見出し画像

「母親の嘆き仮説」の検証

わたしたちヒトの子供はいろいろな人に世話をされて育ちます。両親だけでなく、おばあちゃん・おじいちゃん、近所の人、保育園や幼稚園もそうでしょう。しかし、霊長類の全体で見るとそうした種はそれほど多くなく、ただひとり母親のみが子育てのほとんどを担う種が多いようです。そのため、多くの霊長類では、母親が亡くなると、幼いコドモも共倒れになります。この点に関してはこれまで多くの研究がありました*1。

しかしそれでは、幼くして母親が亡くなった霊長類のコドモが運良く生き残れた場合、その後はどうなるでしょうか。つまり、そのコドモがオトナになった後も、若くして母親を失った影響は続くのでしょうか? この点に関してはこれまであまり研究がありませんでした。

今回紹介する研究では、8つの野生の調査地で長期間の観察が継続されている7種の霊長類について、母親死亡がコドモの将来に与える影響が調べられました*2。対象種は、チンパンジー、マウンテンゴリラ、キイロヒヒ、ブルーモンキー、ウーリークモザルの北方種、ノドジロオマキザル、ベローシファカです。それぞれの調査地で対象時期の人生が観察されたコドモの個体数は、71から1123の範囲にありました。


母親死亡の悪影響は将来にわたって続く

分析の結果、未成熟期間が終わるまでに母親が死んだ個体では、その個体がオトナになるまで生き延びてから生んだコドモ (つまり孫) の生存率まで低下している種がいることがわかりました。この悪影響が見られたのはウーリークモザル、ブルーモンキー、キイロヒヒ、チンパンジーでした*3。独り立ちする前に母親を亡くしたコドモは、十分な身体発達の機会や子育ての学習機会を失い、自身が親になって子育てをしたときでもそのコドモを死なせてしまう確率が高いものと解釈できます。

ノドジロオマキザルでは、母親死亡の世代を超えた悪影響がもっとも小さいという結果になりました。ノドジロオマキザルはほかの種に比べて、母親以外の個体もよく子育てに関わる共同保育をします。ノドジロオマキザルにおいては、母親が亡くなってもほかの個体がみなしごを世話し、その子の人生の将来にわたる悪影響を低下させているのではないかと解釈できます。


コドモの死亡後に母親の死亡率も増加している

もうひとつ興味深い結果が得られました。それは、自身のコドモ (生後2歳までに限定) が亡くなった母親は、コドモの死亡から数年以内に亡くなる確率が高いというものです。この現象は、チンパンジー、キイロヒヒ、ブルーモンキー、ウーリークモザルの北方種、ノドジロオマキザルで見られました。

実はヒトでも、子供を亡くした母親の死亡率が増加するという同様の現象が見られており、「母親の嘆き仮説 (maternal grief hypothesis)」によって説明されてきました。つまり、子供を失った母親が心にダメージを負い、それによって自殺なども含め死亡率が増加するというものです。今回の野生霊長類のデータセットでも、「母親の嘆き仮説」に合致する証拠が得られている事例がひとつだけありました。

しかし、今回の研究の結果は、母親の心身の状況が悪化していたという別な仮説にも合致しています。ストレスや栄養不足などによって母親の心身の状況が悪化しており、不十分な世話や不注意によってコドモを死なせてしまっただけでなく、母親自身も生きるのに必要な資源を得ることができなくなり、我が子に続けて亡くなってしまうというものです。

これまでの研究では、ヒトの母子死亡の場合には「嘆き仮説」が、ヒト以外の霊長類の場合には「心身状況仮説」が強調される傾向がありました。しかし、ヒトでも野生霊長類でも、両方の仮説の可能性を検討するべきではないかという提言がなされています。その際には、母親のストレスなどを測定できるバイオマーカーの研究をあわせて実施すると、死亡原因の詳細が明らかになることでしょう。


おわりに

霊長類は寿命が長く、世代交代にかかる時間も長いため、子供や孫にまで伝わる影響を調べるには、何十年もの時間をかけて地道な調査を継続する必要があります。世界中に数百種存在する霊長類のなかで、ごく一部の種でだけ、今回紹介した研究で用いられたように、世代を超えた影響を満足に見られる長期間のデータが蓄積されています。そうしたデータから得られた知見は、私たちヒトの人生や生活を進化の視点から捉えなおす際にも有用です。短期的な視点では役立たずに見える研究でも、長く継続することで非常に有用なデータを提供してくれることになるのです。
(執筆者: ぬかづき)


*1 たとえば、Nakamura M, Hayaki H, Hosaka K, Itoh N, Zamma K. 2014. Orphaned male Chimpanzees die young even after weaning. Am J Phys Anthropol 153:139–143.

*2 Zipple MN, Altmann J, Campos FA, Cords M, Fedigan LM, Lawler RR, Lonsdorf E V., Perry S, Pusey AE, Stoinski TS, Strier KB, Alberts SC. 2020. Maternal death and offspring fitness in multiple wild primates. Proc Natl Acad Sci 118:e2015317118.

*3 チンパンジーに関しては統計検定で有意差が出ませんでしたが、孫個体数のサンプルサイズが小さかったためではないかと著者らは論じています。チンパンジーにおける母親死亡の悪影響は7種のなかでもっとも大きい値を示していました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?