源氏物語:主役は光源氏にあらず


子供心に、『源氏物語』とは義経や頼朝の話かと思っておりました。それから50年、和文の魅力に引かれて三度も読みましたが、今度は平安流女たらしの話にしか見えなかった。でもそれは読みが浅はかだった! 光源氏とその末裔達の女性遍歴が書いてあるように見えるけれど、そこに描かれているのは実は、彼等に翻弄される女達の生き様なのだと、漸く悟りました。家内に自慢気に話したところ、「アタシは子供の頃に『あさきゆめみし』で読んだ時から、そう思ってたわヨ」と一喝されました...

きっかけは言ってみればiPadです。日々その便利さを実感している内に、

掲載の本文を借用すれば縦書き54帖をiPadに入れて持ち歩ける! と閃いた。
 
嬉しくなって作業を始めたところ、各帖が幾つもの段落に分かれていて、それぞれにタイトルが付けてある。和文を楽しんでいる最中に現代語が目に入るのは興醒めなので、iPad用ファイルを作る際に、段落タイトルを全て削ることにした。削っている内に、一部のタイトルに強い違和感を感じたのです。

例えば紫上。祖母の尼の世話になっていた十歳の少女を、尼の死後、実父に引き取られる寸前に源氏がさらって育てた。成長したからと言って今更どこに行けるわけも無い彼女を、彼はある晩強引に抱いてしまうわけですが、その晩から翌朝に掛けての段落が「源氏、紫の君と新手枕を交わす」と題されている(「葵」)。しかしそこに紫上の心中を示す文があってこうです:

かかる御心おはすらむとは、かけても思し寄らざりしかば、などてかう心憂かりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむと、あさましう思さる。
(私訳) 紫上は、源氏がこんな積りでいたとは夢にも思っていなかったので、彼がこんな厭な気持を持っていたというのに、どうして無心に頼みにしてきたのだろうと、余りのことに呆れ嫌悪し不快に思った。

更に何日も経った後でも:

...女君はこよなう疎みきこえ給ひて、年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそあさましき心なりけれ、とくやしうのみおぼして、さやかにも見あはせたてまつり給はず...
(谷崎潤一郎訳を少し修正) ...紫上は源氏にこの上なく冷淡な態度を取り、何年もの間全てについて頼りにし纏り付くようにしてきたのは、我ながら「あさましき心」であったと、どうにも悔しくてたまらず、源氏とはっきり視線を合わせようともしなかった...

紫上の気持がこれだけはっきり書いてあるのに、どうして件の段落に「源氏、紫の君と新手枕を交わす」などという題を付ける気になるのか、全く理解できなかった。

また「若菜 下」では、源氏の妻となった女三宮の寝室に、柏木が忍び込んで強引に抱くという事件が起こる。それを知った源氏が、これから彼女をどう扱うべきかと煩悶する段落に、「源氏、妻の密通を思う」と題されている。密通とは「男女がひそかに情を通じること (広辞苑)」ですが、柏木の度々の懸想文に対しても、寝室に入ってきた彼に対しても、女三宮は一切の反応を拒否していて、どんなに意地悪な見方をしても「情を通じた」とは言えない。強いて落度を探せば、魅力的で男を否応なく惹きつけてしまうのがいけない、ということになるでしょう (考えてみればこれは、仏教・キリスト教で女性を罪深い存在と見なす根本の理由のようだし、煩悩の塊のような私にはそれもまた分り過ぎるほど分る...)。
 
確かに、女三宮の布団の下から柏木の手紙を見付けた光源氏にしてみれば、密通と受け取るのも無理ないかも知れない。しかし、段落の頭に言わば客観的記述として「妻の密通を思う」と掲げられると、彼女の置かれた立場が何とも痛ましい...

段落のタイトルにこうした違和感を持ちながら作業している内に、突然見えたのです。ついつい光源氏を始めとする男達の眼を通して事の成り行きを眺めてきたけれど、

そこに描かれているのは実は、彼等に翻弄される女達の生き様なのだ
 
明石の君・夕顔・浮舟、そして誰より紫上。幼い頃に源氏にさらわれて来て、男女の仲になった経緯は上に記した通り。それ以後25年間の心境の変化は知る由も無いけれど、理想的な伴侶と評される生活を送って、事実上の正妻と自他共に認める立場に落ち着いたはずだった。そこに思いもかけぬ女三宮の降嫁。源氏がそちらに行っている晩は、お付きの女房達に物語を読ませて夜を明かす。そんなある時の紫上の心中です (「若菜 下」):

かく、世のたとひに言ひ集めたる昔物語どもにも、あだなる男、色好み、二心ある人にかかづらひたる女、かやうなる事を言ひ集めたるにも、つひに寄る方ありてこそあめれ、あやしく浮きても過ぐしつるありさまかな(中略)人よりことなる宿世もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬ事にするもの思ひ離れぬ身にてや止みなむとすらん、あぢきなくもあるかな、など思ひつづけて、夜ふけておほとのごもりぬるあか月方より、御胸をなやみ給ふ...

谷崎潤一郎訳を朝日『日本古典全書』の注釈を参考に手直しすると、

人の世の例として書き集めてある昔物語にも、浮気な男、色好み、二心ある男に係り合った女、こうした類のことが色々書いてあるが、結局男は一人の女に定まるものらしい。なのに自分は、妙に浮草の如きありさまで過ごしてきてしまったものだ(中略)人とは違う幸せな宿世も持ち合わせた身でありながら、女として忍びがたく満足しがたい嘆きを抱えたまま終ることになるのだろうか、何と空しいことよ、などと思い続けて夜更けに眠りにつき、明け方より胸をわずらう...

それからの病状は一進一退で、命のある内に本意を遂げて出家したいと望んでも源氏に許してもらえず、四年余りを病床で過ごした末に亡くなります。

追伸その一:個人的に一番興味のあるのは『宇治十帖』です。薫が八宮という仏道の友と語り合うためと称して宇治の屋敷に通うが、本音はやっぱりそこに住む二人の娘達。垣根の外からこっそり覗くといった軽いノリの行動に始まって、匂宮のような直情径行型でない薫は却って深みにはまって行き、最後は薫と匂宮の板挟みになった浮舟が身投げするという深刻な事態に。息を吹き返して尼寺に匿われている浮舟と薫の、人を介しての遣り取りを追っていると、男と女の間には永遠に擦れ違いしかあり得ないのだ... なんて気持になります。
 
追伸その二:本文を段落に分けてタイトルを付ける手法は、岩波『新 日本古典文学大系』版でも頁下の注釈の中で使っているので確認したところ、上に引いた二つの段落がやはり「紫上と新枕を交す」「源氏、密通を思う」と題されている。結局、男性研究者は原文を熟知しているにも拘わらず、こんなタイトルを付けて何とも思わないらしい... と一旦は思ったのですが、これはもしかしたら見方が単純なのかも。特に「新手枕云々」に関しては、問題の事実に注意が向かないようにしたい、『源氏物語』を飽くまで雅な世界の恋の物語にしておきたいという、言わばマーケティング的な配慮があるのかも知れません。

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