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諦念と希望のはざまから

この二、三週間ほどのあいだに個人のプライバシーを侵害するような週刊誌記事が出て、にわかに私の生活の内側にあるSNSがさわがしくなった。それはSixTONESのアカウントを作って初めてのことで、流れてゆくTLをぼんやりと眺め、この世の中の異性愛至上主義的な風潮と、私人のプライベートへの違法行為を容認する(そういった感覚を前提とした)様々な主張に忸怩たる気持ちを抱きながら、SixTONESのアカウントでは、トレンドワードへ貢献しないような、けれどできれば私のことを少しでも身近に感じてくれている人には私のスタンスを知ってもらえるようなポストを一度だけして、それ以降、オンライン上では音声コンテンツも含めてその件に触れることはしなかった。

このポストに書いたことは、私がこういった問題に対していま明言できる数少ない主張であり、それはつまり、当たり前のことしか書いていないということでもある。私人のプライバシーが違法行為によって侵害されることなどあってはならず、賛成/反対いずれの立場を表明することが守られるべき人権を侵害する行為であるというのは、まったくそのとおりであるだろう。けれど、それってつまり、何も言ってないことと同じでは、ともおもう。あまりに当たり前のことを抽象的に書きすぎていて、こういう言葉が誰にも届かないことを私は身をもって知っている。届いてほしいところへ、私のことばは届かない。

今回の件を受けて、相互フォロワーがスペースで「結局誰もアイドルの話なんて聞いてないんだよ」といっていて、そのことばが今も私の心のかたすみに残っている。(その人がこのnoteを読む可能性は高くはないが、本人が読んだときにネガティブな感情を抱いてほしくないので付記すると、私はその人の発信にいつも、共感ないし発見、好意の感情を抱いているし、本発言もそのなかに含まれる)私たちはいつだってアイドルのオタクとして、アイドルの言葉に救われたり、勇気づけられたり、喜んだり悲しんだり考えさせられたりしているつもりなのに、それさえも社会によって強固に形成されたあらゆる固定観念の前には無力だ。多分私と同年代のほとんどの人たちは生まれたころから週刊誌があり、芸能人の結婚・離婚を含むあらゆるプライベートは報道の自由・知る権利の建前によって部外者である我々の前に晒されることが当たり前であり、恋愛・結婚という行為はシスジェンダー、ヘテロセクシャルをベースに語られ続けてきた。そういうものたちの前には、アイドルのあらゆる言葉が無力化されてしまうのかとおもうと、私のことばなんて誰にも届かないだろうという諦念はあまりに正しい感情のような気がしてしまう。無力だな、とおもう。生きていて、自分の手には負えない大きなうねりを感じる時、ただ生きて、日々の暮らしを過ごしているだけなのに、途方もない無力を感じて呆然とする。今回も、私のなかにあったのはそういう気持ちで、「アイドルの言葉なんて誰も聞いてないんだよ」は、それを見透かされたような、静かに指摘されたようなことばだった。

世の中って全然私の思い通りにはならなくて、私はわりとそのことに絶望したり嘆き悲しんだりしながら生きている。けれど、ふりかえって私のしていることを眺めたとき、曖昧で、誰かを傷つけないことを第一義とするポストを投稿して沈黙することは、そういう思い通りにならない世の中に対して”何かをした”ことになるのだろうか。私には考えていることがあって、幸いなことにそれをこうして文章にするための最低限の言葉があって、発信する小さな場を持っている。聞いてくれる人も、ゼロではないかもしれない。それを言葉にしないことは、これまでアイドルのたくさんのことばでエンパワメントされてきたオタクとして、あまりに無力を言い訳にしすぎているような気もするのだ。もちろんそれは、私個人の感覚であって、発信しないことを選択する誰かを責める意図はまったくない。ひとには、それぞれのフェーズがあり、立場があり、選択がある。私以外の人の選択を、私はひとつも否定しないし、優劣をつけない。少なくともこのアカウントで発信し、ファンアカウントという自意識で語るものに関しては。(それに私だって、例えば好きなアイドルがシオニストの立場を表明したり、差別主義者だったりしたらこんなに整理した言葉を書くことはできないだろう。私のことばは前提として、今この瞬間私自身の特権性のもとに書かれている)そのうえで、”わたし”は、ここまで読んでくれた名前も顔も知らない誰かのために、今私が考えていることを、書き留めておこうとおもう。あまりにも微力で、波さえ立たないただのひとりのオタクの思考整理が、もしかしたら誰かのところへ届くことを祈って。

