傷口を抉る

 スタジオ内はシンと静まりかえっていて、壁に取り付けられた巨大な鏡には、ドラムセットをいじくる俺の姿のみが映っていた。
 チューニングキーでタムの張り具合を微調整し、シンバルの高さを調節し、イスの位置やハイハットの開き、フットペダルの噛み具合なんかも自分好みにちまちまと変えていく。
 あとの二人がやってくるまではもう暫くかかるだろう。いつもそうだから、特に不満にも思わない。スタジオ代はきっちり三等分するのだから、損をするのは奴ら自身なのだ。しかし、いくらそれが当たり前になっているとはいえ、遅れる連絡くらいはよこしたらどうだ。俺は無言を貫くスマホの画面を見つめながら思った。
 ちょうどその時、空気を押し出すような鈍い音がして防音扉が空き、ベースを抱えた男が入ってくる。
「悪い、遅れた!」
「おー」
 お前にしては早い方なんじゃない、と軽口を叩こうとして顔をあげる。すると俺の意識は、彼……清水が手にしている物に向けられた。
「何それ、マキロン?」
 彼の手には、消毒液とティッシュと、それからガーゼが握られている。清水はやや乱暴にベースを置くと、右腕を俺に見えやすいように突き出した。俺は思わず眉を寄せる。彼の腕には、酷い擦り傷があって、そこからは鮮血がだらだらと滴り落ちていたのだ。
「お前、どうしたんだよ」
「いやね、やばい遅れるって走ってたらコケてさぁ。コンクリにズザザザーつって」
「遅れるのなんていつもだろー、気をつけろよ……」
 確かに。と清水はヘラヘラと笑った。言われてみれば、清水の服はところどころが汚れていて、なるほど本当に転んだらしかった。お世辞にも清潔感のある男ではないため、すぐには気づかなかったが。
 俺は椅子から立ち上がり、流れ落ちそうになる血をティッシュで受け止めている清水の元へと歩み寄った。
「まず水で洗ってこいよ」
「洗った洗った。さっきトイレで。んで店員さんに借りたんよ」
 清水はマキロンを俺の目の前にズイと持ってくる。
「じゃ、さっさと消毒しろ」
 言うと、目の前の男は途端に眉尻を下げ、露骨に嫌そうな顔をした。
「なに」
「絶対痛いじゃん」
「そりゃあ……」
 消毒なんだから、当たり前じゃないか。だがまあ、その気持ちはわかる。ただでさえ痛む傷口にさらに強い痛みを自ら与えるのは、いい大人になっても覚悟が要る。
「朱悟」
 名前を呼ばれ、俺は嫌な予感を覚える。
「お前やってくんね」
 思った通りの言葉が彼の口から出てきたため、今度は俺が露骨に嫌な顔をした。そもそも俺は、血とか怪我とかそういったものを見るのも結構苦手な方なのだ。
 しかしここで自分でやれよと突き放すのは、あまりにも情がない。怪我をした方が利き手ということもあり、清水自身では手当てをしづらいだろうし。何よりも、ここでうだうだやっていたらいつまで経っても練習が始まらない。
 俺は渋々マキロンとティッシュを受け取り、赤く潤む傷口にそうっとティッシュをあてがった。真っ白いそれが、一瞬で赤を吸い取り、侵食されるように染まっていく。血液を染み込ませて重さを持ったティッシュペーパーは、まるで高速で花が萎んでいくようにうごめく。
「ゔぎっ」
 清水が不気味な呻き声をあげた。
「結構深く行ってんな。血が止まってないわ」
「グロい実況すんなよ」
 清水はとてつもなく険しい顔で己の腕と俺の顔に交互に視線を送っている。意外にも(何故意外だと思ったのかは、自分でもよくわからんが)痛みに弱いらしい彼は歯を食いしばって、骨張った拳を握りしめて、面白いくらいに恐怖に慄いていた。
「お前……子供か!」
「うるせーもう早くやってくれー」
「やったるやったる」
 ぐっしょりと赤く濡れ、縮まったティッシュを真新しい白いティッシュで包み、それを傷より低い位置に添える。それからもう片方の手でマキロンのキャップを開けて、その様子をおっかなびっくり見つめている清水の裂傷部に容器から押し出した消毒液を垂らす。
 ゔっ。清水は低く喉を鳴らして、身体を強張らせた。俺は適量なんてもんがわからなかったから、必要以上に消毒液をドバドバかけてやった。清水は握りしめていた手を開き、助けを求めるように五本の指をうごうごと蠢かす。もう十年近くベースを弾き続けている、細長くて関節部が太い指は、それぞれが意思を持って清水の支配下から逃げ出そうとしているみたいに見えた。
 添えたティッシュに溢れた消毒液と血がじわじわと染み込んでいく。
