モビルスーツ「ザク」と近代

近代主義と建築・デザインのことを考える上で、ザクって凄く特異な存在なのではないかと最近思っている。

そもそも近代とはなんぞや?という話をすると、手に負えないやら長くなりすぎるやらなので省くというか遁走するが、とりあえずデザインの分野に限って考えてみる。

近代建築の巨匠グロピウスが提唱したインターナショナルスタイルとは、それまで、地域性や民族性、個別の歴史性といった地理的・民族的・宗教的、さまざまな理由で個別化・個性化されて分断されていたデザインを越えて、世界中どこでも通用するような、援用可能なデザインの機軸を創ろうとして提唱されたものであった。
それは、移動力の増進による視野の拡大、科学主義によって「きちんと分けて一つ一つ考えてみる」視座を獲得したことによる素朴な発見の連発、科学的視野の威力と効果による高揚の中で宗教的・慣習的視座からの解放の進行、経済力の増進による市民階級の政治や言論や芸術への参加という「プレイヤーの増加」など、いかにも近代チックな「熱」の中での出来事であり、このグロピウスが「どこでも通用するようなデザイン」を唱えたのは、無難さへの希求などではなく、「どこまでも広がっていくような」デザインへの熱意と楽観主義とによるものであった、と、僕は思っているからだ。(感想かよ。

で、この時代の楽観主義と「熱さ」の感じをとてもよく表していると思われるのが、EMOTIONのビデオの冒頭に入っているムービーではないかと思う。なにやらSFっぽいサウンドと共に、夜明け前のようなワクワクする暗闇に光弾が光、やがてレーザーのようになって地平線へ走りなぜかモアイが登場するアレ。古いほうは確かグリッドデザインが上下に展開していたような気がする。

このグリッドデザインが曲者である。
中学高校の美術では、ポイントを定めて、そこから放射状に線を引き、中心点からの距離に従ってオブジェクトを設置していく遠近法の基本的な考え方を、立方体を描きながら練習させられた。この、任意に定められた中心からの距離感によって観測対象を設置していく、という方法は、大英博物館なんかを例にかなり批判されている危険かつ傲慢な思想である一方、その放射線上に無限に広がっていく景色(遠近法によって中心点から延ばされた線は、行きつく果てがない)は、その視座を獲得した人間の視界が無限の広がりを手にして感じられた眺めでもあるはずだ。

もっとも、グリッドデザインは遠近法によって獲得された新しいもの、というわけでもない。古代の城塞都市や日本の京都だってグリッドといえばグリッド状に区切られている。ともあれ、それらは城塞によってエリアに限界が設けられており、無限に広がっていくような獰猛さは無い。と、されている。
ところが、これが1950年代、60年代のアメリカになると、広大な土地に区割りされた居住地に、一戸建ての家が猛烈な勢いで作られていくようになる。居住地は人口増加と経済発展を原動力とし進展され、この時代のグリッドは城塞という限界を必要とせずに広がり続けていった。宇宙、そこは最後のフロンティアとか昔の偉いの人は言ったとか言わなかったとか、可住空間がグリッド状の区画線と共にどこまでも伸びていく感じは、ある種の力や熱のようなものであったに違いない。それこそ、EMOTIONのビデオ冒頭のムービーのグリッド展開は、「人が制御し得る空間がどんどん広がっていく」よという、そういうオプティミズムそのものでもあった、んじゃないのか。

さてさて、この「広がっていくぜ」という性質と性格を持つ近代デザインには、外へ押し出していく獰猛さと、「どこにでもいける」「形や色で自分を縛られない」というナイーブな自由さの性質もある。
この辺は自分でもうまく説明ができないので、聞き手のメンバー構成によってはエルガイムを例に出すことにしている。
インターナショナルスタイルの条件とは、民族的・歴史的・宗教的といった諸事情から要請される装飾から解放された自由なファサード(壁などの平面)や広いピロティ、外見から機能が直感されるような形状表現などとされているのだけれど、これは世代的に今の30代くらいまでしか直感的に理解できない(いくつかの講義でアンケートをとったところ、そういうデザインが流行った形跡を直接目にする経験が殆どないらしい。勿論、探せばいくらでもある)ので、もうヤケクソでスーパーロボット大戦とエルガイムの画像を引き合いに出す羽目になる。

