見出し画像

義実家帰省中、新年早々地震に遭うとは

1月1日は例年通り、富山県氷見市にある義実家で過ごしていた。午後は親戚のおばさんもきて、リビングでみんなで喋り、いつも通りのお正月を過ごしていた。

そしたら、突然地震がきた。
ここらへんあまり覚えてないけど、何度かに分けて揺れたっけ?

「これはやばい」と思って、食器棚の前に座っていたところから移動して、子どもたちを抱き抱えた。すると、食器棚から次々と食器が飛び出して、割れていった。あのまま食器棚の前に座っていたら、今頃傷だらけだっただろう。

元教師の義父母は大きな地震が初めてなのにも関わらず冷静で、テレビが倒れないように押さえながら子どもたちに指示を出してくれていた。

一旦大きな揺れが終わったところで、子どもたちを連れて外に出た。外に出たら近隣に住む人たちも外に出てきて、みんなで無事を確認し合った。

近くには一人暮らしの高齢者の方もいて、きっと心細かっただろう。だけど、田舎の良いところは、各家庭の家族構成を把握していているので、みんなが一人暮らしの方を心配して様子を見に行っていたところだ。

近隣宅では塀が崩れたり、灯籠が倒れたりして道路に落ちてしまっているところもあった。そこで義父は自前のショベルカーに乗って、片付けに向かっていた。すごい。

私と子どもたちは外が暗くなるまでは車の中で過ごしていた。時間が経つに連れて避難所に向かう人たちの姿も多くなってきた。

氷見市は海沿いなので、津波警報が出ていた。義実家は、市内でもわりと海から離れている地域とはいえ、大きな津波がきたら流されるかもしれない。避難所に行くべきか、このまま大阪に戻るべきか、義実家で一晩過ごすか悩んだ結果、義父母は避難所には行かないらしいので、私たちも義父母宅で寝ることに。

そうこうしていると、断水も始まってしまった。化粧が落とせないし、お風呂にも入れない。

田舎は用水路が多いので、用水路から水を汲んできて、トイレは手動で流せるようになった。それにしてもすごく不便だ。

またしばらくすると、親戚が飲み水20ℓを持ってきてくれて、当分の飲み水は確保できた。田舎の方は、本当に助け合いがすごい。

とはいえ、こんな状況なので、食欲が湧かない。だけど、餅を焼いてくれたので、ありがたくいただいた。

そんなふうに過ごしていたら気付けば、子どもたちを寝かせる時間になっていた。8歳長男はいつも通りゲームをして、2歳次男は「じしんこわい」言ったり、そんなことを忘れて遊んだり。3歳長女はずっと地震を怖がっていた。「じいちゃんばあちゃんち、ゆらゆらするからいや。おうちかえりたい」と言い続けていた。

疲れていたようで、布団に入るとすんなり寝てくれた。地震でいつも通りに過ごせないうえに、自分の家ではないので、子どもたちも疲れるよね。

私もお風呂にも入れないし、仕事する気分にもなれないので、早めに布団に入ることに。だけど、夜中も余震はずっと続いていたので、揺れては目が覚める。さらに、めちゃくちゃ寒い。一応朝まで布団に入っていたものの、全然寝た気がしない。

地震の翌日は、朝早くに富山を出ることに。結局お正月らしいお正月を過ごせないまま、義実家を後にした。

北陸道は通行止めになっていたが、加賀から西の方は通れるようになっていたので、加賀までは下道で行くことに。ところどころ、道路が隆起しているところがあった。また、能登の方に向かう消防車や自衛隊をたくさん見かけた。みんな県外から救助に向かっているそうだ。

こんなことをいうのは不謹慎かもしれないが、他府県の消防車が列をなして走る姿はかっこよかった。

そして、被害が大きかった場所から離れると、いつもと変わらない日常が広がっていた。昨日あんなに大きな地震があったとは思えないぐらいに普通だった。大阪の自宅に戻ったときは、ほっとした。やはり自分の家がいちばん良い。土地勘のない場所で地震に遭うと、なかなか不安な気持ちになる。


義実家の方はまだ断水が続いている。能登の方はさらに被害が深刻になってきている。一国
も早い復旧を祈るばかりだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?