うつつ

「何お前、葬式にでも行ってきたの」
 真っ黒いスーツに身を包んだ友人と玄関先で対面した吉野は、開口一番にそう言った。
「ちげえよ、早く入れろ」
「どうぞ」
 ネクタイこそ締めていないものの、喪服のような黒スーツに身を包んだ坂本は不機嫌そうに玄関で革靴を脱ぎ、ずかずかと吉野の家にあがり込む。
「暑くねえの、そんなカッコして」
 吉野が戸の鍵をかけながら言うと、「暑いわけねえだろ」という苛立たしげな声が返ってくる。わけねえだろ、と言われても。と吉野は思った。こんな夏真っ盛りに、ジャケットをしっかり着込んで何故あんな涼しい顔をしているのだろう。というか、どうして少し怒っている様子なのだろうか。
「なにイライラしてんだよ、なんかあった? 犬のうんこ踏んだ? ナンパ失敗した? 袋綴じ綺麗に切れなかった?」
 我が物顔でソファに腰を落ち着けた坂本は、質問攻めする吉野の顔を無表情で眺めたあと、「別に」とそっけなく言った。大女優かよお前は。心の中で毒づきながら、フローリングにべたっと座る。
「ジャケット、脱げば?」
「いい。シワになる」
「ハンガーあるよ」
「いいって。この部屋、涼しいし」
「ああ、クーラー効かしてるから」
 少し寒いくらい。吉野はトレーナーの上から腕をさする。古いエアコン機器が必死に風を送り出していて、時折唸り声みたいな音を立てる。
「んで、何しに来たの」
「いや、たまたま近く通ったから、様子を見に」
「あ、そう」
 母親のようなことを言う友人は、ぐるりと部屋の中を見回した。その、何かを探るような視線がある位置で止まったことに気がついて同じ方を見る。視線の先は、ベッドサイドに置かれた写真立てだった。
「えー、なに? 見たいー?」
 吉野はニヤニヤしながら立ち上がり、それを坂本の目の前に持ってくる。そこには、吉野とその彼女である恵が、海辺でピースサインをしている写真が入っている。
「この間ね、一年記念に撮った写真」
 坂本は木製の枠の中の二人に視線を落とし、「お前、顔緩みすぎだろ」と少し笑って言った。
「だってこの時の恵、すっごい可愛くてさー。いや、いつも可愛いんだけどね、この日は珍しくワンピースなんか着ちゃってさ。記念日だから気合い入れてきたとか言ってさ」
「へー」
「しかもさ、髪もいつもと違くて、なんて言うかわかんないけどめっちゃ可愛いの」
「ほー」
「しかも恵ってさ、遠出する時絶対水筒持ってくるんだよ。自販機で買うとお金かかるからって。超倹約家! 絶対良い嫁さんになる」
「ふーん」
「おいちゃんと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
 坂本はしばらく眺めていた写真立てをローテーブルの上に置き、「お前の恵愛は、一年経ってもちっとも冷めねえな」と茶化すように吉野を見る。
「冷めるわけねえじゃん。むしろ燃え上がってく一方ってね」
 一目惚れだった。坂本の友人だった恵を一目見て惚れ込んでしまった吉野は、日々不器用なアタックを続け、坂本にも無理矢理に協力を要請し、半年にも及ぶ猛攻撃の末に恵と結ばれたのだ。
 あまり色恋沙汰に関心のない坂本も、この時ばかりは吉野と共に喜んでくれた。それに、相槌こそいい加減ではあるが、惚気話を嫌がらずに聞いてくれて、時には相談にも乗ってくれる。恵と付き合いが長く、自身よりも恵の性格に詳しい彼が話を聞いてくれるのは随分と心強く、実際に何度も助けられてきた。
「あ、そうだ。もうすぐ恵の誕生日じゃん。プレゼント一緒に選んでくんね」
「はぁ〜? そういうのはお前が選んでこそだろ」
「俺そういうのセンスないじゃん」
「まぁ確かに」
「は? ムカつく」
「何なんだよ」
 坂本は、文句を言いつつも必ず吉野の頼みを聞いてくれる。短い付き合いではあるが、冷たいようでいて面倒見がよく、意外と優しいのだということはよくわかっていた。
「ちなみに、なにをあげようとしてんの」
 案の定、プレゼント選びに付き合ってくれるらしい坂本が聞いてくるので、吉野は少し口篭ってから、「指輪」と返す。
「もう一年経ったし、ペアリングとかあげても変じゃねえかなって。どうだろう、重いかな」
「いいんじゃねえ? 指輪で」
 坂本の言葉に、吉野はほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあさ、またそのうち三人で遊ぼうぜ。その時にこう、上手い具合に、恵の好みを探る的な」
「そう上手くいくかね」
「いかせるんだよ! お前、そういうの得意じゃん」
「全部俺頼みじゃねえか」
 坂本は呆れ気味に笑った。その笑顔と、坂本が今着ているジャケットの黒が、妙に調和して見えた気がした。
「そういえば、最近、あんまり三人で遊んでないな」
 吉野が言うと、坂本は顔から徐々に笑みを消しつつ、「そうか?」と言う。
「うん。最後に遊んだのって、いつだっけ? あれ、今日が、八月の……」
 八月の、何日だっけ? 壁にかけてあるカレンダーを見る。そもそも、今日は何曜日だっけ。考えながら、ふと、あぐらを組んだ足の先に触れると、びっくりするくらい冷たかった。エアコンは相変わらずに低い唸り声をあげている。今月は、今日は、今は……
「来週」
 坂本が大きな声を出したので、吉野は驚いて彼の方を向いた。彼も壁掛けのカレンダーを見つめていて「来週の日曜なら、俺空いてるけど」と言う。
「あ、俺も多分だいじょぶ」
「じゃあ恵にも聞いておくよ」
 坂本が笑った。嘘みたいに綺麗な笑顔だった。そういえば最近、こいつが腹を抱えて笑っているところを見ていないな、と吉野は思った。が、
「どうする? 二百万の指輪が良いとか言い出したら」
 坂本が何でもないように軽口を叩くので、それ以上考えるのをやめた。


