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遊びを生む脳のデザイン

 仮に人生に意味があるとして、我々は何のために生きているのだろう。子孫を残すため、というのは一応一つの答え方だと思う。少なくとも我々の誰もが、同時代人の中で不釣り合いに多くの子孫を残した祖先を持っている。恋愛、嫉妬、親としての愛情、身内びいきなど、祖先から受け継いだ強烈な衝動に駆られ、ヒトは、他の動物と同様、あたかも子孫を残すことが目的であるかのように生きてきたのではないか。

 しかし、社会全体が物質的に豊かになり、栄養、衛生、安全の面で子孫を残しやすい条件が整うや否や、ヒトはどういう訳か一斉に子供の数を減らし始める。歴史の上で繰り返されてきた不思議な現象だが、環境による制約が緩んだ時、ヒトが躍起になって追い求めるのは、「社会的成功」、「贅沢な暮らし」、「自分の時間」等、必ずしも子孫を残す役には立たない事柄であるようだ。

 他の動物と比較した時のヒトらしさは、むしろ子孫を残すのに役立ちそうもない事に血道をあげるところにあるのかもしれない。ヨハン・ホイジンガ(注1)は、ヒトにホモ・ルーデンス、すなわち遊ぶ人というニックネームを与え、この点を指摘している。ホイジンガの言う遊びは、必ずしもヒトに限定されないが、何らかの生物学的目的に役立っているというのではなく、ただ「面白さ」というそれ以上根源的な概念に還元することのできない理由で行われるものである。

 ヒトはなぜよく遊ぶのだろうか。ヒトの遊びはなるほど多彩だが、それは決して恣意的な活動の羅列ではない。面白さが感じられるのは一部の行為で、それのみが遊びとして成立しうるのだろう。遊びの起源について示唆を得ようとするなら、まず遊びを記述、分類し、ヒトが何に面白さを見出すのか、その隠れた法則性を浮き彫りにする必要がある。これは詰まるところ、面白いという感覚の生理学的基盤に内在する秩序、言い換えれば、脳のデザインを発見する作業である。既にこの問題に着手しているロジェ・カイヨワ(注2)によれば、遊びの空間は四つの項目、アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)により分割できるという。それぞれの役割が優位を占めるのは、例えば、サッカー、星占い、ままごと、ジェットコースターにおいてだ。

 ところで、ヒトの遊び好きは昨今に限った事ではない。デレク・ビッカートン(注3)は、ヒトの言語能力が、他の動物が持つのと同じようなコミュニケーション能力から徐々に派生してきたことを前提として、言語の起源を論じている。ヒト以外の動物のコミュニケーションは、ある個体が発した信号を他の個体が受け、その結果として後者の行動に変化が起こることで成立する。信号は、生存、繁殖、社会関係のいずれかと直結した特定の状況において発せられ、それ以外の状況下では意味を持ちえない。一方で、ヒトの発話や身振りは、これらと無関係なあらゆる状況においても意味を持ち、情報を伝達している。要するにヒトの言語は、他の動物のコミュニケーションから分岐して以降、遊びを含むようになったのである。

 遊びの面白さを生み出す脳のデザインが、長い年月にわたり、様々な領域でヒトの文化に影響を及ぼしてきたことは想像に難くない。想像がつかないのは、このデザインがヒトの脳に備わった経緯である。自然界にデザインを創造するのは自然淘汰の働きだ。特定の性質を持つ個体が他の個体より多くの子孫を残すことにより、その性質が選択的に後世に受け継がれる。この選択性が一貫して作用するとき、偶然ではありえないような機能的デザインが出現するのだ。しかし、もし遊びが「生物学的目的に役立たない」ものであるなら、遊びを促すという理由で脳のデザインが出現することは原理的にありえない。実は遊びの面白さは、全く別の理由で生じた脳のデザインの副産物に過ぎないのだろうか。もしそうなら、デザインの原因となった直接の淘汰圧は一体何だろう。そして、その淘汰圧はなぜヒトにだけ存在したのか。今のところこれらの疑問に答えることはできない。


(井原泰雄)

注1 J・ホイジンガ著 高橋英夫訳 「ホモ・ルーデンス」 中公文庫 1973

注2 ロジェ・カイヨワ著 多田道太郎・塚崎幹夫訳 「遊びと人間」 講談社学術文庫 1990

注3 Derek Bickerton, "Adam's Tongue: How Humans Made Language, How Language Made Humans", Hill and Wang, 2009.

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