「はい」
 終わったぞ、と目で合図すると、極限まで細めていた目を徐々に開きながら、「しみる」と文句を言った。
「そりゃあ沁みるでしょ」
「かけすぎじゃないお前」
 額に汗を浮かべた清水が深く息を吐き出してから、俺に非難めいた視線を送ってきた。
「あーうんごめんごめん」
「絶対思ってねぇ〜」
 痛みの絶頂を乗り越えた清水は安心したのか、軽口を叩く余裕を取り戻したらしい。ついさっきまで、子供のように怯えていたくせに。
 俺はほんの悪戯心で、彼の傷口を指でぐっと押してやった。
「い"っ!!」
 清水の肩がびくんと跳ねた。それから彼は、信じられないといった顔でこちらを見る。俺はいい気分になった。
「なに!?」
 清水が腕を引き、俺の手は宙ぶらりんになる。俺はゴミ箱に丸めたティッシュを放り投げる。が、外れて床に落ちた。
「いや、痛そうだなって」
「痛いっつってんだろ!」
「うん」
 可哀想だな、と思う。気をつけろよとも思う。手に大きい怪我でも負ったら、ベースを弾けなくなるんだから。そうしたらこのバンドの活動も出来なくなってしまうのだから。本当に、そう思っている。さっさとガーゼを貼ってやって、練習を始めたいと思っている。思っているはずなのだ。
 しかし俺は彼の腕を……消毒したばかりのそこを引っ掴んだ。
 清水がぎゃあと鳴いた。尻尾を踏まれた猫の悲鳴のようだった。
「朱悟、お前、バカ!?」
「バカかもしれん」
「は!? ちょ、マジ痛い、離せ……」
 俺の手から逃れようとする清水。俺は彼の傷口を押さえている指に力を入れる。ぬるりとした彼の体液の感触が親指を包んだ。清水の腕がびくりと痙攣のように揺れる。
「お前、マジ」
 清水が青い顔をして俺に鋭い視線を投げた。
「痛い?」
 俺は当たり前のことを聞いた。さっきから何故か心臓が、やけに早く拍動していた。下腹のあたりが熱を持っているようにじりじりと熱くなった。
 清水は俺の異常を察したのか、俺の問いに答えなかった。ただ、青い顔をして俺の様子を伺っている。額から汗が流れ落ちているのが見えた。空調の、ヴーンという羽虫のような音がやけにうるさく聞こえる。
 手を離してやりたかった。離してやった方がいいと思った。頭ではそう思っているのに、俺は自分の中に芽生えた熱に突き動かされて、彼の傷口に爪を立てた。
 柔らかい肉に爪が食い込むのが、よくわかった。清水は唇を噛み、今度は声を上げなかった。察しのいい奴だと思った。
「痛い?」
 俺はもう一度聞いた。彼は口を結び、冷静を装って俺の顔を見下ろしたけれど、その目にはありありと動揺の色が浮かんでいた。
 食い込んだ爪を、更に深く埋め込もうとした。清水が息を呑むのがわかる。俺の心臓はもう、この上なくバクバクと激しく脈打っていた。今すぐこの手を離してやるべきだという考えが一瞬だけ浮かんですぐに、押し寄せる欲求に飲まれて消えていった。俺は忙しない心音を他人事のように聞きながら親指の付け根に力を入れた。その時、
「すいまっせーん、寝坊しましたー」
 防音扉を勢い良く開けたギター兼ボーカルの山野が、全く悪いと思っていない顔で、とても元気よくに部屋に入ってきた。
 俺は、気がついたら床に仰向けに倒れていた。驚きすぎて足を滑らせ、転倒したのだ。頭と腰を強く打って、その痛みで俺は完全に正気に戻った。現実の世界に引き戻されたのだ。マグマのごとく燃え盛り溢れ出していた欲望は、今やあっさり沈下し、砂のように沈黙していた。なんだか前にもこんなことがあった気がする。学校の空き教室で彼女と性行為に励んでいて、先生が入って来た時だ。あれに近い。
「え、何してんですか」
 山野が不思議そうに俺の顔を覗き込む。俺は強打した後頭部を抑えて「転んだ」とだけ絞り出した。
「山野ー、ガーゼ貼ってくんない?」
 清水が全くいつもの調子で言う。
「うわ、どうしたんすかそれ」
「転んだ」
「何、二人して……。気をつけてくださいよー」
 山野は当然、清水の傷口に触れたりましてや爪を立てたりなんてことはせず、器用にガーゼを貼り付けていく。俺は頭を抱えながらその様子を見上げていて、ふと、清水と目が合った。彼は暫く無表情で俺を眺めたあと、左の手で「地獄へ堕ちろ」のハンドサインを作ったので、俺は本当にそうしたいと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?