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藩主から恩賞を頂くほど親孝行一筋に生きた女性の話

村主小学校の近くに「孝女登勢墓」と刻まれた石碑があります。孝女とは「親孝行な娘」のこと、登勢(とせ)とは江戸時代に実在した女性の名前なんです。親孝行な登勢を称えた墓碑、親孝行なだけでこんな立派な石碑ができちゃうって、登勢さんは一体どんな人だったの?

登勢は、天明8年(1788)伊勢国員弁郡阿下喜村(現 いなべ市北勢町阿下喜)で財産家の娘として生まれ、すぐ奄芸郡山田井村(現 津市大里睦合町)の農家 吉兵衛に養女として引き取られます。しかし吉兵衛に実子ができ、6歳の時に再び養女に出されます。新しい養父母は、安濃郡連部村(現安濃町連部)に住んでいた前田伝蔵夫婦でした。
夫婦には実子もなく乏しい農家でしたが、仲むつまじく暮らしていました。しかし伝蔵が病気になり、生活はますます苦しく家財は人手に渡り、3人は粗末な竹小屋で暮らしていました。13歳になった登勢は、養父母のため奉公に出る決心をします。朝から夜まで一心不乱に働き、深夜に竹小屋に戻り両親の世話をし、夜が明けないうちにまた奉公に出るという毎日。そんな姿を見た人たちは、登勢も病気になってしまうと心配しましたが「ただ両親を大切に思うだけ」と面倒を見続けました。
享和2年(1802)登勢の孝行に感謝した伝蔵夫婦は、登勢を気遣いあえて2人だけで湯治の旅に出ます。道中行き倒れになることも覚悟した旅でもあり、そんな両親の思いを知った登勢はすぐに2人のあとを追い、両親を介抱しながら湯治と祈願の旅を続けました。旅から帰郷した登勢は奉公をやめ、内職をしながら両親の看護に専念します。そんな登勢の話を聞きつけた津藩主 藤堂高兌は、田畑1や米・屋敷などを与え、年貢を免じ、さらに医者に命じて両親の治療をさせました。しかし治療の甲斐なくその4年後に伝蔵が、6年後には母が亡くなってしまいます。登勢は狂ったように泣き叫び、村人すべての涙を誘ったということです。
登勢は天保11年(1840)7月13日、登勢は53歳の一生を終えました。その後津藩により墓碑が立てられ、現在まで登勢の孝行心を伝えています。村主小学校の校歌にも「教えはゆかし  孝女登勢」と歌われているそうです。

歴史的に有名な人ではありませんが、安濃町民にとって誇れる女性であることには間違いありません。生きていたら爪の垢を煎じて、まずは親不孝?な私が頂きたいものです。苦笑

孝女登勢墓|三重県指定史跡
写真|津市観光協会HPより転用 https://www.tsukanko.jp/s/spot/104/

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