エルガイムというロボットは、テレビアニメ「重戦機エルガイム」の主人公ダバ=マイロード(カモン=マイロード。「ダバ」姓は彼を匿ったダバ=ハッサーのもの)が操縦する主役メカであり、番組の顔である。画像検索をかけると、真っ白なボディに、余計な装飾の一切ない工業製品のような無骨なデザイン、そして、見たままそのままな大砲(ランチャー)や盾を装備した機体が出てくると思う。
このエルガイムのデザインこそ、余計な装飾によって民族性や地域性による先入観や束縛を受けない自由な平面(ファサード)としての装甲を纏い、一目見て「あ、大砲だ」と思うようなパワーランチャーやバスター砲を装備し、しかも、それら装備すべてがムーバブルフレームという内部骨格を基軸に「着せ替え可能」「着替えることができる」という、自由さと無限の進展性の権化のようなメカニックデザインなのである。

と、まぁ、持ち上げすぎるのもの信者丸出しなので、一応、難点も付け加えておく。
このエルガイム、無個性の塊でもある。
スーパーロボット大戦に登場するような他のロボットと見比べた時に、エルガイムの姿は、どこの作品にも出てきそうであり、どこの作品の誰が乗ってどう活躍しようが知ったこっちゃない、どこの誰であってもいい、「どうでもいい」デザインでもあることが解る。実際、エルガイムが登場していた頃のスパロボで、ダバたちがエルガイムやターナと一緒に登場するイベントで「お前はどこの脇役だ?」と思って初対面をするプレイヤーも80年代生まれには少なからずいる(自分もそうだった)。

このキャラクター性の薄弱さには、実際、ふかーいワケがある。
一つは、そもそも永野護の世代的な背景や、「デザインったって、服飾と同じで着替えりゃいいじゃん、選ばれるんじゃなくて選ぶの」的な、強烈な主体性の発想があり、また、そもそもの設定として、エルガイムというロボットの中身は、ヤーマン王朝という亡国の主力兵器ガイラムであり、このガイラムと王朝の生き残りカモン王子の出自を隠すために、ガイラムから徹底的に民族性を排除して作られた「カスタムメイド」なのである。
要するに、エルガイムは無個性なのではなく、「個性を排除した」デザインを持つロボットなのだ。これは、近代建築の思想、インターナショナルスタイルと評価することもできるし、物語の設定上、インターナショナルスタイルの要件を偶発的に備えてしまったデザイン、ともいえる。

とにもかくにも、色んな意味で近代的なエルガイムだったが、それだけに、やはり近代主義の難点も持ち合わせていた。
いくら理由が付けられていたところで、エルガイムのデザインとしての個別性は非常に弱い。80年代における新しさ、を知らない世代から見たエルガイムが「古臭い」ことには変わりはないし、それは信者であってもそうなのだ。
エルガイムのデザインが「通用しない」のは、世代が下るほどに、エルガイムの全話視聴がつらくなっていくのと通底しているかもしれない。デザインの魅力が無ければ、富野の実験室の系譜であれを全話みるのはかなり苦痛なのである。

ともあれ、そこはそれ、偉い人はいつでもいるものである。
エルガイムのデザインの難点は、実は直後に粛粛と解決と克服が始まっていたのであった。

個人的に日本のマンガ史上最低最悪の帯だと思っていた「モーターヘッドはポストモダン」という謳い文句の謎がここで紐解かれることになる。

近代建築の難点として挙げられる、「どこでも通用する」ための無個性が同時に「個性を獲得しなければ埋没し忘れられる」呪いを内包していたという事実。エルガイムの、ヘビーメタルと呼ばれるデザイン群にもまた、同じ呪いがかかっていたといえる。建築の世界では、それらはしばしばポスト近代、ポストモダンと呼ばれつつ批判の対象になったり克服すべき課題とされてきた。たとえるなら、エルガイムに無理やりツノをつけたようなちぐはぐかつ付け焼刃感あふれる建築が増えていくのもこの時代の建築の一つの特徴であり、そこには、失ってしまった個性の再獲得という命題が含まれていた。近代の自由さとは、同時に、根無し草化の恐怖との直面だったのである。

意味のある無個性を有したエルガイムは、その目新しさが失われると、やはり時代の中に埋没していく。デザインそのものとしての弱さは、その時代的文脈を理解しない者にとっては、大きな角も羽も持たない弱そうなヤツ、でしかないのだ(だからって、あれはねぇだろと思うと大体90年代という・・・いやいや待ってくれよ、そろそろ90年代のロボットをキット化してくれてもいいんじゃないっすか?!色々うわなにをするやめろ)。

