私の中のネトウヨ



私は自他ともに認める「左側」である。

国政選挙は、ほぼれいわか日本共産党に投票し、外国人参政権は賛成の立場、同性婚と夫婦別姓は早く認めるべきだと考えているし、高校無償化には朝鮮学校を含めるべきと思っている。

もちろん中絶禁止に反対派(プロチョイス)。

好きな言葉は「選択の自由」。


愛国心という言葉にしっくりこず、基本みんな好きにしたらいいんじゃない?というリベラル左派の私が、猛烈に反応してしまうトピックがある。

それが「親子関係」である。


機能不全家庭に育ち、親から縁を切られているため、自分の子どもの頃を思い出させるようなエピソードに過剰反応してしまったり、自分のような社会に適応しづらい人間を再生産しないでほしい…という想いから、「子どもは親を選んで産まれてくる」とか「親は完璧じゃない」という言葉に引っかかっていたんだと自認していたのだが、どうやらそれだけではないのでは?という出来事が最近あった。


先日スーパーマーケットに食料を買いに行った際、レジの近くに騒いでいる子どもとその親がいた。

「どうか私の後ろには並ばないように…」との願いも虚しく、私の後ろに並んだ親子。

その時私は自分の身体が緊張してガチガチに力が入っていることに気が付いた。

心のなかでは(お願いだから大きい声を出さないで、暴れないで、私のパーソナルスペースを侵さないで…)と祈りつづける自分がいた。

まるで夜道で後ろから男性が歩いてくる時のように。


この時の私の心の状況はなにかに似ている…と考えた結果、最近炎上していた、ある芸人が女性とエレベーターに乗り合わせた時に警戒されたことを不愉快に感じ怖がらせようとした、という一件を思い出した。

知らない男性と密室で一対一になった際、加害された経験があった場合は特に緊張するだろうし、そうじゃなくても警戒してしまう女性は多いと思う。

しかし警戒すると「自意識過剰」と笑われて、加害されたら「なぜ警戒しないのか」と叩かれる。


子どもが騒いでいたら「子どもは何をしてもかわいい、迷惑と思うな、うるさいと思うな」。

子どもが私の私物を盗んで持って帰ろうとしても「子どものしたことだから」。

(全て私が実際に言われた言葉です)

「子ども」という属性は「男」という属性ぐらい最強だなと常日頃私は感じている。


認めたくなかったが、私は子どもが「怖い」。


レジ事件のあと思い出したのは、小学校に上がってすぐ、保育所出身の男の子たちに加害されたこと。

幼稚園時代はお互い〇〇君、〇〇ちゃんと呼び合うことに慣れていたのに、小学校に上がってからは保育所出身の子たちが呼び捨てやあだ名で呼び合ったり、口汚くお互いを罵るのに、小学校1年生の私はカルチャーショックを受けた。

そして、帰り道に5,6人の男の子たちの横を通り過ぎようとした際、彼らに捕まって、横にピッタリくっついて歩きながら帰る間ずっとからかわれ続けたり、ランドセルやヘアゴムを取られて用水路に捨てられたりして、生まれてはじめて「男属性の存在から加害される」という経験をした。


「私は自分が大人になっても未だに子どもが怖いんだ」という気づきはショックだった。

いわゆるインナーチャイルド問題なのか、自分が20代になっても、30代になっても、小学生男子に加害されるかもしれないという恐怖がまだ残っているというのは、あまり他者には理解されないのではないかという思いも、自分の気持ちをより重いものにした。


そのことにより、「私は子どもが怖い」「加害するような子どもを育てる親が悪い」「だから私の生活の中には子どもも、子育て中の親も入ってきてほしくない」そういった恐怖心から出た排除する気持ちがあったことに気づいた。



また、私は子ども時代は「子どもなんだから大人に譲って我慢するのが当たり前」、大人になってからは「子どもと子育て中のお母さんは大変なんだから、大人であるお前は我慢するのが当たり前」というダブルスタンダードの親の元育ったので、「子どもの頃我慢して、我慢して、やっと大人になったのにまた我慢。」というシステム構造のバグによるストレスもあった。


