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AKのスピリチュアル講座7:還元論・唯物論は「錬金術」?

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前回は、人間の意識や「“死”学」について、還元論・唯物論的に扱うと、どれほど分離的になるか、ということを見てきましたが、今回は「意識論」の分野に焦点を当て、その「最前線」で還元論・唯物論がどのような展開を見せるのか、ウィルバー理論と比較しながら、より具体的に見ていきます。

■還元論・唯物論の大前提

ここに一冊の本があります。理論心理学者のニコラス・ハンフリーの意識研究の集大成と言われる本です。題名は「ソウルダスト」。以下のハンフリーの引用はすべてこの本からです。

ここでハンフリーは、人間に意識が芽生える瞬間(あるいは、感覚から思考に変わる瞬間)の真実を、純粋に科学的(還元論的・唯物論的)にとらえようとしているかに見えます。いわば、私たちが意識のうえで動物から人間に進化した瞬間の真実と言ってもいいかもしれません。
そういう趣旨の本なら、読み終わった後、読者の意識もさぞかし進化しているはずです。読者の視界が開け、一段高い場所から「人間の真実」の全体像を見晴らしているはずです。そこには視野の広がりに伴う一種の爽快感さえあって然るべきでしょう。そう、まさにケン・ウィルバーの本を読み終わったときに感じる視野の広がりと同じように・・・。
しかし残念ながら、私にはそういう感覚はいっさいありませんでした。残ったのはただ虚無感、徒労感、そして幻滅・・・。

この本を読んだ私の最初の感想はこうです。
前回、次のようなジョークを披露しました。

ある男が古いラジオを分解して、ルーペで覗いたり耳を当てたり、ひとつひとつの部品を何やら熱心に調べています。場合によっては、匂いを嗅いでみたり、嘗めてみたりもして・・・。
何をしているのか訊ねると、男は答えます。
「いやね、エルビス・プレスリーって、どんなだったかな、と思ってね」

ハンフリーは、まさにこの「ラジオ分解男」のように、人間を「物質」にまで解体し、そのうえで「意識」というプレスリーの正体を確かめようとしているかのようです。
さて、この「錬金術」を彼は首尾よくやってのけたのでしょうか?

まず驚かされるのは、彼が「人間とは、すべて物質だけでできている存在物である」という大前提に立っている、ということです。彼の論考は、まさにこの大前提から出発しています。そして、現象としての意識を「何かのようなこと」と呼び、「物質的世界にある他のどんなものとも違うように思う」と告白しています。もちろんこれは、唯物論的観点から見れば、意識はそのように見える、ということにほかなりません。
意識が「物質的世界にある他のどんなものとも違うように思う」なら、そうした自分の感覚を、彼自身の概念で言えば「センシェンス(感覚を意識すること)」すべきだったのです。つまり、さっさと物質の外に出て、その視点から人間の意識を眺めてみるべきだったのです。
しかし彼は、あくまで物質の世界にとどまろうとします。
それはそうでしょう。
他の唯物論者同様、「意識は脳の中に収まっている」と考えている以上、意識を肉体の牢獄から解放してやることはできないわけです、意地でも・・・。

■意識の理論に進化論を導入すること

人間の意識について、還元論あるいは唯物論を用いて解き明かしたいのであれば、当然「物質」(あるいは生命現象)が「意識化」する瞬間をとらえる必要があるはずです。実際、ハンフリーは、それを目指したはずなのです。その劇的な瞬間を唯物論的な観点からとらえる場合、やれ脳波だとか、脳内ホルモンだとか、REM睡眠だとか、反射だとかといった物理的(外見的)な言葉を尽くして語ってくれるなら、まだ好感が持てます。つまり、経験主義、実証主義の立場です。分解したラジオから何とかプレスリーの歌声が血肉化する瞬間をとらえたいなら、そのような方法を使うしかないでしょう。
ところが、ハンフリーはそういう方法をいっさい用いません。彼は「物質」(つまりラジオ)を「意識化」(つまりプレスリーの歌声の血肉化)しようとしたのでなく、「意識」を「物質化」しようとしたようです。彼のこうした方法論を名付けるなら「唯物論的詭弁論理学」とでも呼ぶしかありません。これは明らかに「錬金術」です。首尾よくできるはずもありません。
このままでは広く同意が得られるはずもないことを、彼自身わかっているようです。そこで彼が用意したいわば「折衷案」あるいは「妥協案」は、「意識は脳内マジックショーにすぎない」というものだったのです。意識とは、物質でなければ幻想(あるいは幻想という名の見世物)だ、というわけです。