エルガイムが終わった後、月刊ニュータイプで「ファイブスター物語」の連載が始まる。僕の個人的な計算によれば地球の総人口の役半数が愛読している筈のマンガだが、このマンガに登場するロボット群、モーターヘッドのデザインは、エルガイムに登場するヘビーメタルの発展形であった。
例えば、エルガイムのデザインは惑星ジュノーの覇権国家コーラス王朝の象徴として代々受け継がれていくジュノーン(エンゲージ・オクターバー)に発展するが、ここでは、エルガイムに施されていた意味のある無個性は鳴りを潜めていく。ファイブスター物語2巻に登場するジュノーン前期型は、主人公の分身レディオス・ソープによって、その兵器的なデザイン上の長所を指摘されながらも、当初から王朝の象徴として作られたことが製作者のコーラス3世によって語られる。ジュノーンはエルガイムと異なり、最初から民族性やナショナルアイデンティティのよりどころとなるべく作られた、意味のある個性を持つべくしてデザインされたロボットだった。
エルガイム→ジュノーンへの移行を見比べると(永野護がしょっちゅうデザインを変えるのでどうにも不安定だが)、近代デザインの申し子のような存在だったエルガイムが、再び、個別の意味を持つ主役機としてのジュノーンへと描き替えられ得た(いや、それぞれ独立した作品なんだけども)という事実は、多くの近代建築や近代的なるものが陥った近代以降のの困難、つまり、どこへでもどこまでも移動できるような自由を得た結果、戻る場所も居つく場所も失ってしまい、か細く消えつつある、という現実の中で、結構、というか、かなり凄い成功例なのである。

近代の中で産まれた、或いは、近代が生み出したデザイン上の潮流は、思想的な、政治的な、文化的な、色々な側面で毀誉褒貶があるものの、やはり、同じような「文脈からの自由」が「文脈の再獲得」に失敗して「意味の喪失」へと崩れ落ちていく難点を抱えていた。これがポストモダンの困難という、持って回った言い方なのである。
しかして、ヘビーメタルからモーターヘッドへの移行は、永野護という希代の才能によって短期間に達成され、その後の30年近く、新しいデザインを生み出し、作品も続いているのである。つまり、角川の井上社長が編集者時代に書いたという噂の「モーターヘッドはポストモダン」というあのクソダサい帯は、正鵠を射ていたのであり、あの時代の、80年代が終わり、その勢いと熱が去っていくのを感じながら多くの人間が何も出来なかった90年代の焦りと不気味な冷たさの中で、「次の何か」を掴みかけていた男達の勝利宣言でもあったのだ。

で、そのモーターヘッドが2013年(正確には2012年11月1日)に、ゴティックメードという規格に切り替わり、1998年に永野護がニュータイプのインタビューでこっそり公言していた「様式美から機能美へ」のシフトが再び始まっている。国家性や民族性の象徴としてのモーターヘッドが、何故、似通ったデザインのゴティックメードに変えられたのか。その理由は2018年2月と3月の同誌の特集記事で語られている通り、「意味」を獲得するためのデザインであったモーターヘッドに、更に実戦兵器としての実用性、リアルさを付加したのがゴティックメードなのであって、それはまた、「さまざまな意匠」によって縛られ重たくなり過ぎたデザインラインに、実用性というメスを入れたらどうなるか、という、タモリの無思想のようなどっかで聞いた実験なのであるけれども・・・実は本題から逸脱してしまっているので詳細は省く。とにかく、永野護という人は、かくして今日も前へ進み、はるか先を走り続けるのである。

