てめぇの二番煎じにはならん。


わたしは、しばしば綺麗だねと褒められる。
それは承認欲求を満たしてくれる。

という虚偽をぬかしたいわけではなく、
顔の美醜による差別について思い出したので
記録するために書く。


わたしは、今こそ普通に見れる顔面だが
昔はさぞかし不細工だった。
いや、不細工に見えていた。



高校生の時なんかは、
「美」を磨くことや「女性」としての美しさへの抵抗が強く、
周りの色気付く雰囲気には乗れずにいたから
特に不細工が際立っていた。



友達の弟に「不細工」と正面切って言われたこともある。
(匿名でしか言いたいことが言えない奴が多い世界に、
その度胸だけは認めてやる。)
つまり、思い込みの激しさだけではなく、
他者公認の不細工だった。


ただ、自分のことは美人だと勘違いしてた。
うそ。
ちゃんと理解していた。
(誰がなんと言おうと、「私は美しい。」と。)
だから今もこうして精神が元気なんだと思う。


先程の正面切った悪口なんかは
もはや清々しいものを感じるんだけど、
美醜による差別つまり、ルッキズムがあったな
と思う話がある。


それは、中学校の先生である。
野球部の顧問でいつも貧乏ゆすりが激しい人だった。(いつも、1人地震かよと思っていた)

わたしは陸上部だったので、
直接的に話すことは少なかったが
体育の授業などで話す場面があった。


その先生と授業で同じになった時、
わたしは、かわいい友達
(ここでは外見的に整っているという意味)
と卓球をしていた。
その友達が、先生に話しかけていた。
先生も満更ではなさそう。
そして私が話しかける。


「うるさい。もう続きをやれ」


そのような言葉を言われた。
その時は、しゅん…となったのを覚えている。
もちろん、「喋りすぎた、そろそろ授業に戻れ」と言う意味を込めて言ったのかもしれない。

ただその後も、絡む際に
かわいい友達との差別を感じたことがあったように感じる。

ただの「性格的な」かわいらしさの贔屓だろうと感じるかもしれないが、
そのかわいい友達はテニス部だったので、
先生との接触回数はさほど私と変わらない。
性格もわからないほどの接触回数•頻度である。
そんな中で感じる差別は、
顔によるものとしか思いつかないし、
今改めて理解した。


あれは、ルッキズムだと。
正直、あの先生は好きじゃなかったし
いい先生だったと一ミリも思わない。


けれどそんな私も、あの人の見た目がという話をたまにしてしまうときがある。
(思っても対応出てないようにしてるけど、
それは完璧なのだろうか。
異性にもしてない?わからない。)

当時は、中学生だったから
その時は言語化できなかったが、
そういう差別はちゃんと当事者は感じる。
つまり、わたしも相手にそういうふうに感じされてるんじゃない?


あの先生の、つまらない二番煎じにはならないよう気をつける。自戒を込めて。

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