「私たちは、感覚の意識があるのが「何かのようなこと」とはどういうことかについての理論がほしかった。そして、今やそれが手に入った。意識はあなたが自分のために用意した、ミステリアスなマジックショーだ。あなたは感覚的インプットに反応して、個人的反応として、イプサンドラム(感覚刺激に対する反応として誕生し、幻想を生み出す内的創造物)という一見すると別世界のものを創り出す。そしてそれをあなたのなかの劇場で、自分自身に提示する。あなたはいわばロイヤルボックスからそれを眺め、気がつくと別世界へといざなわれている」

彼の論理は、これ以上でもこれ以下でもありません。
「何かのようなこと」「ミステリアスなマジックショー」「イプサンドラム」「別世界」「ロイヤルボックス」・・・せっかくこうした魅力的な概念を取り揃えておきながら、それらの関係性から意識の構造自体をあぶり出すところにまでは至っていません。もし至っていたなら、たとえば意識の「無限自己言及性」に気づいたはずであり、その自己言及が極まった先に何があるのか気づいた(少なくとも問題意識を抱いた)はずなのです。
結局こうした新しい概念は、まさに(彼の理論という)劇場の見世物にとどまっています。その見世物にもっともらしいリアリティを与えるために、彼がまず最初に用意した「接着剤」は自然淘汰の法則でした。

「私たちの知っている意識は地上の生き物の特徴なので、生き物の持つ他のあらゆる特徴と同様、当然、選択有利性を与えるから進化したと考えられる。意識は、生物が生き延び、子孫を残すのを、何らかのかたちで助けているに違いない。そして、もちろんそれが起こりうるのは、生き物の外部世界とのかかわり方を意識がどうにかして変える場合に限られる」

このように言うからには、生き残りに不利な状況から有利な状況へと、意識が外部世界とのかかわり方を実際に変えた瞬間を描いてみせる必要があります。
たとえばケン・ウィルバーは、「万物の歴史」の序論で、人間の意識が外部世界とのかかわり方において実際にどのような変遷を遂げてきたかを、ほぼ100万年に及ぶ歴史のなかで、生活形態(食料調達や生殖行為)や環境との関係性、男女の社会的役割の変遷、技術革新、学問・政治体制・信仰体系の変遷などの観点において概観してみせています。
まさに、人間の意識が、動物(欲望や本能の状態)からヒト(社会性や文化を獲得した状態)に進化した瞬間から始まり、高度な文明を築いた現代にいたるまで、どのように進化してきたかを全方位的に総括してみせているわけです。
しかもこれはウィルバーのオリジナルの研究にもとづくものではなく、「進化論的心理学」(心理的習性に及ぼす生物的進化の影響を扱う)として知られる新しい研究分野の成果だそうです。ハンフリーが理論心理学者として意識研究に進化論を導入するなら、当然踏まえておかなければならない研究分野だと思いますが・・・。

確かに意識の理論に進化論を導入する試みは意欲的です。しかしハンフリーの場合、あくまで部分的、あるいはほんの「味付け」程度の応用にとどまっているようです。しかもハンフリーが応用しているとする「自然淘汰」の法則は、ダーウィン進化論の一部にすぎません。
さらに言えば、ハンフリーは現代の(ダーウィン以後の)進化論の全体像を応用しているわけではありません。現代進化論では、「自然淘汰」の法則は、ミクロのレベルでは成立するとしても、マクロレベルでは成立しない、というのが多くの理論家の合意点のはずです。
意識の理論に現代進化論を応用するなら、そもそも進化とは、ミクロとマクロの両方においてどのような性質を持ち、どのような構造において進行するものなのか(たとえば「創発」とか「ホロン」といった概念)、そうした考えの全体像を理論の基礎として導入する必要があるはずであり、そのうえで意識とは何かを語る必要があるはずです。ウィルバーは実際にそれをやっています。ハンフリーはそれを知らないのか、あるいは知っていて無視しているようです。
結局のところ、ハンフリーはあくまで唯物論を堅持したいだけなのでしょう。