で、永野護がどれだけ凄いかは置いておいて、こういうロボットアニメの「メカニックデザインに見られる近代」の中で忘れちゃいけないのが、大河原邦夫と安彦良和なのだ。

やっとザクの話。
ザクって言えばキュベレイの中身がザクだっていうあれ(まだいうか。
近代主義とデザインの関係を考える上で、忘れちゃいけないのがウィリアム・モリスである。草やツタが絡み合ったようなデザインを見るにつけ、どこが近代やねんと思うんだけれども、モリスの場合は近代主義が進展していく時代にああいうのを「意識的にやっていた」点において、やはり、近代と向き合った偉大なデザイナーなのである。
モリスが様々な矛盾を抱え、しかも方々に喧嘩を売りまくった人であったことは伝記などを読むと解るんだけれども、その矛盾の一つに、モリスがイギリスの伝統や信仰に通暁し深く愛した人であると同時に、その伝統を破壊するのに加担していた人であったという事実がある。
モリスは幼少期から敬虔なクリスチャンであり、聖職者を目指してオックスフォード大学へ入るが、その際も、イギリスの伝統やキリスト教的世界観の復刻を目指したオックスフォード運動に加わらんとしていた。ともあれ、モリスが入学したころにはオックスフォード運動は下火になっており、モリスは落胆しつつも自分なりに各地に残った「伝統的なるもの」を探していく巡礼旅行のような行為を続ける。この間に出来た仲間たちがのちのモリス商会の立ち上げや彼のデザイナーとしての活動にも関わるのだが、モリスにとっては、そこで目にした様々な建築物が刺激になったらしい。
モリスが目にした建築物や家具は、イギリスらしさとは何かを考える参考であったと同時に、恐らく、不満や疑問をも生じせしめたに違いない。その結果が画期的なデザインとして噴出するのが、モリスの新婚家庭の舞台として建築された赤レンガの家「レッドハウス」である。このレッドハウスの基礎設計は友人の手によるものだが、モリスはその細部に至るまで関わり、家具のデザインも担当している。
あまり詳しいことは建築の専門ではないので判らないが、写真で見る限り、レッドハウスの暖炉に代表されれるレンガの使い方と、レッドハウスの外壁の形状は、確かに、装飾性や民族的・伝統的な原則によるしばりを無視した、実用性重視の構造と、後にグロピウスが提唱するような自由な平面を既に獲得、体現している。

デザイナーとしてのモリスは、このほか、写植や活字のデザインや装丁などでも活躍することになるが、もう一つ、社会主義・共産主義者としての側面を色濃くもつ人物でもあった。
一時は聖職者を目指したような敬虔なクリスチャンであり、また、伝統的な価値観を大事にする保守主義者であり、また、生涯に渡ってそうした側面を持ち続けたモリスは、同時に、激烈な社会主義者・共産主義者としても分類される。この矛盾は多くの研究者が既に指摘し、論じていることなのだが、モリス自身はその矛盾をどう考えていたのであろうか。

社会主義者・共産主義者としてのモリスは、近代化や資本主義がもつ伝統や歴史を変容させて顧みない性質を目の当たりにしたことへの危機感と反発によって突き動かされていた面があり、それでいて、自分のデザイン事務所や工房では職工をこきつかい機械化も進めていたというアレな人でもある。元々、父親が投資で成功した富を背景に裕福な生活を送っていた人でもあり、この辺は金持ちの気まぐれと自分勝手による理想主義だと言ってしまえそうでもあるが、そのモリスが著名なデザインを発表し、詩人としても活躍したあたり、ただの道楽とも言い切れない。
社会主義や共産主義の中にあっては、モリスは未成熟な共産主義が議会を持つことに異論を唱え続け、大衆による全体主義を忌避した。その姿勢を貫くためには教会や聖職者とも対立し(というか共産主義者だもの宗教だって否定はするわな)、晩年先鋭化していくバカは死ね的なスタンスによって喧嘩が絶えず、結果的に、急進的アナキストと同類視されることにもなってしまった。

吉田豪が採りあげそうな人物であったかも知れないモリスだが、彼が社会主義者として活動を始めた後にこんな趣旨のことを言っている。
「人間や人間の暮らしは時代の流れに押し流されていくが、その流れの中で人間が何かにしがみつくことが出来るとすれば、それは、人間が日常使用するもののデザインにおいてである」
巨大な建築物やモニュメントを、「(偉)大なる芸術(グレートアート)」とすると、モリスがデザインした家具やフォントは「小さな芸術(レッサーアート)」である。柳宗悦の民芸品への嗜好と重ねて論じられることが多いものの、時代の変化を「しがみつかねばならぬほど」に目の当たりにしていたモリスにとっては、普段身の回りに於いて使うもののデザインによって自己を定義し続けることは甚だ重要であったのかもしれない。近代とデザインや建築を考えるとき、ナショナルアイデンティティという言葉がしばしば登場する。近代国家という新たな枠組みに、農民や貴族や宗教者や職人をひっくるめて市民や国民として結び付けておくために必要とされた新たな象徴のことである。その象徴に、富士山のような大きく美しい自然や、城や橋や街並みといった建築物やモニュメントが選ばれ、或いは新造されていく。モリスが見た「(偉)大なる芸術(グレートアート)」とは、或いは、そういう「とってつけたようなもの」であり、近代という傍流の権化だったのかもしれない。だからこそ、そこに人間が個人として、或いは、今にも押し流されそうなルーツを手放さないための取っ手、グリップとしての「小さな芸術(レッサーアート)」に価値を見出したのであろうか。

