鳥葬

"『秋田県S市で女子中学生が同級生殺害、一部を食べる』

秋田県S市で12日、市立中学校に通う女子生徒Aさん(14歳)が同級生のBさん(14歳)を殺害し、一部を食べたと証言していることが分かった。
事件は11日午後、AさんがBさんの自宅で遊んでいる際に発生。AさんはBさんを刃物で刺殺し、その後の一部を食べたと供述しているという。
警察はAさんを殺人容疑で逮捕し、詳しい動機や経緯を調べている。"

「あの二人仲良かったのにね」
二人が通っていた中学校の同級生が、声を顰めて事件についての噂話を始める。
「でもやっぱ、ちょっと変な人だったじゃん二人とも」
「加害者の方はすぐ暴力振るう子だったらしいし」
「殺された方はクラスでいじめられてたっぽいし」
「なんか揉めたんじゃん? こわいわー」
やがて始業のチャイムが鳴り、噂話に花を咲かせていた生徒たちは散り散りになった。

じわじわと、焼けるような日差しと蝉の声に追い詰められて、私はぼんやりと空を眺めていた。中学二年生の夏、の、終わり。二学期の始まりに浮き足立つクラスメイトの熱気にあてられて、私は机の上にでろりと溶け出してしまいそうだった。
「長期休み明けだからってだらけてるとすぐに差がつくから、気を引き締めるように。ああ、あと稲葉と谷川はこのあと職員室な。髪」
えーと二人分の不満げな声があがり、そちらを見ると、絶妙に黒染めに失敗したらしき二つの赤茶けた頭が見えた。私は思わず鼻でふと笑う。どうせ黒に戻すぐらいの覚悟ならば、最初から染めなければ良いのに。二ヶ月の間だけ茶色やら金色にして、その後学校が始まる前にいそいそと黒く戻すなんて、馬鹿げていると思う。しかも、黒染め失敗しているし。いや、失敗したんじゃなくて、少しの抵抗のつもりなのかもしれない、その赤い髪が。くだらない気もするけど、その反抗心は、ちょっといいかも。嘘。やっぱりダサい。
「なんか文句あっかよ、田中」
私の嘲笑が聞こえたのか、赤茶髪の稲葉が凄みを効かせる。私は「何でもねーよ」と返して、また窓の外に視線を戻した。夏休みが終わったというのに、気候はまだまだ暑くて、夏真っ盛りという感じだ。夏休み延長の申請をした方がいいんじゃないか、と考えていると
「田中、ひさびさ」と右耳に囁く声があり、私は首を捻る。
「一昨日会ったじゃん」
「昨日は合わなかったじゃん」
栗色のショートカットの少女が、白い頬をゆるませて私に笑いかけていた。彼女は宮村と言い、このクラスで唯一、友達と呼べる存在だ。
「何ぼーっとしてたの」
唯一の友達は、私の真似をして窓の外を眺めつつ聞いてくる。
「いやぁ、学校始まっちゃったなって」
