お金を使った後に

このタイトルで作文を書いたことがある。

中学3年生の時だ。

幼い頃からこつこつとお金を貯めて、エレキギターを買った。小学5年生の夏だ。

3万円以上使った。

その瞬間は欲しい物が手に入った喜びでただただ胸がいっぱいになった。

しかしその後から、わたしはずっと考えていたことがあった。

そのギターを抱えるたびに、そのギターへの愛着が増すたびに、そのギターが傷つき元の姿から変わっていくにつれて、お金を使うとはどういうことなのだろうと考えた。

後にも先にも、そんな大金を使ったことはなかったし、中学3年生になった当時もそうだった。

その日は郵便局のATMで一万円札を数枚おろした。一万円札を持っているドキドキと緊張感を肩から提げて、友人宅が営む楽器店に行った時の興奮は忘れられない。

「それは大金を使った喜びだったのだろうか。」

中学生の私は、お金を使うことや物を得ることそのものではなく、その行為を自ら価値づける行動こそ大切なのだと結論づけた。(いっちょまえにな)

祖父が財布から出してくれた100円で買った鉛筆や、近所の駄菓子屋で友人と選んだ10円のお菓子。その100円や10円を使ったことをどのようにとらえるか。

お金を使うその前やその瞬間、人は様々なことを考えるだろう。しかし、お金を使ったその後に、その対価として手に入れた物や経験について、それが自分にとってどのような価値を生み出したのかについて思いを馳せたい、と当時のわたしは綴った。

大人になって、もっと大きな額が出入りするようになって、「コスパ」とかそんなことばかり考えるようになって、「金額とその対価」しか見つめていなかったように思う。

「無駄遣いだった」「もっと安く買えた」「別の店の商品の方が良かった」と考えることもしばしばだけれど、そんなことも含めて、お金を使って何かを手に入れた経験そのものを振り返り、自分をみつめる機会にしたい。

中学生の頃に書いた作文は、金融庁のコンクールで特選をもらって、東京から賞状とトロフィーを持ったお兄さんがわたしが通う田舎の学校まで来てくれた。

インドの弦がたくさんある楽器の話をしてくれて、わたしの知らない場所には見たことも想像したこともないものがあると教えてくれた。電車も走っていない田舎で暮らすわたしにとって、初めて文明に触れたような、外の世界を垣間みたような、素晴らしい出会いと経験だった。これもまた、ギターを買ったことで得たものだ。

ちなみに、その時にもらったトロフィーは円錐でガラス製という珍しいもので、新宿の切り子職人が名前を掘ってくれたのだと聞かされた。とても美しい作品だった。

大人になって、おおよその値段を察するけれど、そんなこと知らなくてもわたしはそれの価値を知っていたのだと思う。

それと、今思い出したのだけれど

最近壊れるまで18年間同じ自転車に乗っていた(結構引かれます)。これは祖母が買ってくれたもの。

幼児向けのドラゴンボールのお茶碗を23年間ずっと使っている。これは祖父が近所のスーパーで買ってくれたもの。

もう買ったことも覚えていないだろうけれど、買ってくれた時の気持ちとは、どんなだったろう。

まとまりのない文章ですが、まとまりのない気持ちをまとまりのないままに誰かに聞いてほしかったんです。

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