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シリーズ「新型コロナ」その38:専門家が見たダイヤモンド・プリンセス号の実態

■水際で食い止められるという「神話」

大型クルーズ船は、本来感染管理(たとえばゾーニング)といったことを想定してつくられておらず、そこへもってきて乗客は重症化リスクの高い高齢者が多いということは前回すでに述べた。さらに、船舶検疫は、国際規約で、乗客の尊厳、人権、基本的自由を侵害せず、不快感や苦痛を与えない覚悟と準備がなければやってはいけないことになっている点も見てきた。そして、船舶検疫は本来、検疫所長の権限で行われるべきもので、厚労省が直接指揮を執るべきものではないことも見てきた。

ところが、ダイヤモンド・プリンセス号では、実際に厚労省が指揮を執り、本来感染管理の専門家ではないDMATやDPATが実戦部隊となって大規模な感染管理が行われた。
そして、唯一と言ってもいい感染管理の専門家である岩田健太郎教授は、乗船後2時間で追い出される、という事態まで起きた。
なぜこのようなことになってしまったのか。2時間の間に、岩田氏が経験したこととは何だったのか。ダイヤモンド・プリンセス号の内部で、実際には何があったのか?

岩田氏は、後にその一部始終を本にした。
今回は、岩田氏のその著書「新型コロナウイルスの真実」(ベスト新書)の内容を中心に、ダイヤモンド・プリンセス号で起きたことの実態をあぶり出したいと思う。

※特に名前を表示していない引用は、すべて上記の岩田氏の著作から。
それ以外に、以下のサイトも参考にした。
https://bungeishunju.com/n/nbfe7c7d8a6c6
https://bungeishunju.com/n/n28f83dea06f3
https://president.jp/articles/-/35721

これは、多くの専門家が異口同音に言っていることだが、岩田氏も次のように言う。

「クルーズ船が感染症に弱いというのは、感染症の専門家の間では昔から常識でした。肺炎とか、インフルエンザとか、ノロウイルスなんかがクルーズ船で流行りやすいことは以前から分かっていたんです。アメリカのCDCもガイドラインを作っていますし、事例もたくさん報告されています。もちろん論文も出ています」

クルーズ船に限らず、港にしろ空港にしろ、そもそも感染症を水際で食い止めることの難しさにかんしても前回述べたが、岩田氏もさらに詳しくそのことを語っている。
2002年のSARSのときも、日本は「水際作戦に成功した」と思われているが、実はただ単に運がよく、日本にSARSの感染者が来なかった(実は1人来たが、たまたま感染を拡げなかった)だけだった。
にもかかわらず、日本政府はいまだに「水際作戦の有効性」という「神話」を信じているという。

「2009年に新型インフルエンザが流行したとき、日本は水際作戦などなど、いろんなことに失敗しました。でも、「問題はあったし患者さんも出たけど、そうは言っても死亡者数も200人ぐらいで収まったし、外国に比べれば少なかったから、よかったよね」みたいな流れになって、話はそれで終わりました。」

そもそも、新型インフルエンザの蔓延を食い止められたのは、政府の手柄ではなく、一開業医の手柄だったという。当時日本政府は、新型インフルエンザの国内発生はないという前提のもと、メキシコ、米国、カナダへの渡航歴がある人だけを水際で対処すればいい、という方針だったようだが、この開業医は国内にすでに感染者がいるかもしれないという前提に立って、海外渡航歴のない患者に対する検査を強く依頼したところ、陽性が判明したという。

「「自分たちは間違っているかもしれない」という健全な懐疑心は失敗を防止する非常に良い考え方なのです。こういうエピソードがなく、自分たちの神話にすがっていたら、日本の新型インフルエンザ被害はずっと大きくなっていただろうとぼくは思います」

2009年の新型インフルエンザ流行の経緯は、「家の玄関をしっかり戸締りしたから大丈夫だと思ったら、ウイルスはすでに家の中にいた」という話である。今回の新型コロナウイルスの流れもやはり、玄関にがっちりカギをかけて「鎖国」しようとしていた矢先に、今度はダイヤモンド・プリンセス号という「黒船」がやってきて、開国せざるを得なかった、という話のようだ。