あくまで唯物論を堅持しようとすると、「意識」と「物質」といった「水と油」を融合させようとするときの「接着剤」として、唯物論側から(つまりより低位の概念から)何かを持ってくるしかなくなります(ハンフリーは、唯物論が低位概念であることに同意しないでしょうが・・・)。しかし、これでうまく接着できるはずもありません。自然淘汰の法則を持ってこようが、数学的な法則を持ってこようが、結局「知の横滑り」を起こしてしまうだけで、より高い、より深い、より広い「知の基盤」へと、いっこうに開け(空け・明け)ていかないのです。

ウィルバーは「進化の構造」の中で、こうはっきり言っています。

「部分を集めて全体を組織する場合、その接着剤は部分だけが持つものよりも深いか、高い原理でなければならず、そうでなければ部分の集合は、全体ではなく単なる寄せ集めになってしまう。糸の寄せ集めは織物にはならない」

■意識はもうこれ以上進化も退化もしない?

人間(あるいは他の生き物)の意識が、より生き残りやすい方向へ向けて働いたに違いないとするハンフリーの仮説は、その通りかもしれません。ただし、あくまで還元論・唯物論的にそれを証明する(つまり「外側からの観察だけで、そのように推論できる」という論理を押し通す)のであれば、人間の行動のあらゆる局面、あるいは意識進化のあらゆる段階において、「外側からの推論」を展開してみせる必要があります。
たとえば、何不自由なく暮らす先進国の人間の意識は、原始人のそれと同じでしょうか?
たとえば紛争が絶えず、日常的に飢餓状況にあるような、つまり年中生き残りを賭けたサバイバルの緊張状態にあるような国の人間の意識と比べたらどうでしょう?
こうした異なる状況下にいる人間の意識状態は同じと言えるでしょうか?
こうした疑問に対して、ハンフリーはいっさい答えていません。

ハンフリーにとって、意識とはもうこれ以上進化も退化もしないもののようです。
結局のところ、ハンフリーの意識論は、現在の(ごく平均的な大人の)意識状態(これはとりもなおさずハンフリー自身の意識レベルでしょう)が、意識進化の頂点にあるという前提に立っているようです。
「人間の意識進化は今ここで極まっている。意識はこれ以上進化も退化もしない」?
果たして本当にそうでしょうか。ハンフリーは、現代世界のあらゆる人(少なくともまったく違う事情や条件を持つ何人かの人たち)の意識状態を調べたでしょうか。子どもと大人の違いはどうでしょう。先進国と後進国ではどうでしょう。世界平和を目指し、高度な民主主義を実現している国家の指導者と、年中周辺国と紛争を起こしている国の軍隊あるいはテロ組織の指導者とでは、同じ意識レベルでしょうか?
こうした疑問に、ハンフリーはいっさい答える気がないようです。

ちなみに、ウィルバーはちゃんと答えてくれています。ウィルバーは、意識の進化には明確な段階があり、人それぞれどの段階にあるかによって、価値観・世界観に大きな違いが出ることをはっきり構造的に示しています。

ハンフリーは、「意識は段階的に進化する」ということには同意しているようですが、その段階を示す気はないようです。そもそも知らないし、知る気もないようです。

「私たちの種における意識の発達史の体系的研究はあまりなく、他の種の研究はそれに輪をかけて少ない」

どうやらハンフリーは、人間という「種」の意識の発達史をすでに体系化し終わっているウィルバーをはじめとする数々の研究者をまったく知らないようです。これは、物理学者がアインシュタインを知らないようなものです。(実際ウィルバーは「心理学におけるアインシュタイン」と呼ばれています。)
「還元論的・唯物論的なアプローチによる意識の発達史の体系的研究」というふうに限定条件をつければ、ハンフリーの言っていることは正しいかもしれませんが、そんな限定条件つきの研究は無意味なので、誰もやらないだけの話しです。

