徒然駄文5.エヴァンゲリオンのころ1

テレビ放映版エヴァンゲリオンのことを「アニメ版エヴァンゲリオン」というと怒られるから気をつけろ!(長井秀和風。

時は1995年、当時も今も何言ってるんだかよく分からないでおなじみの「新機動戦記ガンダムW」を食う勢いで話題になった「新世紀エヴァンゲリオン」。当時小学生であった僕は、確かTBSラジオか文化放送のアニラジ枠のCMで単行本(1~2巻が既刊で3巻発売のCMが打たれたはず)があまりに多くて、うんざりしていた。

で、国立駅の南口にある本屋で3巻を買って塾帰りのバスで読んでいたら、そのまま終点の府中駅まで乗り過ごしてしまったのだった。京王線の府中駅は90年代はじめ頃まで線路を汚い筒が囲っただけのような佇まいであったが、この頃に改修工事が進み、降りてみたら全く知らない綺麗な駅になっていた。生まれて初めて本に熱中してバスを乗り過ごした体験と、あの不思議な光景とがセットになっているのが、僕にとってのエヴァンゲリオンの原風景である。

エヴァについては色々と思う所も喋りたいこともあるのだけど、今回は、ちょっと恨み節のような話。

ロボットアニメやメカニックデザイン(アニメに登場する機械のデザインのことをメカニックデザインという。産業デザインや工業デザインとは違うのよおっかさん)が好きだった僕は、山下いくとのデザインしたエヴァンゲリオンのデザインに痺れてしまった。綾波レイとか惣流・アスカ・ラングレーとかはどうでもよいというか、そんなことより、新しいロボットアニメがきた!デザインも物語の切り口も語り口も、演出も、なんかすごいクールで、奥深いよ!うわ!プラモとかおもちゃ欲しい!・・・と、なっていたのだ。

若い子達と話していると以外に共有されていないのだなと思うのが、90年代という時代のロボットアニメや特撮界隈の空気を、おたくではなく子ども、ガキンチョ共がどう感じていたのか、という話である。

80年代中頃生まれには、直撃するガンダムやウルトラマンが微妙に無かった。劇場版やOVAでF91や0083なんかがあったし、小学校4年~6年でV,G,W,Xのいずれかに当たっているし、それよりなにより、幼年期に勇者ロボシリーズが直撃、小学校低学年んではエルドランシリーズで学校がロボットに変形する夢にうなされたり、ママは小学4年生というどうかしているアニメの記憶を後にスーパードールリカちゃんで煮しめて20世紀を終えたような世代であるはずだ。サイバーフォーミュラにマクロス7、鉄人28号FX、マッハバロン(アニメ)など、いや、よく考えればいっぱいあったのよロボットアニメ。問題があるとすれば、ムサシロードやてやんでぇなど、魔神英雄伝ワタルあたりで完全に定番化した印象のあるSD(すーぱーでぃふぉるめ。ああ元祖。もといプラクション)キャラクターの活躍するアイアンリーガーのようなアニメが多く、ガンダムもSDガンダムや外伝、戦国伝(地上最強辺から7人の超将軍編あたりが超熱い)など、パロディやギャグの要素が色濃くあったことである。

パロディとギャグ。本来、重厚でシリアスな問題に毎度毎度なぜか子どもが巻き込まれ、命がけの解決を押し付けられる超問題体質には、絵物語や誌上紙芝居に影響を与えた街頭の紙芝居、そして、立川文庫や新講談の中に芽吹いた大衆向けの文芸と、そこからさらに購買層を先鋭化させて「大人が読ませたい子ども向けの作品」から「子どもが読みたい子ども向けの作品」への進化と深化の歴史がある。ともあれ、敗戦という「良くも悪くも古い体制を固持してしまっていたジジイ共が死滅するイベント戦闘」を経て、「アメリカという名の他人から変革の機会を与えられた」我らが日本は、戦前戦中に培ってきた娯楽の技術を、戦中の翼賛体制という巨大な政治性から解放することに成功した。結果、子ども向けの読み物には、本格的な世界観や設定、深刻なストーリー、小遣い銭を使う子どもの欲求に答えるためならエログロナンセンスだろうとかまわず投入するえげつなさ(例えば、欧米社会の子どもたちは街頭で気軽に買い物をしないんだそうな。そりゃまぁ、生活水準が改善した頃に、それなりの家で生まれた僕にもなんとなくわかる)を、政治的な要請が分離された自由な状態で炸裂させられる環境を与えられた。

詳しい話は気が向いたら書くとして、手塚治虫の活躍や、戦後の物づくり環境における戦争の記憶が軍艦や戦闘機のプラモデル製造に影響していたことや、科学主義や進歩主義が当時の子ども達に見せた夢としてのロボットアニメ、手塚を泣かせた劇画ブームなどを経て、子ども向けの作品は実に豊かな子ども騙しの手練手管を培ってきた。その一つがメカなのであるが、僕が生まれた頃、このメカに異変が起きてしまっていた。

マジンガーZやゲッターロボは今日スーパーロボットという、なかばオカルトめいた根性論やよく分からん宇宙パワーとか神秘パワーで動く大味なデザインのロボット・・・という印象になっていることを学生のリアクションペーパーで知ってひっくり返ってしまったのだが、これもいつか言及するだろうけれども、マジンガーZのメインカメラに瞳が無いことや、わざわざ修理シーンや内部構造のカットを入れてくるあたりは、サンダーバードに影響されたリアル志向の作品であったことを示しているし、何より、マジンガーZやゲッターロボが表立って神だの悪魔だのよう分からん神秘パワーで物事を解決し始めたのは「90年代の」真ゲッターロボやマジンカイザーあたりからだ。そして、僕はその世代なのである。

今夜も順調に本題から逸脱しているが、1990年代後半において、ゲッターロボは真ゲッター、マジンガーZはマジンカイザー、ガンダムはWガンダムゼロやダブルエックスが、そしてエヴァンゲリオン初号機。これらの共通点は、科学主義や進歩主義という「科学が発達して獲得した新しく優れた力」ではなく、「封印された超技術」「人知を超えたパワー」のようなものが強さの根拠になっていたことだ。もうちょっと前にはダッシュ四駆郎のプロトエンペラーもそんな感じだった。

イカ臭い言い方をすればオウム真理教もこの時期なのだが、科学主義や進歩主義という「どんどん良くなっていく未来」がまるでブレードランナーの未来館のようなくすんだ光景にとって代わっていくのと同時に、「輝かしい過去」がある種のオカルティズムと共にアニメの中に根を張り始めた時期であった、かもしれない。

そんなこんなで、子ども心に、「ロボットアニメはエヴァで変わる。もっとすごい、イカした作品が増えるんだ!」と思っていたら、エヴァで劇的に変わり、増えていったのは美少女の方であり、花に追われた恐竜(またオカルト学説)のように、僕は深夜アニメをうらめしい気持ちでチェックしながら、ファイブスター物語やトランスフォーマーを心の支えに、古いホビージャパンをさかのぼるようにして、なんだかひねくれたおたく道を彷徨い始めることになったのである。(つづく



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