また、いつもの自販機で。
「あちー…」
「うーん…」
雨は朝方に上がったらしい。そういえば昨日、どのニュースも梅雨入りを伝えていた。質量のある雲から顔を覗かせた陽が、まだ乾き切らないアスファルトから湿気を吸い上げていく。
「夏鈴は?なんか飲む?」
「んー…炭酸」
学校の帰りにある自販機の前に自転車を止め、水気を避けて赤いアルミのベンチに座る。
「はい。なんで毎回奢りなんだよ」
「ふふ。ありがと」
カシュっと涼しい音を立てて、夏鈴が黄色い缶を開けた。
「んっ……あ〜…炭酸苦手」
「じゃ最初っから頼むなよ」
「別に飲めるけどね」
俺もコーラの缶を開け、一気に半分ほどを飲んだ。日に焼けてくすんだベンチに缶を置くと、ざらりと音が鳴った。
だだっ広い田んぼの真ん中で、無言の時間が流れる。山に挟まれた土地ではあるが、少し遠くから蝉の声が聞こえるだけ。日の光を遮ってくれたりはしない。
「夏休み、どうすんの?」
手を翳して光を遮っていた夏鈴に聞いた。
「ん〜…何もしないかな…」
「いや、勉強しろよ…3年だぞ」
「…嫌いだもん」
「……最近家は…?」
「変わんない…なんにも」
夏鈴が翳していた手を下ろして、今度は爪先に手を伸ばす。
彼女の家のことは、この地区でも有名だった。父親が隣県にある証券会社の重役で、母親も銀行員らしい。一言で言えば、極端に厳しい両親だった。両親の喧嘩も酷く、田舎に似合わない大きな家に、パトカーの赤い光が見えることも何度かあった。夏鈴そんな両親を、いつも嫌いだと言っていた。
幼い頃は、家から放り出された夏鈴が泣いて俺の家まで来ることもあったし、俺と遊んでいてケガをした時は、彼女の両親が家まで押しかけて来たこともあった。夏鈴が学校に来ない時期も何度かあった。行かせてもらえなかったという。高校3年になった今では、彼女への縛りがより厳しくなっているようだった。
「やだなー…」
夏鈴がぽつりと言った。
「何が?」
「…今日、なんか話すって言われた…」
「話す?どういうこと?」
「なんか将来の話、って言ってた」
「ああ…しそうだな…夏鈴の親なら」
夏鈴は缶ジュースを飲み干すと、カンとベンチに置いた。スカートごと足の間のベンチを掴んで、足をぶらぶらさせている。
「夏鈴はさ、何しようと思ってんの…?将来」
「んー…別に…」
「はいはい、いつものな…そろそろ教えてよ」
「えー、嫌」
「いいだろ、もう今日言っちゃお」
「うーん……」
夏鈴は少しの間考えて、口を開いた。
「私、役者やりたい」
「…役者……?」
俺は怪訝な顔をしてしまっていたんだろう。夏鈴が俺から目を逸らして言う。
「ほら…言わなきゃよかった」
俺は取り繕うように取り繕う。
「ああいや、いいじゃん。いいと思う。向いてそう」
「絶対嘘」
「そんなことないって、本心」
夏鈴が一瞬頬を緩めた気がした。だがまたすぐに、表情を曇らせた。
「私の親、絶対そんなの許してくれない」
「……やりたいこと、やればいいと思う」
「…でも……」
「夏鈴はいっつもそうやってきたと思うし」
「……」
夏鈴はそこで口をつぐんだ。
俺たちはきっと、同時に日がほとんど落ちていることに気づいた。紫色の厚い雲が、少しずつ空を覆い始めている。すぐそこの道に生えた青い花の紫陽花が、ひんやりとした風に揺れる。
「……そろそろ帰るか…」
「うん……」
俺たちは自転車に跨った。
「…頑張れよ」
「ありがと」
俺たちの帰り道は、この自販機のある三叉路で分かれている。冷たく湿った風が吹いて、まだ火照った身体に纏わりつく。そこかしこで鳴く蛙の声が鳴り響いて、俺たちを独りに引き裂くように包んだ。
その日の夜。
俺はベッドに寝転んで、近くの大学の偏差値を流し見していた。雨は家に帰ってすぐ降り始めた。土砂降りの雨が屋根に当たる音が、部屋にごうごうと響く。
「役者、か…」
俺が夏鈴の言葉を思い返していると、ちょうど夏鈴からメッセージが届いた。
『きて』
『自販機』
「はぁ……?何言ってんだこいつ…」
夏鈴は親に黙って家を出て、夜中にあの自販機に俺を呼びつけることが時々あった。だが、今は土砂降りだ。帰りの夏鈴との会話を思い出して、俺は胸にざらりとした嫌な感じが広がるのを感じた。
「いや…雨…だろ……」
俺はカーテンを引っ張り開けて、外を見た。いつもは家から見えるあの自販機の方向は、土砂降りの雨にかき消され、どこなのかも分からなかった。
『さむ。ー、い』
今度は風呂で水滴に濡れた画面を触った時のような文章が届いた。
「夏鈴……」
俺は階段を一段飛ばしで駆け降りると、玄関を出て自転車を引っ張り出した。ドアに掛けたままの傘をカゴに刺し、自転車に飛び乗る。屋根の下から出ると、一瞬にして服が体に張り付くほど雨に振られた。それでも、俺はただ全力でペダルを踏み込んだ。
