見出し画像

はじめてのおっぱい

勝手な印象や思い込みによって,理にかなわない行動をとってしまうことが多々あります.匂いにだまされて銀杏はまずいものと思い込んでいたり,薬やマスクは花粉症に対してあまり意味がないと決めつけていたのに,用いてみたら思いのほか快適だったり,様子がおかしいことにうすうす気づきながらも電車に乗り続けていたらまったく違う駅についてしまったり...

このような思い込みが,赤ちゃんにはじめてあげる母乳についても見られるのではないかという研究が報告されています*1.


「はじめてのおっぱい」

赤ちゃんを産んだあとの数日間だけ分泌される母乳 (初乳) は,それ以降の母乳 (成熟乳) と異なっています.この「はじめてのおっぱい」には,栄養だけでなくさまざまな免疫物質も高濃度で含まれており,母親の胎内から出てきて人生をスタートさせ,同時にさまざまな病原体にさらされはじめた赤ちゃんの健康や生存を強力に防御してくれます.

そして,初乳はその成分だけでなく,見た目にも違いがあります.黄色がかってドロッとしているのです.免疫・栄養上の重要な機能があるにもかかわらず,おそらくこの見た目のために,近代医学が普及する以前の社会で,初乳はひどい扱いをうけていたようなのです.


広く見られる初乳禁忌

Morse博士らは,世界中のさまざまな工業化していない民族集団についての記録を解析し*2,赤ちゃんを産んだあとどのくらい経ってから実母による授乳が始まるかを調べました*1.その結果,120の文化のうち,42%にあたる50の文化で,実母による授乳が始まるのは生後2日を過ぎてからでした.この多くの文化で,もらい乳や,初乳に替わる食物が赤ちゃんに与えられていました.

初乳をあげない理由はさまざまで,けがれている・毒である (16例),子供を病気にし嘔吐や下痢をおこす (5例),不健康・便秘をおこす (3例),消化できない (2例),などと考えられていたためでした.

初乳には大きなメリットがあるのに,思い込みによって初乳をあげない「理にかなわない」習慣が,広く存在していたことが明らかになりました*3.


文化人類学者の思い込み

なぜ初乳をあげない習慣が広く見られるのか,人類学者たちは頭を悩ませてきました.初乳をあげないことによって,不衛生な環境では特に赤ちゃんの死亡率が上がるので,こうした習慣は適応的ではないはずです.しかしその一方で,初乳に関する報告には再検討の必要があるとする意見もあります.

WHOの報告書のなかでは,同一文化のなかにも実際は個人ごとのばらつきがあって,初乳を飲ませないケースが強調されて文化人類学者に記録されたり,数滴しぼり落としただけで「初乳を捨てた」と記述されたりしていた可能性があるのではないか,ということが議論されています*4.いわば,本来はレアケースである「初乳を飲ませない」という行動を,集団に広く見られる習慣であると文化人類学者が思い込んで記述してしまった可能性があるわけです.

人間の思い込みの力というのはかくも強く重層的で,はたして真実はどこにあるのでしょうか……

(執筆者: ぬかづき)


*1 Morse J, Jehle C, Gamble D. 1990. Initiating breastfeeding: a world survey of the timing of postpartum breastfeeding. Int J Nurs Stud 27: 303−313.

*2 Human Relations Area Files,略してHRAFと呼ばれる資料が用いられています.最近は電子化されてeHRAFとなっています (参考: Human Relations Area Files (略称 HRAF フラーフ) - 国立民族学博物館).

*3 ここで注意したいのは,そうした「理にかなわない」習慣に犯人はいないということです.母親を非難する向きもあるかもしれませんが,初乳をあげないことが習慣化した社会では,初乳をあげるという選択肢がそもそも選べない・考慮にあがらないようになります.また,授乳や離乳は母親だけの意思で決められるものでもなく,家父長制,労働形態,文化の規範などによっても大きく影響されます. (参考: 金子省子. 1995. 授乳の実態と母親の母乳哺育観に及ぼす社会的要因の影響. 日本家政学会誌 46: 941−949.)

*4 WHO. 1998. Complementary feeding of young children in developing countries: a review of current scientific knowledge. Geneva: World Health Organization.


表紙画像はThe International Breastfeeding Symbolを改変して利用しました. (参考: International Breastfeeding Symbol) - Wikipedia)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?