)で頻出の「推し」、また「推し」を推す「推し活」なる単語が人口に膾炙した。「推し」とは、(地下)アイドルに始まり、アーティスト、声優、アニメ・漫画のキャラクターといったサブカルの担い手たち、音楽・芸術アーティスト、スポーツ選手、俳優・女優、アナウンサー、モデル、芸人、YouTuber、VTuberといったメディア露出の多い人たち、もっとミクロには個々人の友人、恋人、職場の上司・先輩など、「推し」たりうる存在の枚挙には微塵のいとまもない。
 つまり、「推し」は、"自己完結した自律した人間"になりえない私たちに"ナラティブ(物語)を提供し"、ナルシシズムをみたしてくれる"社会的に重要"な存在なのである。
 だから、コロナ禍によって分断された私たちは「推し活」をして楽しく自己実現し、"承認欲求を補填する"ようになったのだ。

「悪性の推し」は何とかなるか?~「推し」との距離感

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231114/k10014257791000.html

 2023年、悪質なホストクラブ利用の女性被害に政府が規制と支援を入れる賛否が話題になった。いわゆるホス狂いによる売掛金問題である。
 このように、推す側にも推される側にも過失が考えられる「悪性の推し」も存在する。他には、地下アイドルを推すがあまりストーカーしてしまうだとか、推される側が推されることの負荷に耐え切れずメンタルを崩してしまうだとか。#ちょっと違う?
 要は「推し」との距離感の問題であり、熊代先生の専門のコフートのアプローチは健常でない精神の持ち主を想定していない。「推し」との距離感についてはコフートよりもカーンバーグが厚いとのことだ。コフートについては下記2冊の紹介があった。

  • 和田秀樹(2002):〈自己愛〉と〈依存〉の精神分析―コフート心理学入門、PHP研究所[PHP新書]

  • 和田秀樹(2002):壊れた心をどう治すか―コフート心理学入門II、PHP研究所[PHP新書]

 ここで最初の質問タイムが挟まれ、実は私が質問した。私はMBTIが基本的にINFPとINTPをいったりきたりする人間であり、他人へのホスピタリティと知的好奇心が強く、よく言えば他人の長所を見つけるのがうまい。ゆえにこう質問した。「ミクロマクロ問わず、推しが多すぎて困る。距離感が難しい。」
 「悪性の推し」と絡めて社会適応の問題になってくる。私は「推し」を通して有機的連帯を築いて生きていけたら楽しいだろうなあと思っている。
 私の質問に熊代先生は掲題書にもあるとおり、"推しはそろそろと推す"、"推すタイミング"を図るといったアドバイスをくださった。"挨拶はログインボーナス"、めちゃめちゃ共感した。あとは、「王を射んとすれば馬を射よ」的な。そういうズルい社交術を身につけていきたいものだ。

「推し活」の堅苦しさ

 つぎの方が別の質問をした。「推しのファンコミュニティーに参加するのが難しい」、と。確かに、「推し」との物理的・心理的距離が近い場合、"自治厨だとか古参新参だとかのしがらみ"が発生しがちだ。
 ファンコミュニティーで私たちは"不自由な魂"になっていないか。周りと「推し」への課金額を競ったり、ルールを遵守しない者がいないかと腐心したり。もう使われないがコミュニティーの中での"キョロ充"とは言いえて妙である。

「萌え」た2000年代

 横並びのコミュニティーが発生する「推し」とは違って、「萌え」は「推し」との"1ON1"だった。というのも、2000年代初頭に隆盛を極めた"エロゲというインターフェースは1ON1が前提"だったからだ。部屋に閉じこもりがちの一部のオタクたちが「萌え~~」と叫ぶ。これがオタクの始まりだったように思う。
 しかしながら、2005年「電車男」で"奥ゆかしく隠微な「萌え」が変質した"。すなわち、「萌え」のオープン化である。人々は「萌え」をシェアするインフラストラクチャー(=にちゃんねる、実況掲示板など)を手に入れ、さらにはTwitterをはじめとしたSNSで「萌え」ていたのである。
 なんというか、ルースベネディクト『菊と刀』を想起した。すなわち、「推し」に対して「恥の文化」が働いているから水平方向の横並びのコミュニティーが発生し、対照的に「萌え」は「罪(sin)の文化」であるから垂直方向の1ON1なのである。#だって「ネ申」ってそういうことですよね。

古参オタクはどう立ち振る舞えばよいか?

 往々にして古参オタクは新参者をニワカ扱いし、厄介オタクとなりがちだ。オタク文化が根付いて20年は経っている。そう、長く一人の「推し」を推していると自分も「推し」も周りも変わるのは当然である。
 "「推し」と自分との関係は変わっていくもの"という前提を意識しながら”逐次「推し」との関係をmodifyする”のが嫉妬だとか解釈違いだとかに囚われないコツとなる。
 #キレイすぎるコミュニティーもそれはそれで居心地が悪そうと思う。私の「推し」のラジオに寄せられる投稿がどれも清潔で道徳的で健全な点に辟易しているが、番組は20年を突破したし、やはり未だに聞き続けている。

子供を「推す」

 最小の社会集団は家族である。超正常刺激によって赤子を無条件にkawaiiと感じるようにプログラムされている私たちは子供を推しがちだ。
 "子供は自由意志が薄いので、「推し活」が不健全に進んでいってしまい”、それが「毒親」だとか「親ガチャ」「こどおじ」といったミームを生んでいったのだと思う。コフート曰く、"子供時代の親子関係によって子のナルシシズムは形成される"ので、子育てには常に博打性が伴う。熊代先生新作の『人間はどこまで家畜か』にそのテーマは書かれているそうだ。
 #現代人の健康的で清潔で、道徳的な秩序ある生は完全にデスティニープランですありがとうございます。東京に住んでいるとつとに感じますねこれ。

究極の「推し」とは?

 結婚・不倫・炎上・蒸発・死亡…。オタクは「推し」にまつわるニュースをいやというほど収集してしまう生き物だ。それらに一喜一憂し、時には想定外の振り切った行動に出てしまうことだってある。
 そんな私たちオタクにとって究極の「推し」とは何かという質問があった。当たり前だ、神である。そも宗教的な崇拝の対象(=偶像)をアイドルといったのだし、宗教とは基本的にこころの安息の答えを与えてくれるものだからだ。"宗教的な自己対象が存在するおかげでうまく生きられる"のもそうだし、寺院・教会といったフィジカルな居場所だって提供してくれる。
 #高校のころ、世界史の恩師がアイドル(そのころはAKB48が流行っていた)の多様化と日本におけるアニミズムによる崇拝対象の多様化を重ねて話していたのを思い出した。
 #大学で一神教について学んだおかげかこの結論は想像に難くなかった。


きゃなーじゃなくて「きゃな」と申します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?