欠陥人間達

「ごめん、彼女から連絡来ちゃって、悪いけど帰るわ」
カウンターで隣り合って座っていた友人・松山が、ラーメンを啜りつつ、携帯に文字を打ち込みながら言った。器用な奴だな、行儀が悪いとも言う。俺は忙しなく動く松山の親指を眺めたあと、ラーメン屋の時計に視線を移した。松山と会ってからまだ二時間ほどしか経っていない。今日は夜まで遊ぶ約束をしていたのではなかったか? 俺は咀嚼した麺を飲み込んでから口を開く。
「えーなんで。彼女も呼べばいいじゃん」
「いや、なんかスッピンで来るの無理らしいから。マジでごめんけど」
なんじゃ、そら。俺は心の中で失笑しつつも、そそくさと帰る準備を整えてへこへこ頭を下げながら店を出て行く友人を、「じゃーまた」と笑顔を浮かべて見送ってやる。
今日はこのあと銭湯行って蕎麦食って居酒屋に行く予定だったはずなのに、スッピンの彼女の優先順位は俺との銭湯よりも遥かに高かったらしい。まぁ、そうか。汚い男の裸がそこかしこに並んでいるむさ苦しい銭湯で俺と長風呂対決をするより、可愛い彼女のおっぱいを揉みしだく方が松山も幸せなのだろう。
「どいつもこいつも、色気付きやがって」
俺は肘杖をつき、咥えた煙草に火つけた。俺の周りは絶賛お付き合いブームで、やれ彼女がどうだの彼氏がどうだのと盛り上がっている。恋人という存在は、友達よりも遥かに価値が高いらしい。たとえ俺と松山が5年来の付き合いだったとしても、1週間前から決めていた予定だとしても、付き合い始めて二ヶ月の「彼女」が「今から会いたい」と言えば、彼女との相引きが最優先とされるのが人間界の常識なのだ。俺は最近のお付き合いブームの中で、その常識を学んだ。
「どーせ別れんのに」
呟いてから、どうせ別れるのだからこそ今の瞬間瞬間を大切にしているのかもしれないと思い至って、恋愛に対する知見が少し広がった気がした。
ラーメン屋を出てもまだ陽は高く、大人しく家に帰るのも癪だった。ナンパでもするかなと通りを見渡した時、やけにデカい男が目に入った。身長は百八十を超えているだろうし、体格もいい。しかし表情は暗く、猫背気味で、覇気が全くなかった。俺はそのチグハグな雰囲気の男が気になって、追いかけて声をかけた。
「お兄さん、すげーデカいね」
「ふぉはぉ」
男は変な鳴き声をあげた。目を丸くして、おっかなびっくりという感じで俺を見ろしている。
「今時間ある?」
「あ、ある、ます」
良かった、ちゃんと人の言葉が喋れるらしい。安心した俺は「お茶しない?」と笑いかけた。男は訝しげに俺を見つめ、「なぜ?」と言う。
「暇だから、誰かとお茶したかったの。で、お兄さんが一番目立ってたから」
俺が素直に理由を話すと、男は「なるほど」と頷き、「いいですよ」と死んだ目で言った。いいのかよ、と思ったけど、俺はますますこの男に興味が湧き、近くの喫茶店に彼を連れて行った。
男は前山田と名乗った。大学生で、どうやら理数が得意らしい。なにやら色々喋っていたけど、高校もまともに通っていなかった俺にはひとつもわからない。歳は俺よりひとつ上。体格がいいのは、高校の時に水泳部に入っていたからだと言う。
「何であんな死んだ目ェしてたの」
聞くと、前山田くんはカフェラテをごくごくと飲み干してから「フラれたんです」と呟いた。
「彼女に?」
「はい。付き合って3ヶ月で、俺は順調だと思ってました」
「理由は?」
俺が尋問していると、前山田くんはこちらをジッと見た。何だろう、と思っていると、彼は意を結したように「あなたは、ゲイですか?」と言った。英語の教科書に載っているテキストのような文法だったが、英語の教科書には絶対に出て来ないであろう単語の登場に俺は面食らった。
「ゲイ? 俺が? いや、違うと思うけど、なんで」
「いや、だって、初対面の男をカフェに誘って色々聞いてくるなんて、そっちの人か、または詐欺師か何かかと」