■「二次感染」の本当の意味

「一般的に、クルーズ船に感染者が出たときに最初に決めるべきものは、乗客・乗員を船から降ろすか、降ろさないかです。
船という空間は感染症にとても弱い。ダイヤモンド・プリンセスにも高齢者が乗船していましたが、その弱いところに死亡リスクの高い高齢者を留め置くのは、すごく危険です。だから本来ならできるだけ船から降ろして、隔離して、感染リスクをゼロにするのが定石なんです」
「しかし、現実には何千人という人を横浜で一気に降ろして、どこへ連れていくのか、という問題がありますね」

政府は、それは非現実的だという判断をし、船内に留め置くと決めた。

「厚労省は、乗員・乗客を船に留めて14日間検疫する方法を取ったのなら、「その間は絶対に二次感染を起こさないぞ」という覚悟を決める必要があった。」
「用語の説明をすると、この場合の一次感染とは、「検疫が始まる前に起こった感染」のことで、二次感染とは「検疫が始まった後に起こった感染」のことです」

「二次感染」にかんする岩田氏と厚労省の認識の違いは大きい。厚労省は、検疫期間が終わって、みなが下船した後に起こる感染を「二次感染」と呼んでいるらしい。検疫をするしないにかかわらず、船内で起こる感染はすべて「一時感染」という認識のようだ。ではいったい何を防ぐための検疫なのだろう?

「検疫するからには、それ以降の感染者、すなわち二次感染者を絶対に出さないという覚悟が必要です」
「二次感染を絶対に許してはいけない理由があります。
それは、観察期間の14日の間に二次感染を許してしまうと、感染した日からさらに14日間、検疫を伸ばさないといけなくなるからです。それが繰り返されると、二次感染が起こるたびに検疫の期間をずるずると延ばさなければならなくなる」
「しかし、厚労省はその覚悟を決めなかった。
なぜなら彼らは形式主義者だからです。
「14日間検疫して、それが終わったら下船させます」「専門家を入れて感染管理をやります」というチェックリストの見出しを満たすことだけにこだわって、「二次感染を起こさない」という結果を出すことにはこだわらなかった」

当然、船内での二次感染が起きた。もちろん検疫のやり方にどこか問題があったからだ。

「それでも厚労省は「二次感染は起きていない」という、自分たちの作った神話にこだわった。
そして、2月5日から14日経った2月19日に、検疫を受けていた人たちを予定通り下船させた。「二次感染は起きていない」ので、電車に乗ったり、バスに乗ったりして帰っていいと指示したわけです」
「これは典型的な官僚の形式主義です。形さえ満たしておけば、本質は関係ない。事実は関係ない。そして、結果も関係ない。」
「「二次感染が起きても仕方ない」というシナリオで行くなら、14日という検疫期間はもっと延ばすべきだった。「二次感染は起こしてはいけない」というシナリオで行くなら、感染管理を徹底すべきだった。でも、どちらも中途半端だったのです」

■一口に「感染症」の専門家といっても・・・

大型クルーズ船が、いかに検疫や感染管理が困難な環境かということは、国も厚労省もよくわかっていたはずだ。ところが、この困難なプロジェクトの実践チームとして厚労省が選んだのはDMATだった。
これは、一般的には報道されておらず、岩田氏だけが言っていることのようだが、実はDMATよりも感染症の専門家に近いチームとして、国立感染症研究所のFETPが乗船していた事実があるらしい。

「厚生労働省の管轄下には(DMATの)他に、国立感染症研究所にFETPというチームもあります。「Field Epidemiology Training Program(感染症危機管理を行う人材育成プログラム)」のことで、たしかに彼らも感染症の専門家には違いありません。」

ところがこのチームは、数値解析にもとづく現状把握や予測をするチームであって、感染症の治療や防御の専門家ではないという。また、「治療」と「防御」でさえ専門が分かれるという。

「「専門家」とひと口に言っても、いろんな専門家がいるわけです。」
「感染症対策は野球と同じように、攻撃と守備にたとえることができます。感染症を診断して治療する、診断治療の専門家が攻撃なら、感染症が拡がらないようにする防御の専門家もいます。これは野球でいうところの、バッターとピッチャーみたいなものです。」
「バットを振っていても、ピッチングはうまくならないし、逆もまたしかりですよね。
だから、「感染症の専門家」とされていても、診断はできるけれどじつは感染防御ができない、という人は大勢いますし、逆に感染防御の専門家でも、治療や診断が苦手な人はいっぱいいます。ぼくはその両方をやる」

これだけ専門分野が細分化されているということは、それぞれの分野が高度な専門性を有していることを物語っている。つまり近い分野の専門家でも素人と同じということだ。
さて、DMATはそうした専門性の高い分野である「感染管理」にふさわしいチームだったのか。

■そもそもなぜDMATが投入されたのか?