「嫌なの?」
「嫌でしょ。嫌じゃないの、あんた」
「私は家よりもマシだしなぁ」
宮村が何でもないように言ったから、私は黙った。
沈黙が二秒くらい続いて私が新しい話題を持ち出そうとした時、「なーんか、くさくね?」とわざとらしい大声がクラス中に響き渡った。宮村の白い顔から表情が消える。事態を飲み込んだ私はため息をついて、すぐに身構えた。
大声の主である稲葉がニヤニヤしながらこちらを見ている。いつの間にか先生は教室から姿を消していた。
「なーんかあっちの方から臭うなぁ。貧乏だからって、夏も風呂入らしてもらえんかったんかなぁ。かわいそー」
稲葉は鼻をつまんで、精一杯の大声を出している。視線はいつもの通り宮村に向けられていて、周囲はいつものようにクスクス笑ったり、稲葉に同調する声が飛び交ったりしている。
「田中〜」
宮村が不愉快げに眉を寄せて私の名前を呼ぶ。私は「はいよ」と返事をしてズンズンと稲葉との距離を詰め、その勢いで彼の小さいケツを蹴り飛ばした。バスン、という鈍い音が響く。彼はつんのめって机に倒れ込み、何やら喚いているが、私はもう一度そのケツを蹴ってやった。
「人のことどうこう言う前にそのダセェ茶髪どうにかしたらどうだよ」
机に張り付いている稲葉が首を捻ってこちらを睨みあげる。
「何だよてめぇはいつもいつも……関係ねえだろ!」
「染め直すのが難しくてできないってんならさ、全部切ってあげようか。さっぱりしていいんじゃない?」
近くの席の女子がハサミを取り出して寄越してくれたので、私はその凶器の切っ先を稲葉の額に突きつける。
「ちょっと、危ないよ」と誰かが叫んだ。「マジで怪我するよ」
すればいい、と私は思う。させる覚悟で私は、このバカの頭に凶器を向けているのだ。面白半分に私の友達を侮辱する、このバカに。
しかし、稲葉も稲葉で男を見せてきた。私のむき出しの脛を蹴り、隙ができた私の手からハサミを弾き飛ばしたのだ。やるじゃんお前。と思いながら私は稲葉に殴りかかり、稲葉も負けじと髪を掴んだり膝蹴りをしたりと、もがいた。
私は女子にしては背が高く力も強い。何より男兄弟に揉まれて育ったから、喧嘩慣れしている。私より少し背の小さい稲葉の抵抗を腕力でねじ伏せるのは簡単だ。
でも。それはいつまでだろう、と、稲葉の頬を殴りつけながらどこか冷静に考えた。私はいつまで、男子より強くいれるのだろう。私はいつ、こいつに負けてしまうのだろう。
やがて、騒ぎを聞きつけてやってきた体育教師が仲裁に入り、私たちは引き剥がされた。そして「喧嘩両成敗」とかいう名目の元、涙目の稲葉と私は握手を交わし、解放された。