「ああ、確かに、普通は前山田くんに下心を抱いてる人だろうね。え、じゃあどうして着いてきたの」
「自棄になっていたので」
「俺に掘られたり騙されたりしてもいいって思ってって?」
「そこまでじゃないですけど……」
前山田くんは複雑な顔をしてまたカフェオレをすすった。つまるところ、寂しくて、例え相手が目論みを持って近づいてきたろくでもない人間だったとしても話を聞いて欲しかったのだろう。
「安心してよ。俺が詐欺師だったとしても、前山田くんには声をかけないと思う、見るからにお金持ってなさそうだし」
「それは、そうですね」
「それに、ゲイでもないよ。いや、男とヤったことはないからわかんないけど、ヤってみたら意外といけんのかな? でも前山田くんとヤってみたいとは思わないから安心して。俺はもっと細くて白くて乳がでっけー子がタイプだからさぁ」
俺は沈んだ様子の前山田くんを元気付けようと、あえて下世話な話でその場を盛り上げようと努力した。俺の周りの男は、こういった話を振ると途端に元気になるバカばかりだから。しかし、前山田くんの表情は一向に明るさを取り戻す気配はない。それどころか、より陰りを増した気さえする。
俺は困って、ストローでオレンジジュースを吸った。前山田くんが口を開いた。
「女の子と性行為をするのは好きですか?」
「は」
口の中にオレンジジュースが入っているのに言葉を発し、俺の顎に甘い汁が滴って、テーブルにぼたぼたとシミを作った。
「性行為って」
「セックスです」
「え、うん、好きだけど」
目の前の男の口から突然セックスが飛び出してきたので、俺は激しく驚いた。が、すぐに真剣に答えた。セックスが好きじゃない男なんているんだろうか? 少なくとも今まで俺が関わってきた男の中には一人だっていなかったはずだ。俺が鼻の下を伸ばした友人らの顔を思い浮かべつつ口の周りを拭っていると、前山田くんは小さくため息をついた。
「普通、そうですよね」
俺のオレンジジュース大惨事には目もくれず、前山田くんは頬杖をついて窓の外へと視線を送った。
「そうだと思うけど」
「俺は性行為ができないんです」
勃起不全、という言葉が頭の中に隆々とした字体で浮かび上がった。俺たちのような若僧には、なかなか現実味のない現象だが、そういう症状にいずれ見舞われるということはぼんやりとは把握している。
だが、そうか。一つ上の前山田くんは、既にそのハンデを背負っているのか。俺は、目の前の男に同情し、励ましの言葉をかける。
「や、まだ若いんだしさ、どうにかなるよ。薬とかも色々あるっていうし」
「そういうんじゃなくて、性欲がないんです、俺は」
前山田くんはキッパリと言った。
「性欲自体が、生まれつき無いんです」
「えっ、それって、セックス以前に、オナニーもしないってこと?」
「しないですね」
「エロ雑誌見たりAV見てシコったりしないの……?」
「そもそもそういうものに興味がないんですよ」
「でも、さっきフラれたって。女の子のこと好きにはなるんでしょ?」
「はい、惹かれたり好きになったりはしますよ。ただそこに性欲はありません」
俺は口を開けたまま黙ってしまった。意味がわからなかったのだ。性欲を抜きに女と付き合う意味も、女に惹かれる理由も。
そんな俺の心境を悟ったのか、前山田くんは
「普通じゃないですよね」
と口の端をちょっとだけ上げて、項垂れた。俺はもう一度オレンジジュースを飲んで、彼の人間としての性質を、頭の中で整理してみた。
「珍しいかもねー。でも、いいじゃん。俺も普通じゃないし」
俺が言うと、前山田くんは伺うように俺を見る。
「俺は人のこと好きになれないんだよね、性欲はあるんだけど。真逆だね」