そもそも「DMAT(災害派遣医療チーム)」とは何かと言えば、全国の病院に勤める医師たちが自ら名乗り出て登録し、大災害が発生した時、災害現場へ向かう組織である。東日本大震災や熊本地震のときに活躍したので、記憶している人も多いだろう。
DMATは、災害救急医療の専門家ではあっても、その災害の中には感染症は想定されていない。感染症の何たるかは、医学部で習ってはいるだろうが、いわばそれは野球という球技について知ってはいるがプレイしたことのないスポーツ選手のようなものだ。そうした「畑違い」のスポーツ選手が、いきなり最も困難なメジャーリーグのグラウンドに立たされて、「バッターもピッチャーも同時にやれ」と言われたらどうだろう。
それは「岩田に骨折の治療をしろというのと同じ」だと岩田氏自身が言う。
つまり無茶を通り越して無謀だったのだ。プロ中のプロでも神経を使うような高度なことに、素人がいきなり挑戦させられたのである。
だから、その当のDMATのメンバーでさえ、自分たちがなぜそんな現場に派遣されるのか、疑問視する声もあったようだ。
「感染症も災害と見做しましょう」という特別な配慮のもとに投入されたようだが、日本政府はなぜそのようなかたちで高度な専門性の壁を安易に超えてしまったのか?
ダイヤモンド・プリンセス号の乗客で症状が出た人は、治療のために指定病院に搬送されたが、その搬送先の病院で治療にあたったある医師は、その理由をこう語ったという。
https://bungeishunju.com/n/nbfe7c7d8a6c6

「結論から言えば、厚生労働省に、感染症対策で大きな権限がないからです」
「2003年、中国で感染拡大が起こったSARS(重症急性呼吸器症候群)の時は、日本の全国に国立病院があり、厚生労働省はそれらを一括運用することが可能で、医師や病床の直轄運用ができた。しかし、その後、国立病院が独立行政法人となったためにそれができなくなった。厚労省が持つ“唯一の手足”は、感染症の専門家ではないDMATしかなかったのです」

つまり厚労省は、専門性の壁を超えたのではなく、所轄の壁を超えられなかったのである。ならば、これは本来、厚労省がやるべき仕事だったのだろうか。「他に選択肢がないから、これでいこう」という方策が、こと感染症に関して通用するのだろうか?
ここにも、日本にCDCのような専門組織がない不都合(悲劇)がある。

■「動揺」が見え見えの厚労省担当幹部

案の定、起きてはならないことが起きた。
厚労省のある検疫官関係者はこう語ったという。
https://bungeishunju.com/n/nbfe7c7d8a6c6

「DMATの医師と看護師、また厚労省の検疫官に与えられた感染防護装備は、マスクとガウンだけでした。新型コロナウイルスについてはまだ何も分かっていない状態にもかかわらず、厚労省本省の方針で、タイベック防護服などの十分な装備を提供しなかったのです。その理由について、『乗客に動揺を与えたくなかった』と、本省の担当幹部は語っていました」

「乗客に動揺を与えたくなかった」から、というのは、何と見え透いた言い訳だろう。大勢の高齢者が乗っている狭い船内で未知の感染症が発生しているのに、検疫官が軽装で客室に現れたら、「こんな杜撰な管理で大丈夫なのか?」と、逆に不安を与えないだろうか。実際に、感染管理の杜撰さを見抜いた乗客は少なからずいた。
この場合、当の担当幹部がただ単に自分の「動揺」を隠したかっただけである。この担当幹部の発言からもはっきりしていることは、装備が十分でないことを、厚労省自身がわかっていた、ということだ。わかっているからといって、「では検疫を止めましょう」とはできない。無理を承知でやるには、自分たち自身納得するための言い訳が必要となる。そこで乗客が感じるであろう不安感にかこつけて、「動揺を与えたくないから」という言い訳を自分に言い聞かせているわけだ。これを心理学的には「防衛機制」という。
「防衛機制」とは、危険や困難に直面したり、受け入れがたい苦痛を伴う状況にさらされた場合に、そこからくる不安や動揺を軽減するために無意識に働く心理的なメカニズムのことである。いずれにしろ、極めて幼稚な心理だ。言い訳が先行すれば、改善は後回しになる。

