だだ

目の前、大きな窓枠の向こうを、無彩色の家々がゆっくりと流れていく。空は、上の方は暗い青色なのに、下の方はまだ燃えるようなオレンジ色を残していた。いや、事実、燃えているのかもしれなかった。ここら一帯が、火事でも起こして、無数の民家がごうごうと燃えているのかもしれなかった。そう考えると僕は、随分と楽しいような気がしてきたが、同時に、もの凄く不安な気もしてきた。
耳の穴の奥で、町田康が何やらごちゃごちゃと言っていて、僕は全くその通りだと思うのに、目の前の女子高生たち(女子中学生かもしれないが)は、何か楽しそうにきゃあきゃあと笑い合っていて、僕は全てを否定された気持ちになる。女子高生の隣の老夫婦も何やら小声で言葉を交わして笑っていて、僕はまた一つ不安になった。
もしかしたら、電車というものは、楽しい人しか乗ってはいけないのではないか? もしくは、乗ってる間は楽しいふりをしなければいけないのではないか? 僕の知らないルールがあって、僕は知らず知らずのうちにこの世界のルールを破り、嘲笑や軽蔑の的になっているのではないか?
僕はiPodの音量を二つ上げた。遠藤ミチロウがボソボソと喋っていた。ベビーカーに乗せられた赤子の鳴き声が遠藤ミチロウの声をかき消した。ブルドックみたいな面のオヤジが二人乗り込んできて、この世の全てのオヤジがそうであるように大声で談笑を始める。
ミチロウが可哀想じゃないか!
僕は叫んだ。自分の頭の中で叫んだ。恥ずかしげもなく公衆の面前で笑顔を撒き散らかすような輩に、ミチロウの主張は掻き消されてしまう。可哀想だ。僕は泣きそうになった。でも、よく考えたら全然可哀想ではなかった。ミチロウは人気者だし、多分お金だっていっぱい稼いだはずだからだ。
僕の方が圧倒的に可哀想だ。
そう気づいたら、僕は自分が可哀想で眼球が潤ってきた。ミチロウが憎たらしく思えてきて、イヤホンを乱暴に外した。電車の床にでも叩きつけたかったけど、壊れるのは嫌だから、全身全霊をかけてイヤホンを睨みつけた。
「おや、どうしたんだい山田くん。イヤホンに親でも殺されたのかい」
突然そんな声がして、僕は顔を上げた。
旧友の寺島くんが立っていた。
「そうだ」
「そうなのか」
寺島くんは、僕の隣に腰を下ろした。
彼に会うのは、三年ぶりだった。このあと、新宿のルノワールという、新興宗教の勧誘と鼠講の勧誘とマルチ商法の勧誘をするために存在するとても素晴らしい喫茶店で待ち合わせをしていたのだ。きっと今日、新宿のルノワールに、新興宗教の勧誘か鼠講の勧誘かマルチ商法の勧誘以外の目的で入店する珍客は、僕たちだけだろう。そんな邪道な客である僕たちは、偶然同じ電車に乗っていたらしかった。
「久しぶりだね、山田くん」
「急に君から連絡が来た時は、びっくりしたよ」
「いや、急に山田くんが今どうしているか、気になってね」
僕は、寺島くんから連絡が来た時、とても嬉しかった。学生時代、あまり友人らしい友人もできなかった僕を唯一気にかけてくれたのが、寺島くんだった。僕が、なんとか学校を卒業できたのも、寺島くんのおかげと言っても過言ではない。
しかし、卒業後は、彼に連絡する勇気もなく、疎遠になっていた。そもそも彼は僕のことなんて忘れているだろうと思っていたため、また会うことになるなんて、これっぽっちも思っていなかったのだ。
「とても疲れた顔をしているね」
寺島くんは僕の顔を見て言った。
「電車は、生きている人間しか、乗ってはいけなかったんだ!」
僕が言った。寺島くんに会えて気持ちが大きくなっている僕は、声まで大きくなっていた。ブルドック二匹が僕を見た。気がした。気のせいかもしれなかった。
「山田くんは、とても不幸なのだね」
そうかもしれなかった。僕は頷いた。
「幸せになりたいと思うかい」
「どちらかというと、はい」
僕は四択アンケートの選択肢みたいな返事をした。そうか、と寺島くんが笑った。学生時代に、教室で見せた笑い方と同じであった。僕は安心した。寺島くんは、また僕を、救ってくれるのかもしれない。また僕を導いてくれるのかもしれない。
神様は僕に酷い人生を与えたけど、その代わりに、寺島くんをくれたのだ。新宿駅に着いた。寺島くんが立ち上がった。僕はイヤホンを床に叩きつけて、寺島くんを追った。
