初夏

初夏の夜、湿っぽい熱気と共に、陰鬱とした塊がひっそりと忍び寄ってきて、胸の中にボトボトと落っこちてきた。胸の下の方に落ちた陰鬱は、底で固まって俺を不安なような、気怠いような、鬱屈としたような、とにかく嫌な気持ちにさせた。
そのじめじめした熱は、過去の嫌な記憶と、現在俺が抱える孤独と、未来に待ち受ける不安とを、一気に連れてくる。まだ個々に菓子折りでも持ってやって来てくれれば対処のしようがあるのに、揃ってやって来られて玄関の戸をこじ開けられちゃあ俺にはなす術もない。
俺はしばらくの間ベッドに横になり、陰鬱が溶けて行くのを待っていたが、一向に溶けていかないどころか固まって重くなって行くので、仕方なしにベランダに出て、煙草に火をつけた。
陽が延びたとはいえ、夜も七時をこえると流石に辺りは暗い。二階のベランダから見慣れた辺りを見下ろしつつ、煙を吸い込んで吐き出した。携帯が振動し、小さなディスプレイに「職場」の文字が表示されるが、すぐに視線を闇夜に溶けてゆく煙に移した。どうせまた長続きはしないのだ、どうだっていい。一層深く空気と煙を吸い込むと、胸がずんと重くなって、俺はなんだか「わー」と声に出していた。
「元基、いる?」
ガラス越しに声がして、「あー」と返すとガラス戸がスライドし、よく知った男が顔を出した。同居人の晴行だった。
「なあ、なんかさあ、もう夏だな。夏みたいに暑いな。もうクーラーつけようぜ。つけていい?」
俺が聞くと、この家の家賃と光熱費を管理し毎月きっちり半分の額を請求してくる晴行は「まぁ、いいけど」と笑って俺の横に並んだ。
「吸う?」
マルボロのボックスを差し出すと、彼は「いや、いいや」と断って鉄の柵に顎を乗せる。
「やめたん?」
「やめてないけど」
「なした?」
「俺、次の更新、しないわ」
晴行が唐突に言ったから、俺は更新が何の更新なのかをすぐには理解できなくて、ぽかんとした。晴行はそれを察してか、「この家」と言う。
「え、なんで」
次の更新は、確か九月末だから、あと二ヶ月ぐらいだ。
「引っ越すん?」
「うん、というか、地元帰るわ」
晴行は柵に持たれたまま、何でもないように喋る。俺はびっくりして口を開けたまましばらく晴行の横顔を凝視した。長くなった煙草の灰が、自分の重さに耐えきれなくなり、ぽろりと崩れて落下した。
「なんで!?」
「いや、親がさ、いつまでもフラフラしてないでこっちで仕事探せってうるさくて」
「そんなんずっと言われてたじゃん」
「いやさ、姉ちゃんがさ、地元で結婚したんだよな。そしたらお前もこっちで落ち着けーって前よりさらにうるさくなって」
「姉ちゃんの結婚と晴行は関係なくね」
なんとなく、本当になんとなく彼が言いたいことがわかって、焦った俺はそんな子供じみた反論をした。晴行はちょっと笑って、こちらを向いた。
「それがさあ、姉ちゃんの子供が……あ、デキ婚なんだけど、姪っていうの? そいつがすげー可愛くてさ。この前実家帰った時に遊んでやってたらさ、まぁなんというか、家族にすぐ会えるとこで生活すんのもいいかなってさ」
親もそろそろ歳で、心配だしな。と言い訳のように付け足す。俺はベランダに煙草を放って、「俺とずっと暮らすって言ったじゃん」と、また子供のような口調で晴行に詰め寄った。
「高校の時、約束したじゃん。ジジイになっても毎日一緒に遊んで暮らそうって」
「何年前の話だよ、学生の頃の約束だろ」
晴行は聞き分けのない子供を相手にするように苦笑し、俺が放った煙草をサンダルで踏み潰した。ぐりぐりと踏み付け、火を揉み消す。俺は高校生の時に晴行とした約束を思い出していた。