■「感染管理できている」は「二次感染が起きていない」こと

DMATはさすがに自分たちだけではどうしようもないと感じ、日本環境感染学会に感染症の専門家の派遣を頼んだ。しかし、日本環境感染学会のチームは、乗船して数日で下船してしまう。
岩田氏は、そうした成り行きを憂いて、SNSを通じて「船の中に入れるものなら自分が入りたい」と訴えていた。そこへ、友人である厚労省の高山義浩医師(感染症専門医。2008年より厚生労働省健康局結核感染症課においてパンデミックに対応する医療提供体制の構築に取り組む)から連絡があり、助言を得た。
岩田氏は本当は日本環境感染学会として入ろうとしたが、なぜかDMATの一員というかたちで入ることになる。感染管理の専門家として歓迎されるかと思いきや、いざ入ってみると完全アウェー状態だった。現場を仕切っているDMATとしては、そんな専門家が入ることを聞かされていなかった。DMATには、ただでさえ、日本環境感染学会に裏切られたという思いがあり、最初は信用されなかったという。それでもDMATのトップに感染管理をやってほしいと頼まれ、岩田氏は船内の視察から始める。
そこは、官僚主義、形式主義、前例主義の温床で、感染管理の「いろは」もできていない状況だった。
岩田氏の話では、国立感染症研究所のFETPや国際医療福祉大学の感染症の専門家も乗船したようだが・・・。

「ここまでの、FETPが入って出て、日本環境感染学会が入って出て、国際医療福祉大学が入って出て、という状況を厚労省に言わせると、「専門家は毎日入っていた」となるわけです。
そもそも彼らは専門性も、果たすべき役割も全然違う。これは要するに「専門家がそこにいました」という役人の数合わせなんです。」
「で、その数や形をクリアしていれば、「ああ、できていますね」と満足する。
対して我々感染症の専門家のいう「できている」は、厚労省のいう「できている」とは基準が全然違う。
我々の「できている」は「二次感染が起きていない」ことであり、「起こさないために必要な対策をやっている」ことであり、「適切な専門家が指揮系統を執っている」ことです。「できている」とはつまり、結果が出せていることです。
スポーツのチームでいえば、大事なのは勝てていることです。「ピッチャーがいます、バッターがいます、監督もいます」とか、そんなのは本質的な問題ではない。
「ちゃんと揃ってましたよ」というのが厚労省の言い方で、「試合はどうなったんですか」というのが我々の考え方なんです」

■防護具は着けるより脱ぐ方が難しい(テクニックも才能のうち)

案の定、二次感染は起きてしまった。
ある検疫官関係者によれば、脆弱な感染防護装備のために、ウイルスの飛沫が付着する可能性がある額や首を露出させたまま、ハイリスクな環境で任務を続けざるを得なかったという。
では、マスクやガウンで守られた部分は問題なかったかというと、そうでもないらしい。

DMATでさえ感染症の専門家でないところへもってきて、さらに感染症とは無縁のDPAT(災害派遣精神医療チーム)まで現場に投入された。もちろんDPATのメンバーは、PPE(個人防護具:ゴーグル、マスク、ガウン、手袋など)の着脱の訓練など日頃受けたことはないはずだ。

「PPEを着て診察に行って、結果、DPATからウイルスの感染者が出てしまいました。
DPATから感染者が出るなんてことはそもそも論外で、本来スキームがしっかりしていれば起こりえなかったことなんです」

PPEを装着してレッドゾーンに入れば、当然PPEの表面にウイルスが付着しているという前提で脱がなければならない。だから、PPEは着ける技術よりも「脱ぐ技術」の方が格段に難しいと岩田氏は言う。