今回の騒動を経て改めて感じたことのひとつに、アイドルへのまなざしの多様化がある。この長ったらしいnoteを読んでくれるようなアイドルのオタクとして日々SNSに触れている人たちにはそんなことはシャカセツ(釈迦に説法)という気もするが、もはや今時「アイドルの熱愛に落ち込んでるなんて、自分が結婚できるわけでもないのに」という外野の揶揄が的を射ていると感じる人はほとんどいないだろう。アイドルへのまなざしが疑似恋愛一択と思われていた(実際、それが事実だった時代があるのかは不明だが)時代は終わり、”推し”という言葉に表されるような恋愛感情を主としないまなざしはすでに社会に可視化されている。もちろん、多様なまなざしのなかには疑似恋愛もあるだろうし、もっと”応援”や”支援”に近い感覚が強い人もいれば、投資だと考えている人も、パフォーマンスに重きをおく人もいる。何をアイドルの魅力と感じ、どういうスタンスで彼らを消費するのかはひとくくりに「アイドルオタクってこうだよね」というラベリングを許さないほどに細分化し、時にひとりの人間の感情のなかでそれらが複雑に混ざり合って出力される。そういう複雑さはいっとうきらきらしていていとおしくて切実だ。だからこそ、今回のようなことが起こった時、あらゆる感情は個人の表現のもとに発露され、濁流となってSNSへとあふれかえる。比較的穏やかなほうであろう私のTLでさえその片鱗が垣間見えるほどだったので、おすすめ欄や、よりアイドルとの結びつきを強固に捉える層がメインのアカウントではまれにみる大嵐だったことをと想像するのは難しくない。

大前提として、彼らがアイドルとして公開しておらず、公序良俗に則り社会ルールを逸脱しない方法では到底知りえない情報について、ファンという存在はあらゆるジャッジメントを下す立場にない。私たち(ファン)にできることは、内心の自由を行使すること、立場を選択することだけだ。それ以外のあらゆる議論が無意味な代わりに、私たちにはユーザーとして選択の権利がある。それを行使する(ファンでいるのをやめる選択肢ももちろんある)かどうかは当然私たちの手にゆだねられている。アイドルに恋愛禁止を課すこと(直接ルールを設けなくとも、そういった空気を醸成すること、その一方的なルールに反した人間を強い言葉で誹謗中傷すること)は明らかな人権侵害に他ならない。この前提が私のなかで覆ることは今のところないと思う。

濁流に溢れかえることばの中に、アイドルの恋愛の是非について書かれたものはとくべつ多かった。アイドルは恋愛して良い/悪いという二元論の議論は主に「アイドルのプライベートは商品か否か」という意識の違いと割と直結しているように思う。今回の件でいえば週刊誌記者への回答に関する議論もその延長線上にあり、本質に大差はないだろう。また、誤解されがちだが、アイドルの恋愛に対して否定的=疑似恋愛対象というわけではないこと、パトロン的感覚の延長に彼らのプライベートへ進言するような感覚があることを根拠に、恋愛をしても「良い」という感覚も、彼らのプライベートへの干渉を前提としたものであることにも同じく注意したい。私たちは人権侵害という観点から突き詰めれば、社会倫理上、彼らアイドルのプライベート(少なくとも、彼ら自身が公開していない業務時間外の行動)について、究極的には「関心を持っていることを公開しない」行動が求められている(と、理論上の私は考えている)

もちろん、上述でかっこ書きしたように、そんなふうに割り切った行動がとれるほど人間は賢くないし単純じゃないし、ファンの自浄作用は万全じゃない。どこからがプライベートで、どこからがアイドルという仕事なのかの境界線はあいまいで、そのラインはあらゆる場面で引き直される。ファンによって、タレントによって、企業によって。自分たちに都合の良いように何度も引かれた境界線はその輪郭をぼやかし、次第に意味をなさなくなっていく。数多のアイドル誌で繰り返される理想の恋人の条件や、昼夜更新されるSNSのオフショット、ステージ上のパフォーマンスとバックステージの公開はシームレスに接続され、Youtubeの撮影が私服で行われるのはもちろんそれらの行動がマネタイズへと直接/間接的につながっているからで、決して慈善活動などではない。そういう環境のなか、ファンがファンの自助努力のみで「今日のステージ衣装かわいかったね」と「Youtubeで着てた服似合ってる、どこのブランドかな?」の違いを検分しながら有害性を熟慮して都度正解しつづけることは現実問題不可能だろう。そもそも週刊誌の違法行為は悪だが、その週刊誌にタレントの公式インタビューが掲載されることだってある現実の矛盾は一体なんなんだ。公私の境界線はいつだって、資本主義のパワーバランスのなかで引き直され続けている。それでも、少なくとも私の周囲にいるファンはできるだけ丁寧にその境界線を見極めて、自分の良心と倫理に従って社会に要請される行動をとろうと努力している。間違えたり、間違えなかったり、考えを変えたり、確信したりしながら、私たちは私たちなりにいつだってアイドルにたいして誠実でいようとしていると、私は心の底から信じている(信じられる環境を与えてくれるフォロイーのみんなに、心から感謝しています)