「ありがとうね、田中。でも、やりすぎだよ」
「あんぐらいやってやりゃいいんだよ、あんなバカ」
学校を出て、二人で日陰を選びながら歩く。宮村は私を咎めるような言葉を口にしつつも、満足そうな笑みを浮かべている。
「ほら、思い出してみ、最後の稲葉の顔。ほっぺ腫らして、半泣きで、私と握手させられて屈辱げに歯を食いしばる稲葉の顔」
私の言葉を聞いて稲葉の様子を思い出したらしい宮村は、ギャハハと馬鹿笑いをした。クラスのみんなは、宮村がこんな笑い方をするなんてきっと知らない。想像もしないだろう。
宮村の笑い声につられて、私も笑う。

私と宮村が仲良くなったのは、クラス替えが終わって二ヶ月くらい経った頃だった。
一年の頃からそうだったのか、宮村は二年になって早々、クラスで爪弾きにされていた。服が汚れてるだとか、怪我をしていることが多いだとか、勉強ができないだとかで悪目立ちし、煙たがられているようだった。私は一年の頃クラスの女子と揉めてから交友関係を真面目に築くのがかったるくなってたから、誰とも必要以上に関わらず、宮村のことも静観していた。当時はなんとなく嫌われてるんだろうなくらいの扱いだったし。
だけど、日が経つにつれてクラスでの宮村の扱いが酷くなっていった。仲間外れや陰口に止まらず、直接暴言を吐いたり皆の前でからかったりと、度を越す奴が出てきたのだ。
ある日その宮村いじめの現場に出くわした私は、急にプッツンときて、度を越した奴の中の一人を殴った。それは、正義感や宮村への慈悲などでは全くなかった。学校生活に鬱憤が溜まっていた私からすると、発散するのにちょうどいい奴を見つけたくらいの感覚だった。そいつはおそらく女に殴られたことに驚いて、そして屈辱感を覚えて掴みかかってきたけど、先生が止めに入るまで私はそいつを殴り続けた。
「田中さん、すっごい強いんだね」
宮村が嬉しさを滲ませた声でそう言ったのを、私は今もよく覚えている。
それから時々、宮村に絡んでいる奴を見つけては喧嘩した。そうすると宮村が話しかけてくるから、ちょこちょこ話すようになった。最初は恩を感じて話しかけてきているのだろうと思っていたから、その必要はないと言ったのだが、彼女はそれでも頻繁に話しかけてきた。
「せっかくできた用心棒を逃したくないとか?」
ある日、私がそんなことを言うと、宮村は
「あは、それもある」と破顔した。
「でも、それだけじゃないかな。私と喋ってくれるのって、田中さんだけだし」
「話してくれるなら誰でもいいんかよ」
私は意地悪のつもりでそう返したが、宮村は相変わらず笑顔を貼り付けながら
「確かに、助けてくれるなら誰でも良かったのかもね。でも助けてくれたのは田中さんだけだから」と、言ってのけた。その理屈がストンと胸に落ちて、私は宮村のことをその時ちゃんと好きになったのだと思う。
「田中でいいよ」
私が言うと、宮村はすかさず「田中!」と嬉しそうに私の苗字を呼んだ。
宮村と話していくうちに、意外にも私たちは趣味が合うのだということがわかった。少し古いバンド、今流行りの少年漫画、かなり昔のスプラッタ映画、幼少期に流行った女児向けアニメ、等。
「そういう話、稲葉とかに振ってみれば?」
「なんで」
「あいつ、あんたのことが本当に嫌いで毎日あんなことしてるわけでもないでしょ。共通の話題でもふってやれば、案外ころっと懐くかもよ」
「そんなの、いい」
宮村は私の提案を無表情で却下し、「私から迎合していってやらないと築けない関係なんて、そんなものならなくていい」と言い切った。
大人しそうな顔をして案外負けん気の強いところも、なんだか良いと思った。
それからは、学校外でもよく遊ぶようになった。宮村はお金を持っていなくて、私も兄弟が多くて余裕はなかったから、いつも公園やら川原で喋ったり家から持ってきた漫画を読んだりした。時々私が駄菓子やアイスを買って、二人で半分こして食べた。
テレビの話や漫画の話、音楽の話、教科書に載ってた変な物語の話、クラスのむかつく奴らの話、ウザい先生の話……。話題は尽きなかったけど、お互いの家庭の話はほとんどしなかった。私は宮村の、きっと普通ではないであろう家庭の内情を聞く勇気も、聞いたところでどうにかできる力も持っていなかったし、宮村もそれはわかっていたのだと思う。そのタブーには触れないように、親交を深めていった。