俺たちは似ているようでいて真逆の欲望を持ち、また持たない者だった。だから俺は前山田くんがフラれて落ち込んでいることに対し、同情はできるけど共感はできない。前山田くんもまた、俺が取っ替え引っ替え違う女と関係を持っては離れを繰り返していることが理解できないようだった。でも、真逆でありながらも俺たちはよく会って、話した。話題は主に何の変哲も面白みもない近況報告だったが、俺は前山田くんが何を考えて生きているのかを知るのが楽しかったし、前山田くんもそうだったんじゃないかと思う。前山田くんは俺の知らない感情や倫理観を持っていて、彼と話していると時間はあっという間に過ぎていく。
彼との付き合いは、意外なことに長く続いた。彼が大学を卒業し、研究職についてからも時々連絡を取っているので、カフェでのナンパから二年は経った。
二年前は生きる屍のように元気のなかった前山田くんだが、徐々に気力を取り戻し、生き生きと勉学に励むようになった。就職をしてからは新たな出会いがあり彼女が出来たそうで、その際は飲み屋で盛大にお祝いをしたのも記憶に新しい。
「どうだい、彼女との仲は」
「順調ですけど、何、急に」
「いや、俺にはそういうのがないから、いいなあと思って」
「いいなあと思うんですか」
「幸せそうでいいなあってさ。いや、本気で羨ましいとかそういうわけじゃなくてね、わかんないし、やっぱ。友達ん家の飼い犬が可愛くて羨ましい〜っていう感覚? 自分では飼う気ないけど、的な」
「うーん、わかるような、わからないような」
「ごめんなんか違うかも」
「なんだそれ」
前山田くんが無邪気に笑った。それから俺をじっと見、
「俺もあなたが羨ましいと思う時、ありますよ」と真面目な顔で言う。
「俺にないものを持ってるから」
なんだか聞こえはいいが、俺にあって前山田くんにないものと言えば性欲なのだ。俺はふと思い立って、彼に質問を投げかける。
「そのへん、彼女はどう思ってるの?」
「ああ、わかってくれているよ、そういう行為だけが愛じゃないからって。無理させてしまってるのかもしれませんが」
「そっかー。まぁ性欲は別で発散とかでいいんじゃね?」
「嫌ですよ!」
前山田くんが卓を叩いて叫んだ。俺はまた無神経なことを言ってしまったようだが、すぐに謝ると、前山田くんはあっさり許してくれた。
「俺とあなたの性欲が逆だったら……もしくは、恋愛感情が逆だったら良かったのに、と思う時がある」
「……それって片方、空っぽにならない?」
「なります」
「それはちょっとやだなあ。足して割るでいいじゃん。ついでに頭脳の方も足して割って欲しい」
俺がくだらないジョークを飛ばすと、前山田くんは苦笑した。

それから半年ほど経った頃。俺は相変わらず定職にもつかずにフラフラしていたが、ツテで始めたアルバイトが想像以上に忙しかったのと、引越し準備に追われて随分とバタバタした日々を過ごしていた。引越しを終えて一息ついた頃、そういえば最近前山田くんと連絡を取っていないなと気がついた。半年間も通話すらしていないのは珍しいことだった。
すぐに電話をかけて飲みに誘うと、前山田くんは了承したが、その声にはあまり元気がない。当日、飲み屋に現れた前山田くんも、やはり元気がなかった。それは、初めて会った時の彼を思い出させる生気の無さだった。
「どうかしたの」
「いや」
「仕事忙しい? ちゃんと休んでる」
「大丈夫だよ」
前山田くんは俺の追求をはぐらかしたが、俺にはわかった。多分、彼女とうまくいっていないのだ。前山田くんは仕事はきっちりこなす性分らしいし、職場の環境や人間関係についての愚痴をこぼすこともない。何があっても態度にも出さない。しかし、女のこととなるとめっぽう弱ってしまう。
「うまくいってないの?」
遠慮というものをあまり知らない俺は、小指を立てて聞く。前山田くんはそれには答えなかったが、ちびちびと酒を飲んだあと、口を開いた。
「人間の使命って何だと思う?」
俺は突飛な質問におどろいて、少し考えた末、「天寿を全うすること」とどこかで聞いた言葉を返した。