「いま着ているガウンを、ウイルスが付いているガウンの表面に触らずに脱ぐ。着けている手袋を、ウイルスが付いている手袋の表面に触らずに取る。マスクの表面に触らずにマスクを取る。ゴーグルの表面に触らずにゴーグルを取る。そういうテクニックが必要なんです。
PPEの脱ぎ方は、ただ知っていればいいというものではありません。できるようになるまで、何回も練習しないとダメなんです。」
「バットを振ってボールに当たればホームランが打てることを、知識としては誰でも知ってます。でも、打てるかどうかは分かりません。普通の人は打てませんね。
ホームランを打てるようになるためには、ものすごくたくさんの訓練が必要だし、場合によっては才能も必要になります」

感染せずにPPEを脱ぐことは、それほど難しいことだと岩田医師は言うわけだ。
厚労省の検疫官、DMAT、DPATの医師たちはもちろん、船の配膳係であろうと掃除係であろうと、本来ならPPEのテクニックを身に着けてからレッドゾーンに入らなければならなかったはずだ。普通はそんなことはできない。できないなら、そもそもできる人間(感染管理の専門家)だけがレッドゾーンに入るべきだったのだ。

■ゾーニングは完璧でなければ意味がない

PPEが正しく機能するには、着脱のテクニックだけでなく、ゾーニング(レッドゾーンとグリーンゾーンの区分け)が厳密にできていることが前提となる。
ところが、そのそもそもの「ゾーニング」からして「ぐちゃぐちゃ」だったと岩田医師は言う。ゾーニングがしっかりできていない現場は、専門家でさえ「めちゃめちゃ怖いこと」だと言う。

「ゾーニングとは、言い換えると「PPEを着てはいけない場所(=きれいな場所)」と「着ていないといけない場所(汚い場所)」をしっかり分ける、というコンセプトです。」
「ところがダイヤモンド・プリンセスではPPEを着ている人の横を、背広を着て、サージカルマスクして、携帯を手に持ってずかずか歩く人がああだこうだと議論をしていた。あんなに怖い光景はないですよ」

ゾーニングの不備は、岩田氏だけが指摘しているわけではない。
DPATのリーダーとして船内で精神医療活動を行った群馬県・赤城病院の関口秀文院長は、心ならずもゾーニングの曖昧さを証言してしまっている。
https://bungeishunju.com/n/n28f83dea06f3

「私が普段、詰めていたのは、船の5階の「プラザ・デッキ」にある「サヴォイ・ダイニング」です。ここには船全体の医療チームの本部があって、隣にある「ヴィヴァルディ・ダイニング」では、発熱をした患者さんを治療する部屋が置かれていました。
この2部屋は感染リスクの低いいわゆる「グリーンゾーン」なのですが、部屋を出ると感染リスクのある「レッドゾーン」として扱われていました。当初は足りない部分もあったかもしれませんが、日毎に改善はしていました。私が活動を終える頃にはきちんと区別されていたと思います。
最初は船内の状況がよくわかりませんから、手袋にマスク、そしてタイベックスという宇宙服のような防護服を着ていました。ただ中にいる専門家から話を聞くと、タイベックスの着用までは不要ということがわかりましたから、乗客との接触時にはガウンのような服を着て、帽子とマスク、手袋を着けて活動するようになったんです」

発熱患者の治療室が「グリーンゾーン」で、その隣が本部だった、というのも首をかしげてしまうが、それはさておいても、グリーンゾーンとして想定されているこの2つの部屋を出るとすぐにレッドゾーンになっていたということは、そのグリーンゾーンでPPEを着脱していたことになる。関口氏のこの証言は、表面にウイルスが付着している想定のPPEがグリーンゾーンに置いてあったことを匂わせている。
活動を終える頃にようやくきちんと区別されたというのも、いかにも遅い。

岩田氏は、ゾーニングがいかに完璧でなければならないか、次のように言う。

「「病院じゃなくてクルーズ船だからできなかったんだ」みたいなことを言う人が出てきましたが、そんなことはまったくない。それは素人の考えです。」
「「リソースがないところで非現実的な理想論を唱えるのはダメだ」という意見もありましたけど、リソースなんか必要ない。あくまでコンセプトの問題なので、必要なものは頭だけです。ウイルスの感染経路の知識があるかどうか、それだけの問題です」