だけどある日、宮村が遊びの待ち合わせ場所にやってこなかったことがあった。私は一時間くらい待って、それから帰ろうか迷って、結局宮村の住むアパートに向かった。行ったことはなかったけど、大体の場所は聞いてあったから、十分くらいで彼女の部屋を探し当てることができた。
覚悟を決めてインターホンを押した。ビー、という機械音がドア越しに聞こえたが、誰も出てこない。「宮村」と声をかけると、部屋の中で物音がした。宮村はきっと、中にいる。いるけど、ドアを開けるか迷っている。私は何故かそう確信して、ドアの前でしばらく待っていた。すると少し経ってから、鍵の開く音がしてドアが空き、宮村が顔を覗かせた。
「すぐ出るから、ちょっと待ってて」
宮村の目は赤く腫れぼったくて泣いていたのだろうなとわかったけど、今の宮村の表情からは何の感情も読み取れない。私は思わずドアノブを握り、ドアを引いた。姿を現した宮村の腕や足には、赤黒い痣や、青い痣があった。
「今、家にいるの?」
父親か母親か、または兄弟か、その他か。宮村を傷つけた犯人の所在を確認すると宮村は小さく頷いた。「寝てる」
「早く行こう」
ドアノブを強く握りしめて言うと、宮村は一旦引っ込んだ。薄手のパーカーを羽織って早足で戻ってきた宮村の手を引っ張り、私は走った。宮村を傷つける者から、必死で逃げた。
「見られちゃったか。見られたくなかったな」
公園のブランコに座り、息を整えた宮村は観念したように笑って、「まぁ、田中にならいいか」と呟いた。
私は何も言えずに、ブランコの鉄臭い鎖を握り、鼓動を落ち着けようと必死に呼吸をしていた。宮村の膝丈のジャージから痣がちらちらと見え隠れするのを凝視する。
何と言えばいいんだろう。何を聞けばいいんだろう。私が言葉を探していると、宮村が「あれ」とどこかを指さした。宮村の指が指した方に視線を移すと、二羽の黒い鳥が公園の入り口に面した道路で何かに群がっているのが見える。
「何あれ」
「死んだ烏を、烏が食べてる」
「はぁ?」
よく見ると、二羽の鳥━━烏が啄んでいるのは宮村の言う通り、烏の死骸だった。黒い羽の中からピンク色の肉が飛び出ていて、私は顔をしかめた。
「なにあれ、共食い?」
「うーん、鳥葬じゃない? 本当にやるんだね、鳥って」
「鳥葬……」
聞いたことがある。人が死んだ時に、火葬や土葬じゃなくて、鳥に食べさせることで弔う国もある、と。鳥も鳥を食べて弔うのか。道路に散らばった黒い羽を見て、私は言う。
「車に轢かれたのかな」
「ほっといたら野良猫に食われるか、保健所に処分されるかだもんね。その前に同種で弔ってるのかな」
「ただ腹減ってるだけかも」
私が言うと、宮村は少し笑った。私は急にほっとして、鎖から手を離して再び道路へと向き直る。烏の死骸の周りが赤く染まっている。
「うわぁ、えぐいね」
「なかなか、グロテスク」
私たちはそう言いつつも、二羽の烏が一羽の烏を食べる様子を、しばらく眺めていた。つっつくようにして、少しずつ同種の肉を口に運び、飲み込んでいく烏。あの二羽は今、どんな感情なんだろう。というか、鳥類に感情ってあるんだろうか。私がぼんやりしていると、宮村が呟く。
「人間もさ、骨を食べたりするよね」
「……昔の人でしょ? 遺骨飲み込んだりするっていう」
「私が死んだら、田中が真っ先に見つけて、私を食べて」
は? 私は宮村の非現実的な提案に苦笑したが、彼女の足の痣が視界に入り、口角を下げた。
「この傷とかもだけどさぁ、私がされたことが誰にもバレないように、全部食べて。綺麗に」
宮村は笑っていた。
どうして、そんな。喉元から声が出掛かった。それじゃあ、家族を庇うようなものじゃないか。本当は、事実を白日の元に晒してやりたい。宮村の家の誰かが宮村に暴力を振るっていて、他の家族は見て見ぬふりをしている。いや、もしかしたら皆で宮村を虐待しているのかもしれない。クラスのバカな男たちは宮村をいじめて、バカなクラスメイトは誰も庇いやしない。本当は全て警察にでもマスコミにでも晒しあげて、宮村に土下座させてやりたかった。でも、飲み込んだ。宮村本人がそれを隠したがっているのだから、私は宮村の気持ちを尊重したかった。
「わかった、約束する」
私が言うと、宮村は満足そうに微笑む。
「そのかわり、私が死んだ時も食べてよ」
「えー、田中は殺しても死なないでしょ」
宮本は意地悪そうに笑って、ブランコを漕いだ。

