VOCALOID楽曲の歌詞から見る現代のサバイブ術
作品というものは時代を反映する。古典の授業において和歌から当時の人々の心情を想像することができるように、詩や小説、音楽といったものは、作り手の、ひいては作り手の生きた時代の写し鏡ともなる。
とすると、現代の人間の心情は現代の楽曲や小説を参照すれば分かるのではないか。そういった視点で、ここ数年のVOCALOID楽曲を鑑賞してみたいと思う。
2023年11月に公開され、2024年4月現在ではYoutubeにおいて1400万回以上の再生数を記録している本楽曲が描き出す世界観は、『親ガチャ』によって規定される人生への一種の諦観である。
かつては一億総中流と謳われGDPも先進国上位だった日本も、年々所得は減り、社会保険料は増し、肌感覚としての『貧困』は若者にとってもリアルなものとなりつつある。以前、能力主義を批判するマイケル・サンデルの著書『実力も運のうち(原題:The Tyranny of Merit)』がベストセラーとなったが、家庭の資本の度合いが学歴の格差に直結し、それが就職活動にも影響するという学歴社会の弊害は、決してアメリカだけの問題ではない。そんな、『実力も運のうち』という世界観をより卑近に端的に表したフレーズこそが、『親ガチャ』だ。
ソーシャルゲームにおけるガチャの引きは完全に運次第であり、プレイヤーが介入できる要素はない。しかし、課金を続けることで推しキャラのSSRを引くことも出来る。とどのつまりは金次第というわけだ。そしてそれは、我々が生まれる家庭を選べないこと、経済的状況こそが人生の可能性と等しいこととも同義だから、見えない格差は従容と受け容れるほうが効率的で、他のことにエネルギーを用いたほうが楽しく生きられる--そんな諦観にも似た想いが、この楽曲の歌詞には綴られている。
また、そんな状況を『オーバーライド』(乗り越え、上書き)しようとしても上手くいかず、『豪快さにかまけた人生』は『きっと燃やされてしまう』。
そんな『暗い無頼社会』に生きる私たちに必要なものは何か。
それは、『嘘』と『踊り』である。
2023年6月に公開され、2024年4月現在ではYoutubeにおいて460万回再生を記録している本楽曲が描き出すのは、『嘘つきであること』と『享楽主義に陥ること』への肯定だ。
過去は変えられないし、現状から抜け出すことは出来ない。ならば、自分を誤魔化して、今を踊るしかないのだ。『全てを忘れて踊れ』というメッセージは、過去のヒット曲においても、幾度となく発信されてきた。たとえば、
だったり、
といった形で、無常な現実から逃避するための『踊り』というものは、10年、いや、それ以上も前から、いつだって処方箋として提示されてきた。そして、それらのメッセージは現代においても、
といったような形で引き継がれている。
ただ、ふと視線を逸らせば、そこには、如何ともし難い現実が横たわっている。
この世の総ては嘘で出来ており、antipathy(反感)で満ちている。私たちはいつだって画面の向こう側の相手を傷つけ、傷つけられる。
SNSでは日々誰かが炎上し、数日もしないうちに忘れ去られ、再び顔も知らない相手同士が傷つけあう。そんな虚像に満ちた世界では『踊り』に意味などなくて、目的も、アイデンティティさえも、見失ってしまいそうになる。
それでも、私たちは『踊り』を必要としている。
『見かけだけの造花』だとしても、それが刹那的な快楽であり虚像に過ぎないのだとしても、現実をサバイブする術は、そこにしかない。
かつては疫病退散を祈願して踊りが踊られた。鎌倉時代において一遍上人は念仏信仰と踊りのパフォーマンスを結びつけ、念仏の布教に一役買った。踊りは祈りだ。現代を生きる私たちは、TikTokなどを通じて様々な祈りを織り込み、憂き世を生き抜く。
果たして、それは一時的な現実逃避に過ぎないのだろうか。
私は、そうは思わない。
虚像に塗れた現実からエスケープし、音に身体を揺らすこと--それこそ、私たちにとっては、何よりも切実な生き様の一つである。音楽は、鳴り止まない。
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