「そうですね、それもある。でも一番は、子孫の繁栄に貢献することじゃないかと思ってる」
「繁栄……?」
聞き慣れない単語を繰り返す俺などお構いなしに、前山田くんはひとりごとみたいに続ける。
「人間という種族を絶やさないために、子孫を残す。つまり子供を産むことだね。自分が産んだ子供がまた大人になっても子供を産む、それが続いていく。この流れが種の存続に不可欠で、人間の行いの中で最も尊い行為だと思う」
「とうといこうい」
カルト宗教の勧誘でも始まったんだろうか、と思った。が、今、前山田くんが何を言いたいのか、何を考えているのかが知りたかったので、俺は真面目な顔をして頷いて見せた。
「子孫を残すことで、そして知を譲り続けていくことで人間は発展する。人間は本能的に自分の種を残したがるし、それが使命だと理解している」
へー、そうなのか。と俺は思った。男女がセックスして子供が出来るという事象に、そこまでの意義を感じたことなど一回もなかった。というか、セックスの目的なんて、快感以外にあるのか、と驚いた。
「だから、今はもう薄れた風潮だけど……結婚をしない大人や子供が作れない、作らない夫婦は肩身の狭い思いをしていた。特にいつまでも配偶者を作らない人は、まるで異常者のように扱われていたんだ。今でも田舎の方なんかでは、この考えが残っている。いや、みんな時代の流れに合わせて考え方を変えたフリをしているだけで、本質的にはそう思っているはずだ。子供を残さない人間に、価値はない。人間は未来に人間を繋げるために生まれてきたのだから、繋げる役目を放棄したら、生きている価値がない」
「ちょ、ちょっと待ってよ、極端すぎない?」
俺は、容赦なくどんどん進んでいく前山田くんの思想プレゼンに、さすがに口を挟んだ。なんとなく、想像はついた。前山田くんは性欲が無いことによって、彼女と何かしらの衝突があったのだ。それで自分を責めるが故に、極端な思考に陥った。つまり彼は今、自分には生きる価値がないと思うほどに落ち込んでいるのだ。
「子供を作れないから生きる価値がないなんて、飛躍しすぎだって。なんというか、その、色んな生き方があるし」
俺は彼の自己否定を否定しようとしたが、すごく曖昧でありふれた言葉しか出てこなかった。彼とは頭の回転の速さと蓄積された知識とと語彙力のレベルが違うのだ。俺が彼の思想を否定するには、俺の思想は貧弱すぎた。というか、俺に思想なんてものははなからないのだから、議論にすらならない。
「彼女と何かあったんだろ、なんだよ、性欲が、その…ないからってなんだ。前山田くんはすごい奴だよ。そんなことで怒る女なんて、ろくでもない。それで前山田くんが落ち込む必要なんてないよ」
言いながら、色欲しか持たず性の乱れた生活を送ってきた俺が言ってもなぁ。と思った。前山田くんもそう思っているだろう。
「彼女は悪くない」前山田くんはポツリとそう呟いた。それから俺をじっと見つめて
「君の性欲が欲しい」
心の底から、欲しい。彼は真剣な顔で言った。
「いや、実際俺も、少し分けてあげられたらとは思うんだけど」
「そうしてもらえたら、どんなにいいか」
前山田くんは自嘲気味に言い、ビールを煽った。
そんなに辛いのなら、バイアグラでも飲んで、無理にでもシてしまう方がマシなのではないか。そう思ったが、恐らく、そういう問題でもないのだろう。薬に頼って一回凌いだところで、彼は最愛の人に、自分の中にありもしない欲望を求められ続ける。それがない自分を、自分自身が責め続ける。
局部と脳みそが直結しているとよく揶揄される俺は、彼の苦悩が全く理解できないし、そもそも最愛の人という存在も、よくわからない。そんなに苦しむくらいなら、彼女とは手を切ればいいのにと思ってしまう。それは俺に愛欲というとのが備わっていないからだろうが、俺は欲が欠損していることで悩んだことも自分を責めたことも、ほとんどない。