 吉野の家を後にした坂本は、コインロッカーに預けていた荷物を回収しに、駅に戻ってきていた。紙袋を取り出し、その中から黒いコートを引っ張り出して羽織る。
「さっっっっみぃ」
 がたがたと震えながらそう呟いて紙袋をゴミ箱に突っ込む坂本を、周りの人々が物珍しそうに見つめる。
 誰もがダウンジャケットや厚手のコートに身を包み、肌に突き刺さるような冷気から身を守っていた。坂本は震える指でポケットから黒いネクタイを取り出して、ワイシャツの襟に通した。
 腕時計に目を落とす。十二月二十八日、十四時十六分。まだ、約束の時間には余裕がある。坂本はゆっくりと歩き出す。
 途中、ショッピングモールに寄って、適当な茶菓子と綺麗な色合いの洋菓子を買った。恵の両親に渡すためのものと、恵の仏壇に供えるためのものだ。
 恵は、夏に交通事故で死んだ。即死であった。
 吉野は、恵が目の前で車に撥ねられるのを見た。それから、ダメになってしまった。事故からもう四ヶ月ほど経つのに、吉野だけ、未だあの夏に、恵の生きていた夏に取り残されている。
 吉野の両親とは、何度か話をした。医者が言うには、無理に思い出させようとすると、吉野の心は壊れてしまうかもしれないということだった。
 坂本は通りがかりのコンビニで立ち止まり、設置された灰皿の前で煙草を取り出して火をつける。
 吉野の母は、無理に思い出させる必要はないと主張し、吉野の父は甘やかしてはいけないと激昂した。坂本は、どっちでもいいと思った。恵がもうこの世にいない時点で、もうどうにもならないということが、よくわかっていたから。それに、無理強いをしなくても、吉野はいつか気づいてしまう。あの男がそこまでバカで甘ったれでないことは、よく知っている。
 いつか、矛盾に気がつく。逃げることは不可能だと、知る時が来る。諦める時がやってくるのだ。自分が会いに行くことでそれを早めてしまうことは分かっていたが、それでも彼の家に向かってしまうのは、俺のエゴだ、と坂本はコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を見ながら思った。
 ため息と共に煙を吐き出しながら、坂本は、恵の言葉を思い出していた。
「ごめんね、私、吉野くんのこと好きになっちゃった」
 吉野と付き合うことになる前に、恵は坂本に謝った。「何で俺に謝るんだよ」としらばっくれても、恵はもう一度「ごめん」と口にしただけだった。
 肺いっぱいに煙を吸い込み、ゆっくりと吐いた。紫炎が空に昇っていく。指に挟んだ白い煙草は、まるで火葬されたあとの恵の骨のようだった。
「取ってくんなら、最後まで責任持てよ」
 坂本はそう呟いて、灰皿に煙草を捩じ込んだ。


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