岩田氏は、アフリカなど、もっと過酷な環境で活動したこともあるが、やろうと思えばちゃんとできる、と言っている。

「ゾーニングができていなかったから、検疫官、厚労省の官僚、DPAT、DMATと、感染してはいけない人が次々に感染してしまった」
「リソースを有効活用したいからこそ、ゾーニングは完璧にすべきなんです。そうすればPCRの無駄遣いをしなくて済むし、ヒューマンリソースも無駄遣いしなくて済む。」
「今あるリソースを最大限活用する上でまず一番大事なことは、「人を失わない」ことです。10人いるんだったら、10人みんな元気でいることが大事なんです。」

携帯電話ほどウイルスが付着しやすいものはない、だから、レッドゾーンに携帯を持ち込むなどもってのほかだ、と岩田氏は強調する。

「もちろんぼくは現場に携帯を持っていかなかったし、だから内部の写真も自分では1枚も撮っていません。ぼくが船から追い出された後に、丁寧にも橋本岳厚労副大臣が写真を撮ってTwitterに投稿してくれたので、おかげさまで証拠保全ができて、ぼくは助かりましたけどね。」
「橋本副大臣ご本人は、あれでちゃんとゾーニングできているという証明のつもりで写真を投稿したらしいのです。でも問題は、まさに橋本副大臣が立って写真を撮っているその位置が、「不潔」でも「清潔」でもないグレーゾーンになっちゃってたことなんです。感染症の専門家はみんな、あの写真ひとつで「ああ、これじゃ全然うまくいってないだろうな」と分かったでしょうね。
彼自身が危ないところで写真を撮ってしまっていたから、ウイルスを触ってない保証がなくなってしまって、14日間隔離して自己監視しなきゃいけなくなっちゃったんですね。副大臣のような要職が職場を離れなければならない。まさにリソースの無駄遣いですね」

もちろん、感染症が発生する前は、船には船のルール、習慣、動線(ゾーニング)というものがあっただろう。乗客はどういう通路を通って移動するのか、客室係はどういうルートを通るか、誰が何時ごろ何をするためにどの部屋を使うか・・・。しかし、もちろんそのルールは、「感染防御」という目的で決められたルールではない。
船内でひとたび感染症が発生したら、それらのルールをすっかり変える覚悟が必要だろう。それが本来の「ゾーニング」の意味のはずだ。どのように変えるのか? それはさすがに素人ではどうしようもない。やはり、船全体のオペレーションを、船長から感染管理の専門家に移す必要がある。
これだけの国際社会になってきて、国をまたぐ人の移動が頻繁になっている以上、外国籍の船や飛行機を受け入れる港や空港の数だけ、岩田氏レベルの専門家をリーダーにした感染管理チームの存在が必須ではないだろうか。もちろんそうしたチームの取りまとめ役、派遣の母体としての「日本CDC」も必須だ。

■「プライド」という名の根性論

結果的にはDMATの船内活動が終了するまで、オペレーション従事者の間での大規模な感染拡大は起こらなかったようだが、それは単に運がよかっただけの話だ。少なくとも、検疫官の間に感染者が出たし、DMAT内でも1人の看護師の感染が確認されている。
さらに、別の検疫官関係者は、こんなことを語っているという。
https://bungeishunju.com/n/nbfe7c7d8a6c6

「2月10日に感染が確認された検疫官について、省内では『マスクを使い廻したことで感染した』と、まるで個人責任であるような雰囲気が広がりました。クルーズ船に対応した検疫官は、国家の命令で危険な任務に従事したんです。にもかかわらず、その雰囲気では、感染した検疫官が余りにもかわいそうでなりませんでした」

厚労省の中での、この「空気」・・・「上意下達」式にひとたび命令を下したら、省としては、現場がどんな状況でも「我、関せず」といった雰囲気は、後に、「37.5度の熱が4日間」といった「目安」に対する国民や保健所の反応を、厚労大臣が「誤解」と言い捨てて憚らない、といった事態にもつながっていく。

同検疫官関係者は、さらにこう続ける。

「心配したのは、そういった雰囲気のせいで、検疫官の士気が下がることでした。そうなれば、対応システムそのものが崩壊していた。しかし、担当した全員が勇気を持って任務を遂行しました。検疫官たちを支えたのは専門家としてのプライドだけです」