俯き気味の前山田くんを見ながら、ただ酒を飲むことしかできなかった。

それから1ヶ月も経っていないある日の午前、家の電話に着信が入った。ちょうど休みだった俺は電話を取ってすぐに家を飛び出し、病院に向かった。前山田くんが入院していると、共通の友人が教えてくれたのだ。どうも、飛び降りたらしい。と友人が言うので、俺は血の気が引いた。
教えられた病室に入ると、そこは六人部屋で、所々カーテンが閉められていた。俺が「前山田くん」と大声で友人の名を呼ぶと、一番手前のベッドで新聞を読んでいたお爺さんが一番奥のベッドを指差した。飛んで行って示された場所のカーテンを開けると、ギプスを嵌めた右足が吊られていて、その奥に前山田くんの神妙な顔が見えた。
「病院では、静かにしないと」
「言ってる場合か」
淡々と言う前山田くんに、俺は力無くツッコミを入れる。
「飛び降りたって、聞いて、急いで、来て」
「そうだよ、飛び降りた。死んでしまおうと思ったんだ」
俺はまた血の気が引くのを感じた。飲み屋で自身の無価値さを語る前山田くんの様子を思い出して、頭がくらくらしてきた。
「どこから、飛んだの」
しかし俺が真っ先に聞いたのは、飛び降りた場所だった。
「自分の部屋から」
「前山田くんの部屋って、マンションの……」
「二階」
「ベランダの下は」
「でっかい花壇」
俺は脱力し、へなへなと地面に座り込んだ。前山田くんが追い詰められ、死を考えたのは事実だろう。だが、本当に命を落とす気は、きっとなかった。追い詰められた頭の奥の奥のところで、死にきれないと言う気持ちがあったのだ。
その事実が俺を安心させた。もしも運が悪かったら、前山田くんに二度と会えなくなっていたかもしれない──そんな恐ろしい未来を一旦否定できたのが嬉しかった。しかし、
「バカ!!! 何考えてるんだ!!! いくら二階だからって、もっと酷い怪我をしていたかもしれないんだぞ!!!」
俺は初めて前山田くんに対して声を荒げた。責めてはいけない、彼は彼なりに苦しんで、追い詰められてこんな行動に出てしまったのだ。ということは理解しているのだが、どうにも荒ぶる自分の感情を止められない。
前山田くんは黙った。代わりに、周囲の入院患者から「そうだそうだ」との共感の声が聞こえた。
「おおかた、彼女との件だろ。なにも、そんな、そんな飛び降りることないだろ!!」
「痴情のもつれか」「女なんて星の数ほどいるぞ」彼女という単語に周囲のお爺さん、おじさん達が反応する。「星に手は届かないけどな!」と誰かが言い、ドッと笑いが起こったので、「うるさい!」と一喝した。
「心配をかけて、悪かった」
前山田くんが小さな声で言い、頭を下げた。下げたと言うよりも、項垂れたような感じだったが。
「でも、もうそれしか考えられなかったんだ。どうしようもないんだ」
掠れた声で言う。オーディエンスは静まり返った。
「俺は俺の欠陥をどうしても治せない。生きている限り、それが付きまとう。彼女も俺も、辛いだけだ」
「難しいことばっかり、ごちゃごちゃと」
俺は立ち上がり、前山田くんの入院着の肩を引っ張った。俺はすごくイライラしていて、彼の言うことを全て否定したくてたまらなくなった。
「欠陥がなんだ。セックスができないからって、種の存続とか人間の価値とか意味のわからないことを言い出すな、ただのインポだろ」
「なっ、勃起不全とはまた違う」
「うるせー!!」
俺はぐだぐだとうるさい前山田くんの頬をビンタした。バチンと大きな音が響き、患者達がおぉっと歓声を上げる。
「どうせこれで今の彼女と別れたってまた暫くしたら彼女作って最愛の人とやらになるんだろうが!」
「そんな簡単な話じゃない!!君は恋愛がわからないから、そんなことが言えるんだ」
「わかんないし、わかりたくもない!