自分が持っている物によって自己を定義する。という発想は、現代の消費社会の中でこそありふれたものとなり、なんともはや、男子としてもおたくとしても非常によく分かるような身につまされるような発想であるが、モリスとその時代において言えば、それはまた、均質化やルーツを奪われる実感の中で登場した発想であった。

で、今度こそザクの話。
ザク、というロボットの画期性を「量産型」であると言われた時には、殆ど30年越しに「そうだったのか!」となってしまったのだけれど、そうなのである。ザクというのは、エルガイムよりも以前に、量産機として確立されたデザインなのであった。
ザクは言わずと知れたガンダムの敵メカである。今でこそ「やられメカ」の地位という代名詞にされているものの、ロボットアニメにおけるやられメカって、ザク以前にどんなものがあっただろうかと思うと、殆ど戦闘機(円盤・飛行機や戦車)の類で、主役メカに比肩するような人型メカってあまりなかったりする。そりゃそうだ。プロレスの相手が雑魚じゃ面白くないし、似たような敵メカが複数出てきたら誰が敵役なのか判り難いし、何より倒すどころか描くのも大変だろう。
ザクは仮面ライダーで言えば戦闘員なのだが、と、勢いで書こうとしたけれど、そもそも「機動戦士ガンダム」には、戦闘員と怪人の区別があまりない。あったら意味が無かったし、だからこそ画期的でもあった。巨大仮面ライダーにあたるガンダムは強いけれど、相手は戦闘員も含めて性能的に全員怪人というような、そういう話。
性能的にあんまり差は無い。
とか言ってしまうと、なんだかつまらなく思えてしまうわけだけど、ガンダムには灰汁の強い中高年が次から次へと登場する。いきなり前線での出世欲をギラつかせたジーン、あんたいつから気苦労の多い中高年役やってるんだ的な声のデニムがいたと思えば、赤いザクがやたらに強かったり、ガデムが乗って出てくる旧ザクがクラシックカーみたいな粘りを見せるのもかっこよけりゃ、いきなりザクとは違うとか言い出すおっさんがまた渋い。んでもってドムでしょ?こいつらがそろいもそろって、何故あのような形に造られたのか、判り易くデザインされ、登場してくる。そりゃ痺れますって。最近のガンダムはメカの設定を大事にしないと思うんだけども、設定を大事にするというのは、劇中でちゃんと生まれた理由がわかるように描かれているかどうかによるんじゃないのか。だから、鉄血とかダブルオーよりも、ファンシーな設定であるはずのビルドファイターズやダイバーズのほうが、プラモ制作の意図が劇中で触れられている分だけメカがリアルに描かれているように感じてしまうのだろう。
まぁどうでもいいんですけども。

で、この、戦争という究極の実践主義・合理主義合戦という状況設定に、工業製品としてのロボット兵器という性質を具備して投入されたモビルスーツというデザイン群は、やはり、数年後にヘビーメタルが直面する問題を胚胎していた。モビルスーツとつけば何でも売れるのか的な、或いは、何をもってして正解とするのか、そのロボットがモビルスーツである理由の不鮮明化が生じる。当時の事は解らいけれど、後半ではMAが鳴らしてきてMSがオワコン化しかけていたのも面白いし、劇場版で登場するコアブースター強過ぎだろう問題もまた、合理主義の世界で、モビルスーツよりも使えるマシンが登場したら、そちらへ移行することは止められないが、敢えてそれを無視したり逆らったりする描写をしてまうとリアルさが失われてしまう難点が発生する。
「聖戦士ダンバイン」でも終盤にオーラボンバーという新機軸が登場して、あわやオーラバトラーがオワコン化するかと思われたところで問答無用の全滅をするのだけれど、この、リアルさゆえの機軸変更の波、の所在は、ロボットアニメが長く放送していた時代には、気づいてしまった時点で結構深刻だったんじゃなかろうか。何せ、身の回りの家電や機械は、どんどん新しいものが出てきて、そして、新しい方が性能も上で壊れにくくなっていった時代だ。00年代以降の、古い物に勝てなくなっていったり、90年代後半からの、超性能の理由付けがオカルトでも科学に冷めた方面にブン投げられるようになっていたりした時代とはその辺ちょっと違う、流れに勢いがあったからこその悩みかもしれない。