自販機に着く頃には、髪、シャツ、全部が濡れてしまっていた。自転車をその場に倒し、顔に張り付く髪をかき上げて水滴を払う。
「…夏鈴!」
あの赤いベンチに、夏鈴は膝を抱えて座っていた。白いシャツはびしょびしょに濡れて青く見え、肩は肌の色が透けていた。
「おい…!何やってんだよ…!」
俺は何も言ってこない夏鈴の肩を掴んだ。
「えっ…冷っ…」
俺が家からここまで来るまでの数分の間にも、全身がびしょ濡れになった。なのにそれ以上に、夏鈴は雨に打たれ続けていた。身体が冷えないはずがない。
「…寒…い……」
夏鈴は唇を震わせて小さく言った。
「このバカ…」
俺は夏鈴をそのまま抱き締めた。冷え切った彼女の身体に、少しでも俺の体温を伝えるように。夏鈴は俺の肩に顎を乗せて、腕を俺の背中に回した。震える身体でしゃくり上げる夏鈴を俺は落ち着くまで抱き締めていた。
ようやく落ち着いてきた夏鈴を離して、夏鈴に言葉をかける。
「…とりあえず、うち来い」
俺は自転車から傘を引っこ抜いて、夏鈴を傘に入れた。いつもは煩い傘に当たる雨の音が、今は暖かく感じる。
「家、出されたのか」
「……」
夏鈴は一度頷いて、そのまま目を伏せた。彼女の白く綺麗な顔が、自販機の光に一瞬照らされる。
「待って、お前…」
俺は夏鈴の顎を掴んで顔を上げさせた。彼女の口元にはうっすらと血が滲み、唇が切れていた。
「お前、口…」
「……」
夏鈴は顔を逸らして俺の手を払う。
「っ…なんで…なんでそんなことできるんだよ……」
俺は悔しくて、涙を堪えられなかった。夏鈴は夏鈴だけの人生で、やりたいことがあるだけなのに。夏鈴はあの親たちのものじゃないのに。彼女の両親への怒りだけじゃない。俺にそんな力はないと分かっていても、彼女の夢を叶えさせてあげられない自分の力の無さに耐えられなかった。
「……」
夏鈴が潤んだ目を上げて、俺を見つめた。奥底に大きな闇を秘めた、深い海の底のような目だった。
「乗って…傘、持ってて」
「ん…」
俺は夏鈴を自転車の後ろに乗せて、家に走り出す。
「…ごめん……」
夏鈴が俺にしがみついて小さく言った。俺には雨の音で聞こえず、背中に少し振動を感じただけだった。
家に戻ると、俺の親は夏鈴をすぐ風呂に入れた。その日、夏鈴は俺の部屋で寝ることになった。もちろん、俺は床で…。
俺の古い服を着た夏鈴は、俺のベッドで静かに寝息を立てていた。
あの日から、夏鈴は何日か学校を休んだ。例年より遅かった梅雨はかつてない早さで明け、蝉の声が少しずつ響き始めていた。
「久しぶり」
「おう…元気…?」
「うん、元気」
部活がない日の帰り。今日も夏鈴は休みだったが、あの自販機のところに呼び出された。
「この間はありがと」
「…うん」
少し斜め照りつける夏の日差しに、まだ気の早いヒグラシの声が聞こえてくる。
「私、東京行く」
「東京…?」
「うん、東京」
夏鈴の表情は明るい。今までのどこかに滲む陰のような空気は、もうほとんど感じられなかった。
「そっか…。親戚とかいたっけ…?」
「ううん、ひとりで」
「ええ…大丈夫かよ…」
「大丈夫。…なんか私のこと舐めてない?」
夏鈴はジロリと俺を見た。
「ないない、その目やめろ」
「ふふ」
「…ま、なんかあったら、すぐ行くから」
「うん…待ってる」
なんだか自分の言ったことが照れ臭くて、俺はベンチから立ち上がった。
「…なんか飲むか?」
「うーん……炭酸」
「お前苦手だろ…」
「いいの、炭酸」
「なんだよ…」
2人分のコーラを買って、缶を開けて飲んだ。
「……好き」
「…え?」
俺は夏鈴の突然の言葉に戸惑った。俺も夏鈴が好きだということに、とっくに気づいていたから。
「炭酸…!」
夏鈴は目を猫のように細めて笑う。口元に白く細い手を当て、楽しそうに揺れていた。
「はっ……なんだよ…バカ…」
俺は楽しそうな夏鈴を傍目に、自販機に寄りかかってコーラを煽った。
しばらく沈黙が流れて、とっくに2人ともコーラを飲み干していた。日が傾き、夏鈴の横顔をオレンジ色に映し出す。
「…そろそろ帰るね…準備しなきゃ」
「…明日出るのか…?」
「うん、明日の始発で」
「そっか…気つけろよ」
「うん」
夏鈴は立ち上がり、缶をゴミ箱に入れた。
「すぐ、帰ってくるね」
「おう。いつでも」
「また、ここで…ね」
夏鈴は自転車に跨って、振り返った。
「…じゃあね…!」
「おう……頑張れよ」
「ありがと…!」
夏鈴は勢いよくペダルを踏み出していった。すっかり緑になった紫陽花の道で、彼女はだんだん小さくなっていく。夕陽に輝く彼女の背中は、迷いなく大空に飛び立つ渡り鳥のように見えた。
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