地方からDMATに参加したある医師も、こう語ったという。

「(どんなにハイリスクな任務環境でも)注文をつけたり文句を言ったりするDMATの医療従事者はいませんでした。関係者たちを支えたのは、DMATとしてのプライドでした」

これはまずい!
この発言は、「勇気」や「プライド」以外に彼らを支えるものがなかった、ということを物語っている。これも一種の「防衛機制」だ。彼らは「正しく恐れて」いたのではなく、自分が感じている「恐れ」を必死でもみ消していたのだ。
現場の「苦労」や「頑張り」は認めるが、こうした一種の「根性論」のような心理が発動した時点で、現場は「科学的」であることを手放してしまったのだ。
岩田氏は「装備(安全)も確保できないのに山に登ろうとするのは、素人の登山家だ」という点を、はっきり指摘している。
ちょっと考えていただきたい。あなたがある未知のウイルスに感染している疑いがあったとする。「専門知識も経験も能力も装備も充分ではないが、プライドだけはある」という人と、「プライドはないが、専門知識も経験も能力も装備も充分」という人と、どちらに診てもらいたいだろうか。

そもそも、その道の専門家、プロフェッショナルとは何だろう。
ある事柄に関して、たいていの人がどれだけ努力して必死にやってもできないことを、いとも簡単に造作もなくやってのける、それがプロだ。もちろんそこに至るまでの努力、実績、経験、知識の積み重ねはもちろん、ある種の才能も要求される。つまり努力やプライドではどうしようもない「向き・不向き」がある、ということだ。それらの条件をすべて満たすのがプロだろう。
感染管理は、人の生き死ににかかわることであるだけに、素人が絶対に手を出してはいけない分野だ。うっかり手を出してしまって、どれほど「一生懸命頑張ったのだから」とか「勇気とプライドをもって諦めなかった」とか言っても、それでどうにかなる問題ではない。

■岩田氏が追い出された真の理由

「知識も経験もノウハウも装備も不十分だが、プライドだけは保ち続けている」式の「根性論」が現場にはびこると、どのような弊害が発生するだろうか。
実は、岩田氏のような専門家が現場から排除されてしまう理由は、まさにそこにある。

「同意書を取ると感染リスクが増すから、PCRをやるなら口頭同意でいい、感染を拡げないために、DPATの人は外から電話で面談したほうがいい。
そういった指摘をしていたら、「みんなが一生懸命やっているときに、おまえはそれに水を差すのか。出ていけ」と言われてしまうんです。安全性よりも、みんなとの調和が大切。船の中ではみんな、疲労困憊で睡眠を取らず、目を血走らせながら対応していました。
これが、そもそもの間違いです。危機管理のときには絶対に頑張って疲労をためてはいけない。危機管理のときこそ、余裕を持っていないといけないんです。」

「輪を乱すヤツ、みなのやる気に水を差すヤツは出ていけ!」というわけだ。
こうして、岩田医師は、実際に乗船後2時間で「出ていってください」と言われて追い出されたという。
これは、「現状に対してちょっとでも否定的なことを言われると統制が取れなくなるほど、現場がピリピリしていて余裕がなく、岩田氏に図星をつかれて動揺した」ことを物語っている。これも防衛機制だ。繰り返すが、防衛機制が働いているうちは、改善は見込めない。

■緊急時の真のコミュニケーションとは?

ダイヤモンド・プリンセス号を追い出されてすぐ、岩田氏は、船内で見たことの報告ビデオ(日本語版と英語版)を撮り、それをYouTubeで一般公開した。
それに対し、日本国内では、岩田氏の発言内容ではなく、ものの言い方、態度、コミュニケーションの仕方が批判の対象となった。
それに対し、岩田氏はこう反論する。

「ヨーロッパやアメリカでは「言ってることは正しいけど、態度が悪かった」みたいな議論にはまずならない。「それは、要するに正しかったってことですね」だけでおしまいです。」
「コミュニケーションに失敗してるのは、じつは厚労省のほうなんです。
なぜなら、コミュニケーションで大事なことは、事実をちゃんと公表することだからです。情報公開と透明性が何より大切だからです。」
「ちゃんとできてないときは、「ちゃんとできてない」と言うべきだったんです」
「日本にとって不都合なこと、日本が間違っていたことをちゃんとオープンにすることこそが、リスクコミュニケーションなんです」
「国際社会での信用を得るには透明性と開示性が大事」

日本はそもそも誰がどのような理由で意思決定しているのか不透明だ。首相なのか、大臣なのか、官僚なのか、あるいは政府なり省のお抱えの専門家が言っているのか・・・?