前山田くんを死に追いやるような感情なんて、別にわかりたくもない、必要ない」
人を死にまで追いやるような感情が、美しくて尊いものだとは、全く思えない。俺には悍ましいものに思える。そんなもの、なくたって生きていけるのに。それを持っているものは、失ったらもう生きていけないなどと言ったりするのだ。
唇を噛んで何かに耐えているような前山田くんに、俺は続ける。
「バグってても、別にいいじゃないか。なんで無理に、治そうとするんだ。今のままの前山田のことを、彼女も好きになったんじゃないの」
「そう、簡単な話じゃない」
「セックスがしたくないから死ぬっていう簡単な話じゃねーか!」
俺はまた前山田くんにビンタをした。
オーディエンスが熱狂する。「バイアグラを飲め」「一度男を経験してみろ!」の声に、「うるせえ!」と返す。
「じゃあ、どうすればいいんだ!」
「知るか、その明晰な頭脳で考えろ!バカ!」
この世の終わりみたいな顔で頭を抱える前山田くんを冷たく突き放すと、彼は首を捻ってこちらを向き、手招きをした。なんだ? 俺が興奮を抑えながら近づくと、ゴンと鈍い音がして視界が揺れた。顎を下からグーで殴られたのだ。
「死ぬほど追い詰められた友人にそこまで言うか、ふつう!」
「ぅ、るせぇ! 死ぬ気もなかったくせに!」
顎の痛みとぐわんぐわん揺れる視界に耐えながら反論するが、前山田くんも負けじと暴言をかましてくる。
「バカ! 無神経! 性欲男!」
「はぁ!? バカ、恋愛脳! でけーくせに女々しいんだよ、インポ野郎!」
前山田くんが枕を投げつけてきて、顔面にヒットした。いいぞー! と歓声が上がる。いつの間にか患者達は自分のベッドから降りて、俺と前山田くんのファイトを鑑賞しに来ていた。
「インポじゃない!!」
前山田くんが叫んだ。同時に、泣き出した。これにはオーディエンスもどよめく。俺も怯んだが、ここで引くわけにはいかない。飛んでくる患者達の野次に耐えながら次の言葉を探していると、「何してるんですか!」と甲高い声がして、看護師達が走ってきた。オーディエンスは慌てて散って行き、俺は二人の看護師に腕を掴まれ、前山田くんのベッドから剥がされる。
「偉そうなこと言いやがって、何もわからないくせに」
看護師に掴まれた俺に、前山田くんが強気に出た。目が真っ赤に充血してきて、鼻水も垂れている。
「ちょっと前山田さん、挑発しないで下さい」
「看護師さんも言ってやってくださいよ、くだらないことで仕事増やすなって」
俺が看護師さんにヘルプを出すと前山田くんは
「くだらないことじゃない!」と掠れた声で怒鳴った。
「今まさに仕事を増やされてるんですけどね」
もう一人の看護師さんがぼそりと文句を言い、前山田くんは「何で来たんだよ、もう、帰ってくれ」と言って、真っ赤な目で俺を睨んだ。
何で来たって、そりゃあ……。俺は電話を取った時のことを思い出した。呼吸が落ち着いてくる。
「心配して来たに決まってるだろ」
前山田くんの赤い目が、わずかに開かれる。
「顔を見て安心するために来たんだよ、だって、飛び降りたってだけ聞いて、大怪我してるんじゃないかって不安で、だから」
はち切れんばかりに怒張していた怒りが急に、静かな悲しみに形を変えた。家から病院までの道中、不安で不安で仕方なかった。後遺症が残るような怪我をしていたらどうしよう、打ちどころが悪くて目を覚まさなかったらどうしよう。身体は無事でも、心が壊れてしまっていたらどうしよう。まだ死ぬ気でいたらどうしよう。そんなことをぐるぐると考えながら、病室に飛び込んだ。
「そしたら、怪我、足だけで、普通に喋ってるし、二階からだし、安心して……」