以上の気づきを踏まえた結果、

①(恐怖から親子を排除)→「『竹島や尖閣諸島を足がかりに私達の美しい国を侵略してくる』と言って中韓を排除しようとするネトウヨ」

②(やっと自分の順番が来たのにまた我慢)→「『我慢して良きアメリカ人をやっていたのに黒人にいろんな機会を奪われた』と言い張る白人男性(トランプ支持者)」
と共通する部分があるのでは?と考察した。


※私の子どもに対する恐怖自体はネトウヨの嫌韓(実際に韓国の人に加害されたわけではない)よりも、以前男性に加害された経験を持つ女性が男性とエレベーターに同乗する恐怖に近いと感じている。

ただ、現実に小学校低学年の児童が30代の私に加害することのリアリティを考えると、実際はネトウヨの嫌韓に近い、現実問題よりも偏見、トラウマから来る偏りに近いものがあると思い、①の例に採用した。


「社会はなぜ左と右にわかれるのか」(ジョナサン・ハイト)という本がとても面白い。

その中に、ものすごく極度にざっくり言うと「左は理性、右は感情&本能」というような箇所がある。

私の「怖いし私の順番を取らないでほしいから、子どもとその親は私のフィールドに入ってきてほしくない」という感情は、実に「右的=感情&本能による排除」ではないだろうかと、今回のことを経て思うに至った。

このことで今まで別の星の人でしかなかった右側の人たちの気持ちが少しだけ理解できた。



そして、親子に対するあまり好意的ではない想いをぶつける先がツイッターであるというのも「とてもネトウヨ的」であるなあと改めて実感。

ツイッターは左寄りの意見よりも右寄りの意見のほうが増幅しやすいと、頭ではわかっていたのだが、先日自分のツイートを読み直す機会があった際、親子に関する辛辣なツイートの割合が時間を経るごとに増えていくのを目の当たりにして、右傾化はツイッターによって加速する…とまた深く実感。


残念ながら、この文章は「平和な左派の私が自分の暗部に気づいたので、これからは親子連れに優しくします♫」というオチではない。


この文章は、

陰の中に陽があり、陽の中に陰があるように、

女性の身体の中でテストステロンが、男性の身体の中でエストロゲンが産生されるように、

左派リベラルの私の中にも「敵を排除することにより自分のエリアの安全を守る」右寄りの思想がありました。というオチのない話です。


正直、他者を排除することはしたくないし、綺麗ごとだけを言って生きていきたい気持ちもある。

しかし、飛行機に乗る際には子どもが近くにいない席を求めてしまう自分がいる。

どうしても「子どもはあなたを選んで生まれてきたんだよ」「子どもが一歳ということはあなたはお母さん一年生、失敗して当然だしたまに手を上げることがあっても自分を責めないでね」とお母さん方に、心の底から言うことができない自分が未だにいる。

私は子どもの叫び声をうるさいと感じてしまう。
母親たちにはどうしても「産む前に情報を集めてしっかり考えてから産んでほしかった」と思う。


しかしその思いがエスカレートすると、あっという間に「バカは子どもを産むな」になってしまうということ。

「考えてほしい」と「産むな」はかなり近い位置に存在していて、その行き来は思いの外一瞬であることを、私はこの度知った。




タイトルを付ける際、最初は「私の中の右翼」にしようかと思ったのだが、一水会など、平和的な形で愛国心を表現してる団体や人もいるし、「右翼」って本来は悪口じゃないよな…と。

偏見やトラウマから他者を強烈に批判・排除している属性って一体誰だろう?と、考えた結果「ネトウヨ」という存在に行き着きました。特にツイッターで憎しみが増幅する所は「右翼」「右派」よりも「ネトウヨ」のほうがしっくりくるなと。

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