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ウクライナ問題に寄せて(その6):外交の失敗をどう反省する?

あらゆる地域紛争とその発展形である大きな戦争は、すべて「外交の失敗」を意味する。
もちろん今回のウクライナも例外ではない。今回の場合、誰が外交に失敗したのか。もちろん西側諸国が失敗したのだ。しかし、西側諸国の誰が反省しているだろうか。反省するどころか、むしろ自分たちの失敗をひた隠し、東側を悪者にすることで、自分たちの責任を逃れようとしているとしか思えない。

そもそも、私たちは本気で「外交」を成功させたいのだろうか?
「外交の失敗」に対する無反省という状況は、今回初めて起きたことではない。今までもあらゆる東西対立の「代理戦争」の場で起きていたのだ。はっきり言って、世界のリーダーたちは軍事衝突を回避したり予防したりする気がない、としか思えない。結局のところ「外交」とは、相手を尊重し、自国と相手国の国益をすり合わせて、双方納得のいく落としどころを見つけ出す作業ではないらしい。言い換えると、「外交」とは、自国の利益をごり押しするために取られる、あらゆる政治的画策のことらしい。
こうして、世界のリーダーたちは外交の場でますます「ホンネとタテマエ」に分裂する。そうなれば、外交は「どちらがホンネでどちらがタテマエか」の腹の探り合いになっていく。
もうお気づきだろう。私たちは最初に戻ったのだ。つまり、外交に失敗しても、誰も反省しない、ということだ。誰も本気で軍事衝突を避ける気がないのである。
結局のところ「外交」は、軍事衝突から別の軍事衝突に向けての「場つなぎ」程度のものに成り下がっている。

今、ウクライナを舞台に、「停戦交渉」という「外交」の真似事が日々繰り広げられているようだが、この「交渉」はどう見ても戦闘を長びかせるための「隠れ蓑(表面工作)」としか思えない。つまり、戦闘を正当化するために、わざと交渉に失敗し続けて見せているとしか思えないのだ。「交渉の決裂」をくり返していれば、戦闘を(少なくとも半分は)相手のせいにしていられるのだ。
これは、ロシアとウクライナだけの問題ではない。
この状況は、世界のいたるところで、平時の際にも、表面上の外交というかたちで繰り返されてきたということを、私たちはもういい加減認識する必要がある。

相手のこめかみに銃を突きつけたままの停戦交渉など成立するはずもない。こういう交渉では、「交渉の前に、少しでも立場を有利にしておくために、無理しても戦況を好転させておこう」にならざるを得ない。結果として、戦況は激化の一途をたどる。
ここはやはり、どちらかが掲げた銃を下ろすしかない。しかし、残念ながら、それは当事者にはできない相談だ。
となると、第三者(第三国)の出番ということになるが、東西どちらの陣営がその役をやるにしても、それは「外交の失敗」に対する反省からスタートするものでなければ説得力はない。つまり、喧嘩の仲裁に入る人間がまず、「ごめんなさい、私が悪かった」と頭を下げるところから始めるのだ。
これは、非常に困難なことだ。
国のリーダーではない私たち外野の人間も他人事ではない。自分にできないことを誰かに押しつけるわけにはいかないのだから。

この困難なことを実現するための基本的な方法論は、私が考えるに、次のようなものである。
国同士の関係性においても、個人間の関係性においても、「ホンネとタテマエの分裂→腹の探り合い→交渉の決裂→衝突」というプロセスに変わりはない。
それを、「ホンネとタテマエの統合→相手の立場の尊重→妥協点を見出す→交渉の成立」というプロセスに換えていく必要がある。
国のリーダーたちにそれができないなら、私たち民間人が真っ先にお手本を示すしかない。
まず、真っ先に私たち自身が、「二極分化」的な発想を止めてみせよう。
今回のウクライナ問題で言えば、「プーチンは極悪人、ゼレンスキーは戦争の英雄」という二極分化は成立しない、と考えてみる。プーチンは制裁を受ける人、西側諸国は制裁を科す人、という二項対立も成立しない、と考えてみる。そこからしか、分裂状態の統合は起きない。

さてそこで、私たち民間人も、たとえば「国と国民」という二項対立の構図を止めてみる必要がある。そうでなければ、二国間の対立など解消できようはずもないからだ。
さて、そこであなたは、自分が置かれた困難な状況を、国(世の中)のせいにするのではなく、誰か他の人のせいにするのでもなく、純粋に自分事として捉え直してみる。
そのうえで、自分に問うてみる。
「私は何と何の間で分裂しているのか?」
「私は、その分裂の間で、今まで常にどちらか一方を重視したり、選択したりしてこなかったか?」
「改めて、今まで私が軽視し、選択の対象としてこなかったもう一方の極に注目するなら、それは私に何をもたらすだろう?」
「それこそ、私が真っ先に取り組むべき課題だとすると・・・」

まずあり得ないと思うが、もし万が一、今後日本がロシアとウクライナの仲裁役になるとしたら、次のような宣言から始める必要があるだろう。
「私たちは今まで、アメリカとロシアの間で分裂していた。私たちは、その分裂の間で、今まで常にアメリカを一方的に重視したり、アメリカの立場を専ら政治的・外交的選択肢としてきた。
私たちは、その反省に立ち、今まで軽視したり選択の対象としてこなかったロシアに、改めて注目する。それこそ、私たちが真っ先に取り組むべき課題である」

これは「反省」というより「軌道修正」だ。反省というと、自分が不利な立場に立たされる印象になるが、軌道修正なら、共通の課題にともに取り組む、というニュアンスになるだろう。そこがこの方法論の重要なポイントだ。

さて、私たちは世界平和を実現するために、世界を外側から俯瞰で眺める「宇宙人の視点」を獲得することを目指しているのだった。
そのためには大きな壁を超える必要がある。比喩的に言うと、それは「成層圏」という壁だ。もっと直接的に言うなら「エゴの壁」である。
国同士のエゴとエゴがぶつかり合うことで、外交は失敗するわけであり、その先に軍事衝突が待っているわけである。
もちろん、二国間の喧嘩の仲裁に入ろうとする第三国がエゴを丸出しにしていたのでは、仲裁役は務まらない。

個人にしろ国にしろ、エゴを捨て去ることはできない。捨て去る必要もない。意識変革とは、エゴを残したまま、エゴ以外のものを拡大させ、エゴも拡大した部分も含めた全体としての「自分」に自己同一化していくプロセスである。私たちにとって、エゴ以外に自己同一化すべきアイデンティティとは何か? それこそが、「私たちは、宇宙存在である」というアイデンティティなのだが、なかなかそこへ一足飛びには到達できない。
いくつかの段階を踏む必要がありそうだ。
次回以降は、その段階について具体的に見ていこう。

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