やや脱線してしまったけれど、アイドルの恋愛における人権侵害の話に戻る。アイドルを好きになって、彼らの活動を丁寧に追っていくと、あまりにも多くの場面で異性愛を前提としたコミュニケーションにぶちあたる。自分の生活のなかにある何倍もの確率で。婦人誌のインタビューから異性愛に関する質問が途絶えることはなく、アイドル誌では好きな女の子のタイプの話が繰り返され、トーク番組では過去の恋愛経験を問われて曖昧に言葉を濁しながらアイドルらしい回答を上手に返す場面に感心させられることさえある。そういう場面に出くわすたびに、彼らのビジネスの根底には男女という枠組みと、それをベースにした(疑似的な)異性愛があるのだと痛感させられる。こういったアプローチが氾濫している現状は、恋愛というプライベートな行動の境界線を曖昧にしていく一助を担ってはいないだろうか。

あらゆる曖昧なジャッジメントのなかで、こと”恋愛”に関して最も大きな感情のうねりを巻き起こすような、その事柄についての干渉権を持っていると私たちに錯覚させるような商戦略がアイドル産業にはれっきとして存在している。そして、それこそが、”恋愛”という部分に関しての人権侵害を容認する要素のひとつになってはいないだろうか。(錯覚させているのはタレント本人の意思ではなく、あくまでもアイドルビジネスの運営手法やマーケティング、それらを経営の軸としているビジネスの運営者たちであり、タレント個人の発言ひとつずつを個別に議論するつもりはない)

大切なことなので繰り返すけれど、私は同性異性関わらずアイドルとの疑似恋愛を否定しない。疑似恋愛感情が支援者的な応援感情に劣るなどありえないし、私はアイドルを物語的に消費している自覚があるけれど、それだって当たり前に消費であり、そこに優劣があるはずもないことを理解している。それこそありきたりな表現だけれどどんな気持ちも尊重されるべきかけがえのないものだとも思う。けれど、あらゆる恋愛感情/行動が商業的に消費されすぎる現状が私たちに「彼らの恋愛(や恋愛することで何らかの評価を下される現実)に干渉する権利を持つ」と思わせてしまっているのだとすれば、そういったビジネス手法そのものが、いま、見直されるべきなのではないだろうか。疑似恋愛を主成分としないファンのアカウントですら度々「アイドルは夢を売ってるんだから恋愛は控えるべき」「恋愛するにしてもばれないようにしてほしい」という願いを目にしてきた。それをSNSで発信する(発信してもよいと考える)根拠に、アイドルはファンと疑似恋愛をするものである、という刷り込みがあり、そしてそれはファンの自発的な感情だけではなく、アイドルの様々なコンテンツから発信される異性愛至上主義的な価値観の刷り込みの結果であるように思う。

五年前、十年前、二十年前にはそういったビジネスモデルこそが”勝ち筋”だったのかもしれない。けれど、すでに私たちのアイドルへのまなざしは多様化している。ファンとアイドルという関係性のなかで決して成立しえないはずのプライベートな感情を切り売りすることに特化せずとも(ファンとタレントが恋愛関係になることがゼロとは言わないが、その場合関係が変化するときにはすでにファンとタレントの関係ではなくなっているだろう)アイドルとファンは同じ夢をみることができる。当たり前に、疑似恋愛的な側面を一切排除せよとは思わないし、私だって北斗くんのない記憶の話をすることもあるし、メロいな…と思うことも度々ある(このメロいという感覚が恋愛的かどうかはちょっと議論の余地があるが便宜上こう書いておく)。セクシュアルな魅力と恋愛が現状の表現活動において切っても切れない関係であることも承知しているし、それを”ないもの”とすることも不健全だ。けれど、それを踏まえたうえで、現状について、ファンの自浄作用に依存せず、資本主義的な価値観に傾倒せず、個人の感情に優劣をつけず、まずは商業の在り方そのものを問うことを、これから考えていきたい。アイドルってそういうもの、とそこで立ち止まらないでありたい。五年前なら無理だったことが、十年前なら議論にもならなかったようなことが、今この時代だから問題提起されるのだとしたら、私たちはこれからもきっとアイドルをあらゆる感情で愛し続けることができる。めちゃくちゃ矛盾するかもしれないけど、そのあらゆる感情のなかに疑似恋愛があることを私は全く否定しない。

私はアイドルを信じているし、アイドルのファンを信じている。ロマンチストだから、人間の善性を信じている。こんなにも夢と希望にあふれた仕事が、それを志す誰かの人権を侵害しなければ成立しないなんて思わない。私はアイドルというひとたちを愛しているから、できるだけ彼らにはたくさんの夢をみせてほしいし、私を救ってくれたように誰かを救ってほしいと願っている。そのために変わらなければならない部分があるなら、変わっていってほしいし、変われる。だって、私たちの愛情はすでに多様化している。疑似恋愛や異性愛だけが彼らの活動を支えているわけではないと私はもう知っている。多様な愛が可視化された今だからこそ、アイドルビジネスを動かしているたくさんの人たちにも、大切なタレントを守るための舵を切ってほしい。そして私自身は、ファンとして、彼らの人権が侵害されてはならないという意思を言葉にしていこうと思う。彼らの人生の外野としてできる精一杯をやっていこう。


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