俺は感情のコントロール機能を失い、ぐすぐすと泣き出してしまった。こんな情けない泣き方をしたのは幼稚園生の時に教室のど真ん中でおしっこを漏らした時以来だ。
看護師が背中をさすってくれ、「前山田さんが見舞客を泣かせた」と言うと、たちまち周囲から「友達を泣かせるな」「いい友達じゃないか、大事にしろよ」などの少々気色の悪い、が、あたたかい声が起こった。
「ごめん、ごめん。本当に悪かった」
さすがの前山田くんも俺の醜態を見て冷静になったようで、今度はちゃんと頭を下げてくる。
「もう二度と死のうとするなよ」
「わかった、わかったよ」
「次死のうとしたら殺すからな」
「うん、うん」
「はーい! じゃあ喧嘩両成敗ということで、握手をしましょ〜!!」
看護師さんがやけに高い声で仕切り直し、俺たちは強制的に握手をさせられた。お互いの手がじっとりしてきて、嫌だった。
病室には拍手が巻き起こる。
「じゃあ、もう、いいですか? 私達忙しいんで」
突如表情を失った看護師たちに言われ、「あ、はい……」と返すと、彼女たちはバタバタと部屋を後にした。取り残された俺と前山田くんは、じっとりした手を繋いだまま無言で見つめ合う。
「あのさ、いいじゃん。俺たちみたいなのがたまに居たって」
俺は手の指で、まつ毛に溜まった水滴を払いながら、前山田くんに言う。
「ちょっとバグが発生したくらいじゃ、人間は滅びないし。いいじゃん、別に」
「……うん」
「前山田くんが死んじゃったら、寂しいし悲しいよ、俺」
結局、本当に伝えたかったのはこれだったのだ。シンプルに、寂しいから死なないで、と言えば良かったのだ。
「ありがとう」
「仲直りできたかー?」
おじさん達の冷やかしが飛んできて、「できました、どうもお騒がせしました」と答えたのは前山田くんだった。彼はフゥ、と一息ついて、ベットの背もたれにもたれかかった。
「もう一回、彼女とちゃんと話してみるよ」
「うん、それがいい。話し合いってのは偉大だからね」
俺は転がっていた見舞客用のイスを立て直し、そこに腰をかけ、じんじんする顎を触る。と、ふとあることを思いついた。
「な、生きてたらこの先、欲望を他人に譲渡したり、欲望の量を調節する機能が生まれるかもしれなくない?」
「そんな、ドラえもんのひみつ道具みたいな……」
「絶対できないとは言い切れないじゃん」
前山田くんは少しの間目を瞑った。どう考えても無理だが、それを俺に説明することの方がよっぽど難しいとでも言いたげな表情だった。
「わからないけど」として前山田くんは「もしできたら、あなたの性欲を俺が半分貰おう」
と微笑をたたえて言った。
「えー、なんかきもちわり」
俺がケラケラ笑うと、前山田くんもくすくす笑い出し、自然と手は離れた。
「それで、俺の愛欲……恋愛感情を半分あなたにわけてあげるよ」
「うーん、まぁ興味あるっちゃあるけど、怖いよな、前山田くんの恋愛観って。絶対重いじゃん」
「あなたに軽い恋愛感情を渡してしまったら、酷いことになるでしょう。殺されるよ」
「こえーこと言う〜」
俺たちはありもしない話を散々して、別れることになった。
病院を出ると、もう昼時になっていた。
蕎麦屋に入り、たぬき蕎麦を前に、俺は考えてみた。たとえ人間が自由に欲望の調節を行えるようになったら、その人の欲望の大小がガラッと変わってしまったら、その人はその人のままであると言い切れるのだろうか。人工的に欲望を増やしたその人は、前までのその人と同じ人であるのだろうか。
俺は、欠陥があろうが、今のままの前山田くんが好きだなぁ。
蕎麦を啜りながら、前山田くんにそう伝えれば良かったなと思った。

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