「この壺を買うと、幸せになれるんだ」
ルノワールの端っこの席に着いてすぐ、寺島くんはそう言って、汚い壺が印刷されたパンフレットを見せてきた。
僕は、なるほどな。と思った。
「本当は500万するんだが、僕の紹介で、100万になるんだ」
寺島くんが言った。そうか。と思った。
新興宗教か、マルチ商法か、どちらだろう。と考えた。でも、寺島くんの目がすごくキラキラしていたから、多分宗教の方だな、と思った。
「ちなみに今なら、食洗機もついてくるんだ」
なんということだろう。めちゃくちゃだ。僕は感動すら覚えた。
「この壺には、あるお方の、素晴らしい力が込められているんだ。信じてもらえないかもしれないけれど、そのお方は神様の生まれ変わりで、人智を超えた能力をお持ちなんだ。僕は目の前でその能力を見たんだけど」
宗教の方だった。寺島くんは目をキラキラさせたまま、宗教にハマった奴のテンプレートみたいなことをべらべら喋った。僕はガダラの豚を思い出していた。寺島くんは教祖のマジックを人智を超えた能力だと思い込んでいるのだった。教祖は深川様というらしかった。
「深川様の言うことを聞いていれば、必ず幸せになれる。より多くの人に深川様のことを知ってほしいと思っているんだ。山田くん、君は不幸だと言ったね。だからこそ、深川様の教えを」
寺島くんは、気持ちよさそうに色々と言っていた。僕は悲しくなってきた。
寺島くんは恐らく、本心から僕を救おうとしているのだ。学生時代と同じように、僕を助けようとしているのだ。(それが、すごく嫌だった)
しかしだ。勧誘するにしたって、もう少しオリジナリティのあるプレゼンができないのだろうか。寺島くんはもう少し賢くて、ユーモアのある青年だったはずだが。今の寺島くんには、僕の知っている寺島くんが、どのくらい残っているのだろう。
新しい寺島くんは、資料をたくさん僕に見せてくれた。すごくダサいデザインが気になって内容が頭にないってこない。彼が言うには、今入会すれば壺は70万になるらしい。合宿に参加すればさらに50万になるらしいが、合宿の参加費は50万らしい。わけがわからなくて、もはや楽しそうにも思えてきた。誰がこんなもんに引っ掛かるんだ、と思ったけど、寺島くんは引っかかったのだ。こんなもんに。
「山田くんだから、誘ったんだ。誰にでも教えているわけじゃあない。僕は山田くんを幸せにしたいから、特別に、声をかけたんだ」
色んな人に声をかけて、縁を切られたんだろうな。僕は思った。恐らく僕は50番目ぐらいだろう。寺島くんは友達の多い男だったのだ。僕には眩しいほどに、明るくて、楽しくて、優しい人間だった。
それが、どうしてこんな様になってしまったのだろうか。一体この数年間で、彼に何があったと言うのだろう。
僕は、僕の心を少しも動かすことのない勧誘文句を喋り続ける彼を、哀れに思った。僕よりも、寺島くんの方が、よっぽど可哀想だった。一体誰が、彼をここまで追い込んでしまったんだろうか。そして、誰が彼を、そそのかしたのか。
哀れみはやがて、怒りに変わった。激しい怒りが、僕の腹の中でめらめらと燃え上がった。
誰が悪いのだろう。誰が、何が……。
どうしてみんな、寺島くんを助けてあげなかったのだろうか。みんなとは、誰のことを指しているのだろうか。何を指しているのだろうか。
「少し、考えてみるよ」
僕には、彼を否定することは出来なかった。でも、肯定することも不可能だった。だから曖昧にその場を切り抜けるしか、僕にできることはなかった。
「お金に困っているんだ、今」
金銭面を理由に逃げ切ろうと思った僕に、寺島くんは、消費者金融の名前をいくつか教えてくれた。僕は、このあと用があると嘘をついて寺島くんと別れ、新宿をとぼとぼと歩きながら、今度こそ少しだけ泣いた。
電車に乗る前に、電気屋に寄って安いイヤホンを買った。それを耳にしっかりとつっこんで、改札をくぐる。
ホームに降りると同時に、電車がやってきて、ドアが開いた。僕は無抵抗で、蛍光灯の光が満ち溢れる車内に足を踏み入れた。荒々しくドアが閉まって、僕は、振り落とされないように、吊り革を必死に掴んだ。

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