晴行とはクラスが同じで仲良くなった。毎日一緒にいても飽きなくて、楽しくて、高校を卒業したら一緒に暮らそうと言い出したのは晴行だった。共学だったがお互い女に興味がなく、ずっと映画や音楽の話ばかりしていた。勉強もバイトも運動も何もできなかったししたくなかった俺と晴行はそりがあって、一生一緒に映画を観て音楽を聴いて、それらについて語り合って、生きていけると思った。そんな人生なら楽しいのかもしれないと思った。だから俺も「ジジイになるまで一緒にいよう」と晴行の提案に乗ったのだ。
高校を卒業し、上京して、俺たちは2LDKの賃貸を借りて暮らし始めた。約束を果たせるのだと、俺は本気で思っていたのだ。なのに
「もう充分楽しんだだろ、俺たち。もう十年だぜ」
晴行はもう終わったことのように、なんだか清々しさすらある顔つきで言う。
「まだ十年だろ」
「このままこんな生活続けてたって、何にもならないよ」
晴行は、踏み潰した吸い殻をベランダの隅に置いたアルミの灰皿にそっと落とした。
何にもならなくても楽しければよかったのに。何にもならない人生を、晴行となら楽しく生きられると思ったのに。
そう思ったが、言葉にすることができなかった。
一緒に暮らして十年。最近は、家で顔を合わせることも少なくなっていた。面白いものを観ても、良いものを聴いても、昔のような熱気を持って語り合うことなんて、ここ数年はしていない。それを自覚していたからだ。生活リズムが違うからだと自分に言い聞かせ続けていたのだが、そうではないと晴行に突きつけられてしまった。
「第一、家賃だって毎月ギリギリじゃん、俺たち。仕事続かないし。これ以上ダメ人間二人で暮らしたって何にもならないだろ」
「急に現実の話すんなよ!」
金の話が出てきたから、俺は思わず声を荒げた。こういう話は昔から苦手なのだが、晴行だって同じだったはずだった。しかし
「しょうがねえじゃん、現実なんだから」
柵に背を預けて、諦めたような顔で言う。俺は無性にムカついて、同時にすごく悲しくなった。
「金はなんとかなってるだろ。っていうか、なんにもならないって何だよさっきから。そんなの分かりきってたことだろ、今更なんだよ、何言ってんだよ」
「そうだったけど、こわくなったんだよ。なんにもならないまま歳とってくのが」
もういいかなって。もう、疲れたんだ、ごめん。晴行は、全然悪いと思っていない顔で謝った。ずるい、と思った。先に言い出したのは晴行なのに、先に逃げるなんて、迎合するなんて。迎合できるなんて、ずるい。
「もうこの生活は続けられないなって」
俺の内心などつゆ知らず、晴行は続ける。
「もういいじゃん、あの頃みたいにはさ、いかないよ。俺たち大人になったんだもん」
もう終わりにしようよ、と宥めるように言われ、俺はうるさい、と呟いた。
「うるさい!」
今度は叫んで、咄嗟に灰皿を掴み、思い切り晴行に投げつけた。晴行がぎゃあと悲鳴を上げると同時にリビングにかけ戻って、玄関に散らばっていたサンダルをつっかけて外へ出、階段を降りる。一回つんのめって、三段ぐらいの高さから落っこちた。顔面から落ちて鼻を強く打った。鼻の奥がずくんと痛くなり、すぐにあたたかい液体が鼻の穴から垂れて来て、それを手の甲でこする。
二階から晴行の怒鳴り声が聞こえてきて、俺は慌てて再び走り出した。入居したては、しょっちゅうベランダに出て一緒に煙草を吸った。キッチンの換気扇の下でも吸えるのに、わざわざ二人してベランダに出て、色々な話をした。もう、最近は、揃ってベランダに出ることなんてなくなった。
逆流してきた鼻血を飲み込むと、しょっぱくて鉄臭かった。肺に流れ込んでくる空気が蒸し暑くて、苦しいを
十年間二人分のヤニを吸い込んだタイルや壁の修繕費はいくらぐらいだろうと、夜の街を走り続けながら考える。晴行は、きっと退去費用もきっちり半分請求してくるだろうと思い、少し笑えた。

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