宮村を助けなくては。あの日以来、そればかり考えていた。夜、夕飯を食べている時も風呂に入っている時も、布団に入っている時も、今この瞬間も宮村は家族に殴られて痛い思いをしているかもしれないと考えると、居ても立っても居られず、頭がおかしくなりそうだった。
しばらくウチに泊まってもらおうかと考え宮村を誘ったが、悪いからと断られてしまった。事実、私の家は私の家で家族仲があまり良くなく、身内に相談して匿ってもらうことは現実的ではない。学校の先生に相談したって余計事態が悪化するのは目に見えている。宮村へのいじめを黙認するような教師陣だ。
私は誰にも相談できずに、一人で宮村を救う方法を毎日考えていた。
そんなある日、深夜のテレビで上京者のドキュメンタリーが放送されていた。ある目的があって、高校を卒業して東京にやってきたもの。家族から逃れるために、中学卒業と同時に上京して夜の街で働いている者。色々な人がいた。これだ、と私は思った。

「中学を卒業したら、東京に仕事を探しに行こうと思う」
ある日の放課後、カーディガンに身を包んだ私が言うと、長袖シャツ姿の宮村は「は? 何、どうしたの」と訝しげな顔をした。鼻の頭が少し赤い。色素の薄い宮村の髪を風が揺らしている。私は淡々と説明する。
「こんな腐った田舎にいたってどうしようもないでしょ。私、高校にも行きたくないし、すぐ働きたいからさ」
「今時高校ぐらい行っとかないと、ろくな仕事に就けませんよー」
「うるせー。言っとくけど、宮村も来るんだからね」
「私も?」と目を丸くする宮村に、「もち」と返す。
「中学出たら、そっこーでここを出る。もう二度と戻らない。二人で東京で家借りて仕事も決めて、一生東京で暮らす」
私は自分に言い聞かせるみたいに、そう口に出した。冷たい風が頬に当たり、カーディガンのポケットに手を入れた。
「田中」
「なに」
「ありがとう」
宮村が前方を見つめたままひとりごとみたいに言った。私は耳が熱くなるのを感じたけど、すぐに罪悪感に襲われて、小さく被りを振る。
「別にあんたのためじゃねーわ。ここじゃまともな仕事もないし、だから、そのついで」
「ありがとう田中」
宮村はもう一度同じことを呟いた。私は急に鼻の奥がつーんと痛くなって、宮村から目を逸らして頷いた。
「東京かあ、楽しみだなあ」
「ライブハウスとかいっぱいあるんだって。毎日色んなバンドのライブ行こうよ」
「いいねぇ。広い家も借りてさあ。あ、NANAみたいな家にしようよ」
「あの、殺風景な?」
「生活感がなくてオシャレなの、ああいうのが」
「私は多少散らかってる部屋のが落ち着くんだけど」
「色気がないんだよなー、田中は」
「宮村にはあんのかよ」
「ありますー」
宮村が口を尖らせて、胸を寄せてみせた。細っこくて背も低い宮村は、胸も貧相だ。「色気ってそういうこと?」私が言うと、宮村は「わからん」と言って体勢を戻した。それから、ため息をつく。
「田中は頭いいから仕事も何とかなるだろうけどさあ、私はどうしようかなあ」
「卒業までにちったぁ賢くなろうとか思わんのかよ」
「んまー、私はこの愛想の良さでナンバーワンキャバ嬢にでものし上がって見せよっかな」
「愛想なんてあったっけ、あんた」
「それで田中が専属黒服ね。悪い奴らをボッコボコにする役をお願いします」
「私はもっと堅実で安定した仕事につきますので」
「えー、つまんなーい」
2人で色々考えては笑い合った。子供の戯言だなんてことは、考えないようにしていた。本気で信じれば、本当になる。私たちは、少なくとも私はそう思っていた。思うように努めた。
ここから逃げ出して、宮村を救う。その未来だけが、私が平常心を保つ支えになっていた。