■やはり唯物論は「錬金術」だった

「人間の意識は、いつどのように発生したのか、そしてどのような段階を踏んで進化してきたのか」といったテーマを還元論・唯物論的に扱うことの限界を、ハンフリー自身も察しているのでしょうか、この本の後半では、様々な偉人たち、特に作家や芸術家たちの言葉が頻繁に引用されるようになります。

「私が芸術家や僧侶を証人席に呼んだり、個人的な経験について熱狂的に語る人の言葉を直接引いて、それを重視したりしても驚かないでほしい。人々が語ること、とくに、他の意識ある存在にとって正しく興味深く思えることとして回想されたり引用されたりする事柄は、意識の働きに関して得られる最良の部類の証拠を提供してくれる」

これは、還元論・唯物論の陣営からの証拠集めを断念した、ということなのでしょうか?
もちろん「引用」が悪いわけではありません。しかし、あくまで還元論・唯物論を堅持するなら、引用した言葉の裏にある「意識の働き」について「外側からの観察だけでも、このように推論できる」という具合に分析してみせなければなりません。そして分析してみた結果、そこに、目には見えないが脈々と息づく、意識進化に関する共通の法則(それをウィルバーは「意識構造」「隠れた文法」「隠れた地図」などと呼んでいます)を見出すのでなければ意味がありません。
もちろんハンフリーはそんなことはしていません。
そもそも彼が「証人席」に呼んでいるのは、自説に有利な発言をしてくれている人だけです。「唯物論的詭弁論理学」の証明に役立ちそうな証言ということです。ただ単に誰かの言葉を引用するだけなら、そう思われても仕方ないでしょう。自分の言いたいことの代弁者として召喚しているだけの話しです。
もちろんそれは許されてはいますが、「そうではない」証人をいくらでも知っている私たち(私も含めたウィルバー陣営の読者たち)からすると、かえってそのことがハンフリーの理論の偏狭さ、胡散臭さを証言してしまっています。
いみじくも「理論心理学者」を名乗るなら、古今東西の作家や芸術家に精通する前に、古今東西の心理学理論に精通していて当然のはずですが・・・。

ここで改めてアインシュタインのあの有名な言葉が思い出されます。

「問題を作り出したのと同じ意識レベルで、問題を解くことはできない」

結局ハンフリーは、問題を作り出している意識レベル(唯物論のレベル)のまま、「意識」という難問を何とか解こうとしているのでしょう。これこそまさに「錬金術」であり「唯物論的詭弁論理学」です。

そもそも唯物論の立場に立つ限り、ハンフリーは本気で物質(あるいは有機体)と意識をつなぎ合わせようとはしていないのでしょう。人間という存在の全体像を、個々ばらばらな部分に分解しはしますが、それを再統合する気はないのです。あるいは、その再統合は文学者や芸術家に任せてしまっている感があります。
再統合を怠ったまま、「意識とは脳内マジックショーにすぎない」という、まさに彼自身の知的「マジックショー」のタネ明かしをして、さも錬金術が成立したかのように見せたいだけのようです。タネを明かされた観客は、肩すかしを食らわされて、「何だ、くだらない」と嘆くしかない、といったところでしょうか。マジックショーなら、切り落とされた首が再びつながるところをこそ見たいはずなのに・・・。

■「意識は幻想にすぎない」という理論の幻想性

彼は、自分の論理が破綻していることを内心では悟っているかのように、この本の終盤で、「ここ二〇年間、心理学者の間で、二元論的思考(精神と肉体の分離)は人間の天性にほかならないとする認識が広まりつつある」とし、その「二元論天性説」を前提に、「人間が二元論者でなかったら、意識をミステリアスなマジックショーになぞらえた私の主張はすべて崩れ去る」と言ってのけてしまっています。
もちろんこれは、人間の天性の二元論的思考が覆らないとタカをくくったうえでの発言でしょうが、はからずもウィルバーがその「二元論天性説」を自分の意識レベルにおいて軽々と超えてみせてしまっているように、人間の意識はいとも簡単に「天性」を覆してしまう(すなわちハンフリーの意識論を覆してしまう)可能性を示唆してみせてしまっています。自ら墓穴を掘った、といったところです。
「意識は脳内マジックショーにすぎない」と言ってしまった瞬間に、その理論自体も「マジックショーが作り出した幻想」に成り下がるわけです。

