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辻の話

 辻の話といっても、十字路の辻ではない。むかし、那覇市辻町にあった辻遊郭のことである。俗にチージといった。なにを今さら辻の話でもあるまい。寝た子を起こすような、くだらない話はよせと言われそうである。
 しかし、戦時中まであった三百軒、三千美妓といわれた辻遊郭は、くだらないどうかは別として、私は子どもの頃、ひょんなことから、辻の女と知り合ったことがある。


 昭和六年ごろ、那覇、首里間にはチンチン電車が走っていた。私は小学五年生で父はどこかに勤めていた。
  ある日、母が風邪で寝込んでしまった。煮炊きができない。家族は三人で、父と私は店屋モノで朝はすませた。父は出かけしなに「晩ごはんは、辻のオバサンが夕方の電車で来て、こしらえるはずだから、お前は大通りで迎えて案内しなさい」といいつかった。

 辻のオバサン(遊女)といっても、子どもの知る由もないが、はたしてその人を見つけて、家へ迎えてこれるか心細かった。ところが、辻の女はよくしたもので、外見で子どもでもわかるようにできていた。
 まず、若い女で頭髪はカンプー(琉球まげ)を結い、白銀のジーファ(かんざし)を挿していること。琉装(ウシンチーが前帯)であること。テカテカと厚化粧をしていることなどで、粋筋(いきすじ)と見分けられた。

 私の家は、松山町の高台にあって、坂を下りきると電車通りに出た。夕方、停留所でオバサンを待った。やがてそれらしい人を見つけた。車内の明るい光の中で、ひときわ目立つ琉装の若い女性が、つり革に掴まっていた。
 これだなと思って、降りてきたところを「コンバンハ」と声を掛けた。すると彼女はこちらをチラッと見て「アラ、おぼっちゃまですか、これはどうもありがとうございます」と言って、会釈した。「おぼっちゃま」と言われて、少し照れたが、探しものが見つかった時のようにホッとした。

 見ると年のころ、二十五、六の小柄で色白の美形のオバサンであった。並んで歩くと、髪油や香水の脂粉の香がプンプン鼻をついた。
 道すがら「ぼっちゃま、おいくつ」と聞かれたので、十歳と答えた。それでは、こっちもと間をおいて「オバサンはいくつですか」と尋ねた。彼女は笑いながら「二十七です」と小声であった。

 家に着くと、彼女は寝床の母の前で両手をつき頭を下げて言った。「奥様には、ご病気と伺いまして、旦那様のお言いつけでお手伝いに参りました。お具合はいかがでしょうか。私でよろしければ、おさんどん(台所仕事)をさせていただきます」と、それは見事なヤマトグチ(標準語)の挨拶にびっくりした。

 目のカタキのはずの母は「お忙しいのにすみませんね、よろしく頼みます」と返した。こうして彼女は、我が家の夕食を作り、母と私の口腹を満たしてくれた。そして、あと片付けをすまし、母にあいさつしたとき、母はお礼の心づけを差し出したが、彼女は辞退して帰った。母に言われて私は停留所まで見送った。
 彼女は、控えめで礼儀正しく、ヤマトグチも大変上手で、他家に出向いて手伝いをするという、辻の女の意外な一面を垣間見た思いであった。

 自慢にもならないが、小学生がアカの他人のいわゆる娼婦と、肩を並べて歩いたり、親しげに話しあったりすることは、およそ考えられないことであった。

              エッセイ集『どっこいしょと八十余年』より

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