ともあれ、そんな工業製品、実用品であるがゆえに、古くなったり上位互換が登場したりすれば乗り換えられるべく運命づけられた「道具としてのザク」が、なぜか反則的に愛好される存在となってしまう事態が同時進行していた。ある意味では、もっとも頻繁に乗機を変えていったシャアが連発し印象付けた「専用機」の存在は、工業化という、近代を象徴する出来事に巨大なくさびを打ち込んでいた。
専用機。
量産型という単語を出してしまったがばかりに登場したとも思えなくもない、この専用機という響きは、後の世代にも通用する魔性を帯びている。
基本的に量産品に囲まれている世の中にあって「専用」という言葉の持つ響きが、まさに所持品から個人の個別性を定義してくれるからだ。倒錯した話だが、シャアはシャア専用モビルスーツに乗っているから「シャア」なのだ。それはまた、ガンダムから降ろされたアムロが度々アイデンティティクライシスに陥る描写からも解る。

ともあれ、アムロとガンダムの場合は文句なしの実績が、シャアの場合はそこにキャラクター性と逸話が加わっているからこその「専用機」なのかもしれないが、ここに、プラモの解説書や模型雑誌に書かれた、一味違った形状の量産機と居もしないパイロットの作り話が人の魂を揺さぶってしまうのである。
ジョニー・ライデンしかりシン・マツナガしかり、作り話に登場する架空のパイロットの話にどこまで人間は胸を打たれるのであろうか。しかし、改造されたザクの色が違うだけ、そこに逸話という文脈が付されただけで、文字通り人間は踊らされてしまうのである。その熱さはまた、ガンダムの放送が終わりイデオンが始まりザンブングルが始まってバイストンウェルからペンタゴナワールドまで旅をしてなお、ガンダムという作品に人々をしがみつかせる手がかりとなった。
それは、ザクが既に単なる機械、道具ではなく、「◯◯の乗機」という、人々の記憶に紐づけられた存在になっているからである。番組が終了して、「いまやってる番組のキャラクター」としての関連付けは意味消失しても、「あのキャラクターの専用機」という別の文脈、関連性が活きている限り、思い出したり引用したりする機会はある。それが、モリスが考えた「時代の流れの中で何かにしがみつくためのデザイン」なのではないか。

放送が終了し、新番組がどれだけ始まろうが、卒業し就職しようが、なんとなく帰って来られてしまう、その手がかりザクなのだとすれば、その秘密がデザインにあるのだとすれば、それは、ザクというデザインが、デザインを通じて人間をガンダムという作品に結びつけ続ける紐帯と役割を果たしている。
ヘビーメタルがグロピウスの定義したインターナショナルスタイルだとすれば、大河原邦夫が描いたモビルスーツはモリスがこだわったレッサーアートであった。共に、近代という時代の変化をそれぞれの方向と善意から見つめて形成された仕事である。
永野護が、近代デザインからポストモダンを経て再び実用品としてのメカニックデザインに挑み続けているのも、或いは、ゴティックメードの中からザクを生み出そうとしているのかもしれない。

なんにせよ、個別の意味を持つことへの希求と、逆に、意味や文脈が増えすぎてがんじがらめにされている息苦しさを快刀乱麻するような合理主義による量産型の衝撃、自由さ、そして、その自由さゆえに抱え込むことになった存在の軽さ、からの、再び個別の意味を獲得することへの困難さ。

これは、この世界で近代から実際に続いているすったもんだの一つの側面でもあり、また、その為に「語り直し」が行われようとしている気配を最近、日本でも濃厚に感じられる。そんな中、日本の、戦後のアニメにおいて模索されてきたメカニックデザインが、近代とそのあとさきの有様を奇妙になぞっているのは、ちょっと不思議だなぁと思ったのでありました。

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