日記(4月28日)

 家事をしていると何かが自分をすり減らしているし、復活させてもいる。すり減っているのは自分の皮膚や食器の陶片やガラス片、衣類の繊維だったりそんな唯物的なことじゃなく、家事をこなすことで失われていく自分の時間への焦燥であったりやり場のない感情だ。このアパートに住む住民は否応なしにそれを従順にこなしている。左耳から掃除機をかけている音がする。どこからか壊れかけの洗濯機の音がする。このアパート全体がGWという響きの名のもとに突き動かされている。揺り動かされている。否応なしに。
 GWはゆっくり過ごそうを思っていた私までもなにかあくせくと忙しなく動かされている気になる。大型連休の力恐るべし。
 そんな中でも丁寧にこなしたかったのは料理とアイロン掛けだ。
近頃は主食としてもっぱら蕎麦の実を取り入れている。ご飯を炊く要領のように鍋に水と塩と蕎麦の実を入れ水分が飛ぶまで炊いてそれから5分蒸らす。そうすると蕎麦の味がする麦飯のような仕上がりになる。ロシア語圏ではカーシャと言われるこの料理が私は好きだ。これは私のロシアに対する郷愁なのだろうか。郷愁は月日を重ねる度に罪になる。私はロシアに行ったことはないけれども。
 アイロン掛けと衣類収納。これは恐ろしいほど面倒くさい営みだ。労苦の中の労苦、面倒くさいの極北にあるような労働の中の労働だ。それを今日は徹底的に行った。ワイシャツに至っては襟から袖口までパリッとするまで丁寧に丁寧にかける。開放された窓からは生活音と共に木々のさざなみ、鳥たちの鳴き声。そして牛糞の仄かな香りが流れ込んでくる。なんていう田舎なんだ。私は即刻ここから立ち去るべきである。
 そんな小さな憤慨と共に家事をこなし終えれば全てがスッキリと復活したような晴れ晴れしさでジンをソーダ水で割って飲み始めているから厄介だ。もっと日々に怒りを燃やせ。しかし、お酒はやけに美味しく感じられて困る。
 夜は友人から人生相談を受けて私の力不足さを嘆いた。私の選んだ言葉は彼女に届いたのだろうか。何か拍子抜けで的外れな言葉を相手に捧げていないかいつもビクビクしている。私はもっと人の心に寄り添えるようになりたい。私は強さなんかいらない。
 こういう日々の積み重ねがいつかダイヤモンドのように輝くのだろうか?私の答えは否だ。精々、銅くらいなものだろう。けれども銅製のフライパンで焼いたパンケーキが極上であることだけは確かだ。
 

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