歩く速度で

 てくてくと歩いていく。気持ち誇らしげに。後輩の姿を認める。声をかけようかと思ったが、チャンスを逃してしまう。もっともチャンスと言ってもほとんど無かったのだけれど。気づけば自転車に乗った彼の後ろ姿は遥かかなただ。


 小さいころからただダラダラと時間を潰すことができなかった。何かしらに集中していないと気が済まなくて、でもそうした熱中できるものは、潰すべき時間に比べて、日常生活のなかでは僅かしか見つからなかった。潰すべき時間は潰される手段を持たない僕によってただ持て余されるものだった。熱中したい。でも熱中できるこれといったものはさして見つからない。

 そんな僕がかろうじて見つけたのは、熱中するフリをすることだった。何かしらにとりあえず興味を持ってみる。興味を、関心を向ければ、いつかその興味が本物になるかもしれない。後付けでも構わない。そうなってくれれば。

 その結果僕はいくらか自分のことをだますことができた。何かに打ち込んでいる自分を自分に信じ込ませることで、僕は、今はない僕へ向けて着実に進んでいるのだという実感を得ることができた。一方で、本当のところでは自分を騙すことなんて結局できてなくて、周りの人が自分の好きなことに熱中して、多くの人には無駄と思われることに時間をささげているのを見て、これこそが自分に時間を使うということだと、僕には理解することができた。僕は自分に時間を使いたくてそこへ向かっていたが、でもその結果、他人というものが自身に対して時間を使っている素晴らしさをまじまじと見せつけられた。他人が自分に時間を使う、充実した時間の使い方をしていることを見ることに僕は時間を使った。他人を気にしたくなくて、そのためには自分で熱中できるものを見つけるという解決策も分かっていて、でもそれは僕には理論上可能でも、実行不可能なものだったのだ。結果、僕はより他人というものを意識するようになった。そうすることが自分にとって熱中できるものを見つける契機になるかもしれないから。自分にとって熱中できるものが見つかったと思った瞬間もたまにはあった。でも時間が経ってから、大半は自分にとってダラダラとした時間の使い方として認識される、しょせんは熱中できない、熱中できると見せかけるフェイクだったと気づいた。

 周りの人は、その後輩は様々なことに飽きながら、それでも自分が意欲的に打ち込めるものを持つ僕の憧れでもある。

 でも、こうした考え方がなぜか僕を苦しめているということに気づいた。何かがあると信じたくて、何かがなければいけなくて、僕は急いでいたのだ。いや今も急いでいるのかもしれない。

 最近自転車が壊れた。正確に言うと、ずいぶんボロボロで、パンクしていたものを治す機会もなくてバンクしていたまま走らせていたら、いつの日か自転車自体が無くなったのだ。自転車が逃げ出してしまった。それ以降、なんとなく納得が行って、歩くと少し遠い学校にもバイト先にも、歩いて行っている。歩くのは端的に言って時間の無駄だ。様々な交通手段が発達した現代において、これほど非効率的な時間の使い方はない。しかしながら、僕にとってはなぜかちょうど良い。歩いて音楽を聞いているうちに、自然と向かっている先へむけて僕の心の準備ができる。自転車は、突然家から目的地に僕を拉致していて落ち着かない気持ちにさせる。時間を間に合わせるためだけに急ぐその時間は死んでいる。でも目的地へ向けててくてくと歩くその無駄な時間は生きている。
 そうはいっても長距離歩くのは予想以上に時間がかかるので、もうそろそろ買いなおそうかとは思っているのだが。でもそれでも良い。気が向いたら自転車に乗ればよいのだし、車に乗ればよい。でもしばらくは歩いて大学に行こう。


僕の心の時速は今のところ遅いのだから。

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