すっかり寒くなってきたある日
その日も宮村と遊ぶ約束をしていたのだが、彼女は集合時間を過ぎてもやってこなかった。
私は初めて彼女の家を訪ねたあの日を思い出して、胸騒ぎが起こるのを感じた。急いで宮村の住むアパートに向かう。肺が冷たい空気で満たされて苦しい。
宮村の部屋の前までついて、息も絶え絶えインターホンを押そうとすると、ドアが開いていることに気づいた。強烈に嫌な予感がする。
「宮村……?」
ドアの隙間から声をかけるが、応答はない。耳をすませても、何の物音もしない。
「入るよ」
ドアを開いて玄関に足を踏み入れ、声をかける。自分の声が震えていることに気づいた。玄関を入ってすぐのところにあるドアが半開きだったので、そこを覗き込む。リビングらしかった。物が散乱している中央に、テーブルがある。その上にも乱雑に物が置かれている。そのすぐ側の床に人が寝ていて、私は声をあげそうになった。それはよく見ると宮村だった。宮村がうつ伏せになって寝ているのだった。
私はしばし呆然とその姿を見つめていた。ただ寝ているのではないと直感的にわかったのだ。宮村は腕を投げ出し、ぐったりと横たわっている。
「みやむら」
私はまた震える声で彼女の名前を呼び、床に寝そべる彼女に走り寄った。返事はないし、宮村は動かない。こちらを向かせようと肩に手をかけると、宮村の頭から血が流れていることに気が付く。
「嘘、うそ」
手がぶるぶる震えて、思うように動いてくれない。それでも宮村の肩を掴んでなんとか顔を覗き込むことができた。宮村は目を閉じていて、額を血で赤く染めている。恐る恐る頬に手を添えると、冷たかった。
「宮村、宮村、ねえ」
いくら呼び掛けても揺すっても、宮村はぴくりとも動かない。指を鼻の前に持って行くと、彼女は呼吸をしていなかった。
救急車を、呼ばないと。早く。私は立ち上がってリビングの電話機を探した。震える足をもつれさせながら電話機の前まで走り、受話器を持ち上げて1のボタンを押したところで、過去の宮村の言葉を思い出した。

──私が死んだら、田中が真っ先に見つけて、私を食べて
──私がされたことが誰にもバレないように、全部食べて。綺麗に

救急車を呼んだら、宮村の秘密がバレてしまう。
いや、でも、今呼べば宮村は助かるかもしれない。だけど、もう手遅れだったとしたら……。秘密がバレた上に、彼女が助からなかったとしたら。彼女は命を失ったあとに秘密を暴かれ、好き勝手に噂されて、尊厳を土足で踏み躙られるのだろう。彼女の亡骸は、見ず知らずの大人に調べられる。裸を見られて、痣や傷の写真を記録として撮られ、大勢に見られる。メスで切られ、身体を開かれ、隅々まで覗かれる。宮村は死んでまで、傷つけられる。
そんなのは許せない。やっと解放された宮村がまた大人の好きにされるなんて、絶対に許さない。
私は受話器を置き、宮村の元に再び膝をつく。
彼女の顔に、胸に耳を寄せて、息をしていないことを確認した。宮村の肌は冷たくなっている、顔も真っ白だ。宮村はもう目を覚まさない。もう二度と喋ったり、笑ったり、私の名前を呼ぶこともない。私は確信した。
キッチンを漁り、包丁や鋏などあるだけの刃物をかき集める。それらを宮村の側に置いて、私は彼女を見下ろした。それから服の袖で彼女の額を濡らしている血を拭った。固まって固くなっていて、綺麗には拭い取れなかった。
それから私は出刃包丁を握る。鼓動は早かったが、私はやけに冷静だった。
「宮村、大丈夫。ちゃんと守るからね」
私は呟いて、一度目を瞑った。それから腕をゆっくり持ち上げて、勢いよく振り下ろした。普通の女の子より、力があってよかった。私は赤く染まった宮村を見下ろしながら、私がいじめっ子たちを蹴散らすたびに満足そうに笑っていた宮村の顔を思い出していた。

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