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【書評】おいしそうな『マレー諸島』

ここで紹介する書籍『マレー諸島』は,ダーウィンと同時期に進化の原理を発見していた博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスによる,19世紀マレー諸島の科学探検記です.

この記事では特に,本書を,食べものの観点から眺めてみます.というのも,登場する食べものの記述が,その,実においしそうなのです…….でもその前に,本書の位置づけを,簡単に説明しておきましょう.


標本採集ビジネス科学探検

ウォレスは,1854−1862年 (当時のウォレスは31−39歳) のあいだに,主に現在のマレーシアとインドネシアにあたるマレー諸島に標本採集のビジネスに出かけました.その探検の記録をまとめたのが本書です.

ウォレスは,マレー諸島に固有の鳥や昆虫や哺乳類を採集しては標本にし,英国に送って,仲買人に売りさばいてもらい,その利益を元手にさらに探検をつづけました.こうした探検ビジネスと並行して,自身が興味を持っていた生物の進化に関する研究も進めており,随所で論文を書き,英国に送って学会に発表したりもしていました.

巻末の解説で新妻昭夫氏が述べているとおり,ウォレスがそれまでの探検博物学者と違っていたのは,国家事業としての探検隊や調査隊ではなく,現地の交通網を使って,個人ベースで,半分は標本採集ビジネスとしての探検をつづけたことでした.これは,この時代になって,蒸気機関などの発明によって世界の交通網が飛躍的に発展したことと,当時の西洋社会に,「オリエンタル」な学術標本が高値で取り引きされるような大きな市場と,それを支えるだけの一般の興味が存在したことを意味します.

そうした個人ベースの探検スタイルは,本書の全体からにじみ出ています.イギリス海軍の測量船に乗船して探検に出かけたダーウィンの『ビーグル号航海記』などと比べて,ウォレスの書きぶりやさまざまなエピソードには,個人としての奮闘が感じられて,より親近感を抱いてしまうこと間違いなしです.


ウォレスの彗眼

食べ物の話に移る前に,ウォレスの,博物学者としての洞察力の深さについても述べておかねばなりません.

大陸移動や,それによって移動が制限され,生物の種が分化していく様子について,ウォレスはさまざまな考察をしています.それらの博物学的な推論のほとんどは,後の時代に,生物地理学の着実な科学研究によって裏付けられます.(彼の名を冠した「ウォレス線」なんかがその最たる例ですね).本書を読みながら,私は,これが本当に,19世紀に,ひとりの博物学者によって書かれたものなのだろうか!?と何度も驚きました.

本書のなかで,ウォレスは,ヒトの手によって希少な生物が乱獲される将来を予見します.現代の環境問題や保全というコンセプトに通じるものが,すでに登場しているのです.(とはいえ,ウォレス自身はさまざまな動物を狩猟して標本にしますが……たとえばオランウータンを狩猟する場面は,痛々しくて,読む手が震えます).

また,ウォレスの誠実な人柄も,随所からにじみ出ています.西洋社会の視点から現地の人々を見下すこともなく,あくまで対等に,人を評価しようとしている姿勢が文章から感じ取れます.(そうでない部分も,まあもちろんあるのですが,この時代に書かれた書籍にしては,かなりフラットな目線で社会を眺めていると思います).現地の人びとに,標本採集の目的などをきちんと理解してもらおうとする (でもけっきょく理解してもらえない) くだりは,思わず微笑みがもれてしまうような愛嬌にあふれています.


この挿絵は,私が本書のなかで大好きな「ウォレストビガエル」.文中では以下のように説明されています.このカエルのように,ウォレスの名前を冠した生物もいるのです.

私がボルネオで出会ったもっとも風変わりで興味深い両性・爬虫類は,一人の中国人労働者によって持ち込まれた大型のアマガエル類の一種である.その男は,このカエルが背の高い木から斜めに,まるで飛ぶように降りてきたのをまちがいなく見たと断言した.
[脚注] このカエルはウォーレストビガエルと命名され,いまではじっさいに飛ぶ (滑空する) ことが確認されている.


おいしそうなマレー諸島

ではやっと食べものの話に移りましょう.まずマレー諸島といって外せないのは,ドリアンでしょう.ウォレスはドリアンを以下のように描写します.

吐き気をおぼえさせたり気分を悪くさせたりすることはなく,食べれば食べるほどやめられなくなる.じっさい,ドリアンを食べることはひとつの新しい感動であり,そのためだけに東洋に航海してみる価値がある.

…そのためだけに! ドリアンとは最初の出会いが重要である (当たり外れがあって,まずいものを最初に食べてしまうと悪いイメージが固定してしまう) という噂もあり (参考*2),慎重には慎重を期したいと思っている私は,何度もボルネオ島にフィールドワークに出かけているわりに,実はまだ本場のドリアンを食べたことがないのです.


3−5キロおきに道端の木陰に陣取ったり粗末な小屋をかけたりした物売りがいて,サトウキビやヤシ酒,調理した御飯,塩漬けタマゴ,干しバナナ,そのほか土地の人々の嗜好品を売っていた.これらの露店ではほんの小銭で腹いっぱいの食事ができ,私たちはほの甘いヤシ酒という日中の炎天下ではなによりの爽快な飲物を堪能した.

これも,情景が目に浮かぶようです.こうした物売りの売る食べものや飲みものは,見た目は素朴なのですが,食べてみるととってもおいしくて,旅先ではなによりの安価なごちそうであることが多いのです.蒸し暑い屋外を歩いて,疲れてお腹が空いたり喉が渇いたり,そういうときだと,なおさらおいしく感じられます.