一方ウィルバーは、この世界(人間の意識世界も含め)がいかに高さと深さと広がりを持っているかを、あらゆる学問分野の最新成果を「接着剤」として用いながら、たっぷり語ってみせた後、還元論や唯物論がいかにこの世界を高みも深みもない薄っぺらな、多少横に広がっているだけの世界(ウィルバーはこれを「フラットランド」と呼んでいます)に変えてしまっているかを論じています。このことは、ウィルバーの主要な著書のどれからも読みとることができるはずです。
「利己的な遺伝子」といった卓越した比喩をどれだけ駆使しようが、あるいは自然淘汰や数学的法則を援用したり、古今東西の偉人たちの言葉をどれだけ引用しようが、世界の高さと深さと広がりをカバーすることはできない、ということでしょう。

ハンフリーの論理展開が最終的にどこに「落としどころ」を見出すかは、だいたい想像がつきます。
彼は結論として、ついにこう言います。

「私が行なっているような唯物論的説明が、科学者たちの心を勝ち取ることがあったとしても、こうした説明を知ったからといって、人々がどう意識を直接経験するかが変わるわけではなく、彼らがその土台の上に人間の精神を讃える記念碑を建てるのをやめるわけでもない。不滅の魂という信念を、私たちがこの先も長らく持ち続けるのは間違いない」
「けっきょく、この還元主義的な理論の持つ強みの一つは、次の点にある。すなわち、意識を持つという経験が、どんな還元主義的理論も誤りに違いないと人間に思い込ませることで人生にプラスになるのを説明できるのだ」

これは一種の「自虐ネタ」でしょうか?
結局ハンフリーは、「私の理論は正しい。しかしあなたは理論に関係なく、意識の直接経験を謳歌した方がいい」と言いたいのでしょうか?
どうやらハンフリーは自分の理論を、人間が意識を直接経験するにあたっての、一種の「噛ませ犬」として捉えているようです。
彼は、人間の意識をいったんフラットランド化してみせた後、「それでも意識はフラットランドには住みたがっていない」ということを言いたいのでしょう。それはつまり、人間の意識から自分の意識論を切り離し、理論自体を孤立させることにほかなりません、まるで主体を失い、宙に漂うしかなくなった「ソウルダスト(魂の塵)」のように。
私は、このようなマジックショーの結末に、自分の「ソウル」も木端微塵にしてしまったこの理論心理学者の切ない「遠吠え」を聴いたように思えて仕方ありません。

■還元論者・唯物論者の人間的未熟さ

余談ですが、ハンフリーはこの本のひとつの「演出」として、アンドロメダの科学者の視点から地球人を見たら・・・という架空のエピソードを導入しています。それに倣って、私のチャネリング相手の筆頭であるプレアデス星のラムジーさんの視点からは、唯物論がどのように映っているかについて、最後に引用しておきましょう。

「唯物論は、二項対立が得意です」
「唯物論をあくまで堅持する者は、人間的成長における幼年期に留まっている状態です」
「唯物論を乗り越えることは、人間がより高次の次元へと進化するための最重要課題です」

意識の進化度、人間的な成長度においても、そしてこの世界の認識の深さにおいても、唯物論や還元論に終始している理論家など、ウィルバーの足元にも及ばないでしょう。少なくとも、還元論者・唯物論者の意識論は、ウィルバー自身の意識レベルにはまったく通用しない、ということです。
どうやら、「物質+生命」層と「心+魂+霊」層との隔たりを埋める「接着剤」として何を持ってくるかは、その理論家・研究者そのものの人間的成長度によるようです。

この回全体をまとめておきます。
「還元論者・唯物論者は「意識幻想説」を唱えることで、結局のところ、それを唱えている自分の意識も幻想であると言ってのけ、自分の意識進化の可能性も止めてしまっている」
「「存在の大いなる入れ子」における「物質+生命」層と「心+魂+霊」層とをどのような法則で結びつけるかは、その理論家・研究者そのものの人間的成長度によって異なる」

次回はいよいよ、ウィルバーの意識論(というよりも、ウィルバー自身の意識レベル)について触れます。

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