資生堂 INOUI(インウイ)/コズメティックな世界を装うということ
まったくのすっぴんである。勤めが手術室ということもあって、マスク取った唇がタラコになっていたり、顔の下半分ファンデーションが剥げてたりするのが嫌で、今はまったくのすっぴんで生活をしている。もともとド近眼のため、化粧のためコンタクトレンズが必要なのだが、術中に目の乾燥のため、コンタクトが落ちてしまった事件があって以来、安全も考慮して、仕事中は眼鏡を通している。使い捨てコンタクトは、外す時が地獄なので、私にはもうおすすめしないで下さい。結膜が破れるかと思う、本当に。
とはいえ、大学卒業後、モラトリアムしていた時期に、派遣で「美容部員」なるものをやったことがある。デパートでお客様にあれこれおすすめするアレである。私は、人に化粧をするのが好きだった。本当は、メークアップアーチストになりたかったのかも。看護師になった時も、「おばあちゃんたちに化粧をしたいな」などと考えていた。「ネイルとってきてくださいねって言ってるのに!SaO2測れない!」などと怒っている今とは大違いのマインドである。勿論自分で化粧するのも好きだった。今は別人メークなどがyoutubeにあがっているが、当時の自分がいたら、真っ先に動画上げていたように思う。アイプチがこれほど市民権を得るものになるとは!当時の一重女子は陰でこそこそしていたものだ。プチ整形の方が、個人的には楽(皮1枚のことなので。骨切りとかは、勧めません。見ていてちょっと・・・)だと思うが、色々と変化を楽しめるのはメリットだと思う。
ちなみに、はじめてコンタクトを入れた時のショックは計り知れないものがあった。少女マンガの中では、メガネを取ったら美少女が現れるはずなのに、コンタクトを入れて、鏡に映った少女は、やっぱり同じように残念な容姿をしていた。だが、地味には地味の強みがあって、化粧で色々と遊べてしまうのである。
当時の私のあこがれは、モデルの山口小夜子さんだった。
高校3年の担任の先生が、「もう、お化粧のこととか私に聞いて!」という感じの方で、目の周りをリキッドアイライナーで猫目に囲っていた。今思えば彼女も小夜子ファンだったのかもしれない。とにかく小夜子さんの独特で圧倒的な存在感、日本的な美というものに惹かれていった。
この方、検索すると出てくるのだが、素顔は以外にもかわいらしい感じの方で、「山口小夜子」のイメージからは程遠い印象なのだ。化粧によって、山口小夜子は作られる、そういっても過言ではない。化粧にはそれほどの力があった。
彼女は、1973年から1986年まで、資生堂のモデルとして専属契約を結んでいた。その資生堂が1980年にグローバルイメージ展開の責任者として契約を結んでいたのが、セルジュ・リュタンスである。この方が手掛けていたINOUI(インウイ)のCMやらポスターやらの美しかったこと!このCM見たさに「流行通信」だの「おしゃれ関係」といったテレビ番組をみていたほどである。INOUI(インウイ)でメイクアップすることによって、顔の造作を整えるというよりは、そこに提示されているイメージを装うことをしていたのだと思う。あの時代に生き、あの美意識を享受出来たことは、人生においての幸運であったと思う。
「もともと<コズメティック(化粧品)>の語源をさかのぼるとギリシア語の<コスモス>、すなわち「整然と秩序づけられた完全なシステム」に行き着く。 星辰と大地を含む大宇宙(マクロコスモス)と対応付けられる小宇宙(ミクロコスモス)。言うまでもなく小宇宙とは、<人体>以外のものではない。自らの身体宇宙の神秘をさぐり、整え、飾り、完璧な理想にむけて創りあげて(メーキャップして)いくことーそれはとびきり優れた知性と感性を要求される仕事だ。(西垣 通 「麗人伝説」より)」。実際、彼の作品はDNAをゆさぶられるような、原初の記憶を呼び覚まさせるような、そんなイメージに溢れている。月というものは美しい。その美しさに匹敵する美を、彼の作品は持っているように思う。
INOUIで化粧を施した自分は、自分でない、もっと整然とした美しいパターンに近づいている、そんな錯覚を持たせてくれるアイテムだった。それは、内面が求めた整合性であったり、理想ともいえるものであった。そう、山口小夜子ではないけれど、実際の自分よりさらに「自分」というものを表に現わしていたように感じていた。
あの時代、バブルに沸いて「JAPAN as No.1」と日本に生まれた恩恵に感謝していた時代。今では考えられないが、本当にあのころは、それが永遠に続くと思っていたのだ。ドラッグストアに行くと、化粧品の値段が当時とほぼ変わっていないことに驚きを隠せない。いや、むしろ値下がりしている感すらある。35年前と化粧水も、アイシャドウも、ファンデーションも、ほとんど値段が違っていない。日本がデフレ経済であったことを痛感させられる。
そんな昨今ではあるけれども、INOUIによって見いだされた美しさは、私の中で普遍であり、不変でありのものだ。もう手に入らないので他のメーカーのものを顔につけたりする時も、INOUIを使っていたときのように美を装う気分となっている。化粧をするときは、蒸しタオルでパックする、化粧水で下地を整えるなど色々とテクニック的なことがあるだろうけれども、私にとって最初に必要となるのは、香りを施した空間でセルジュの作品を見たり、お気に入りの画集を広げたりして、自分が装いたい気分のイメージを広げることである。
だから、日常に埋没している仕事中は、そういう意味でも、すっぴんなのだ。
この記事が参加している募集
よろしければサポートお願い致します。いただいたサポートは次の活動に充てたいと思います。