マーケットの様子.ウォレスの時代はどうだったのでしょうか.


そしてパンの実.いかがでしょう,この記述…!

私はこの地にいたあいだ,それ以前にも以後にも体験したことのないひとつの贅沢を楽しんだーそれはパンの実である.(中略) 果実を丸ごと燠のなかに入れて焼き,中身をスプーンで掻き出す.私はヨークシャー・プディングによく似ていると思ったが,チャールズ・アレンは牛乳入りのマッシュド・ポテトのようだといっていた.だいたいメロンぐらいの大きさで,芯に近いところは少し繊維っぽいが,ほかは舌触りがプディングのようになめらかで,堅さというか柔らかさはイーストを入れた焼きプディングとバター・プディングの中間くらい.これでカレーやシチューを作ったり,薄切りにしてフライにしてみたりもしたが,ただ丸焼きにするのがいちばんおいしい.甘味をつけてもよいし,塩と胡椒でもよい.肉とグレイビーソースに付け合わせたなら,私の知っている温帯と熱帯のどんな野菜よりおいしいだろう.砂糖とバター,あるいは蜂蜜をかけると美味なプディングとなり,良質のパンやじゃがいものように,かすかで微妙だが独特の香りがあり,いつまでも飽きがくることがない.

私はまだパンの実を食べたことがありませんが,この記述を読んで,これはぜひとも食べなければなるまい…と心に誓いました.でもむしろ,期待値が上がりすぎて,実物を食べたときにがっかりするかもしれません.もしそうなったときには,「あんそろぽろじすと」にパンの実を食べたけどがっかりだったよというレポートでも書いて,ウサを晴らそうと思います.

市場に並んでいたパンの実


つづけて,サゴヤシ.

生サゴをお湯で煮ると濃厚なねばねばした固まりとなり,ちょっと化粧水のアストリンゼンのような味がするが,塩とライムと唐辛子をつけて食べる.大量に作られるサゴのパンは,サゴ澱粉を溝が六本から八本くらい並んだ土製の小さなオーブンで焼き,ケーキ状にしたものである.まず生サゴを砕き,天日で干して粉にし,そしてふるいにかける.その間にオーブンを燠火で熱しておき,それにサゴの粉を軽く詰める.オーブンの上を平たくしたサゴの樹皮でおおっておくと,およそ五分ほどでよく焼けたサゴ・ケーキのできあがりだ.熱いうちはバターがよくあい,少量の砂糖とすりおろしたココナツをのせるととてもおいしい.柔らかくてトウモロコシ粉のケーキとちょっと似ているが,我が国で使われている製糖されたサゴ澱粉では失われている独特の香りがほのかにする.

良いですねこれも….私は,ちょっと化学的な風味のする食べもの (チョコミントやアニス酒など) が大好きなのです.サゴヤシのケーキって,どんな感じのものなのでしょう.風味とか食感とか,あまり想像できませんが,それゆえにますます興味をそそられるものであります*3.

サゴヤシの粉をお湯でこねて餅状にした「アンブヤット」という伝統料理 (左側)


そして最後に,

私はこの家で,どれほど幸せな日々を過ごしたことだろう.三ヶ月も四ヶ月も未開の地に出かけてはこの家に帰りつき,そしてミルクと焼きたてのパンという願ってもない贅沢を味わった.また魚も卵も肉も野菜もいつでも手に入るので,もうそれだけで健康も体力も回復した.

ああ,よくわかります.ちょっと長い旅から帰ってきて,落ち着く家で,普段ながらの日常の食事を食べるとき,安心と喜びがこみあげてくるのです.旅先の刺激に満ちた日々と食も良いけれど,こうした「当たり前」の食も本当に良いもので,旅に出ることで,そのありがたみを新鮮に感じられるようになるのですよね.


まとめにかえて

本書は,読み物としてもピカイチの面白さを誇っています.壮年の博物学者のいまだ若々しい興奮や喜びや苦労が,航海,採集,現地の習俗や自然現象を見守る視点など,いたるところから伝わってくるようです.たとえば,珍しい蝶であるアカトリバネアゲハを捕まえた際,ウォレスは「それまで経験したことのないほどの目眩を感じて卒倒しかけ」たそうです.博物学者かくあるべし,といったおもむきがあります.

また,マレー諸島にしばらく滞在したことがある人なら,「ああ,あれね…!」とわかるようなことがらも頻繁に出てきて,そうした面からも楽しめるかもしれません.「泥のなかを転げまわってから煙突のなかを這いのぼったソーセージのようだ」と評された乾燥ナマコ,襲い来るアリとの攻防,数々の体調不良と皮膚炎,いい匂いのするカユプティ油,リンゴのような果物ジャンブー・アイル,などなど.本書を読みながら,19世紀と現代のつながりを感じて,なんだか不思議な気分になったりもするのでした.

漢方薬局のショーケースに並ぶ乾燥ナマコ


ジャンブー・アイル


(執筆者: ぬかづき)


*1 ウォーレス AR (新妻昭夫 訳). 1993. マレー諸島 (上)(下)─オランウータンと極楽鳥の土地. 筑摩書房.

*2 塚谷裕一. 2006. ドリアン―果物の王. 中央公論社.

*3 この記事を書いてから,サゴヤシの澱粉をお湯でこねた「アンブヤット」という料理を食べる機会がありました (上記の写真参照).あまり味がせず,触感を楽しむような食べものだな…と思いました.

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