「みんな裏で決めていて、意思決定のプロセスが分からない。どこまでが政治的な議論で、どこからが科学的な議論なのかも分からない。何を目的にした意思決定なのかすら公表されない」

■間違いを認めない、懲りない、反省しない、教訓を活かさない

「東大話法」という言葉がある。これは、東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩氏が、その著書『原発危機と「東大話法」』(明石書店)で提唱している用語だ。その意味は、“東京大学の学生、教員、卒業生たちが往々にして使うとされる「欺瞞的で傍観者的な」話法”ということだ。つまり「常に自らを傍観者の立場に置き、自分の論理の欠点は巧みにごまかしつつ、論争相手の弱点を徹底的に攻撃することで、明らかに間違った主張や学説をあたかも正しいものであるかのようにして、その主張を通す論争の技法であり、それを支える思考方法」だという。
「日本はちゃんとやっている」「自分たちは常に正しい」という「東大話法」の神話が、ダイヤモンド・プリンセス号で崩壊した、と岩田氏は言う。

「ダイヤモンド・プリンセス号に乗っていた人のうち、「オーストラリアでは10人近く、アメリカ、香港、イスラエルでも数人の乗客が、それからインドネシアなどのクルーの人たちからも、下船後に感染が確認されました。」
「(国内の下船者が帰りにスポーツジムを利用して)その下船者が後から新型コロナに発症して、利用したスポーツジムは閉めなきゃいけない、ジムに来ていた人を全員濃厚接触者扱いにして監視しないといけない、おかげで保健所の監視対象が膨大に増えるという、ものすごい二次的な災害が起きました」
「彼ら(厚労省)は自分の失敗を直視できず、どうすれば失敗を回避できたかを分析できず、次に同じことが起こったときはもっとうまくやろうという修正をせずに、「まあ、みんな一生懸命頑張ったじゃないか」って話になって、日常に戻る。
これでは、絶対に改善できない。そしてまた同じことが起こる」

2009年に日本政府が新型インフルエンザの水際作戦に失敗したときも、岩田氏は「日本CDC(疾病予防センター)」の立ち上げや、ACIP(Advisory Committee on Immunization Practices=ワクチン接種に関する諮問委員会)をつくることを提案したそうだ。

「だけど、「先生の言うことも分かるけど、みんな頑張ったし、良かったじゃない」とか言って、結局CDCもACIPもできなかった。」

安倍首相も西村担当大臣も、今回の新型コロナ対策で得た教訓をしっかり第二波に活かすと言っているようだが、果たしてできるだろうか。

日本政府に自己改善力はないだろうと考えているのは、岩田氏だけではない。
神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏(思想家)は、こう語っている。
https://president.jp/articles/-/35721

「日本の医療政策では久しく「医療費を減らすこと」が最優先課題でした。感染症対策というのは「いつ来るかわからない危機に備えて、医療資源を十分に備蓄しておく」ことです。感染症への適切な対策をとることは、「どうやって医療費を減らすか」という医療政策とは原理的に整合しません。
今回の失敗に懲りて人々が医療資源の備蓄を気にするのも一時的なことだと思います。このあと政府は「今回の感染対策に日本政府は成功を収めた」と総括するでしょう。成功した以上、改善すべき点はない。だから、再び医療費削減路線に戻る。
ですから、このあと日本ではCDCもできないし、保健所も増えないし、感染症病床も増えないし、医療器具の備蓄も増えません。そして、いずれ次の感染症のときにまた医療崩壊に直面することになる。」

「東大話法」はともかく、日本政府が「神話的思考法」から脱却できるとは、私も思えない。ここはひとつ、私たち市民社会が政府に先駆けて、非科学的で根拠のない「神話」から真っ先に卒業してみせる必要がある。

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