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ノー・スマホ・デイズ

年始早々iPhoneを修理に出して数日間スマホなしという状況に陥った。もう20年携帯を使ってるが、数日持たずに過ごすなんて何年ぶりだろう?そんなことできるんだろうかという不安と好奇心の数日間だった。

いつも左ポケットの定位置にスマホが入っている。しかし今日は空だ。ポケットの部分がぺったんこで太ももに密着しているし軽い。それだけでソワソワする。何度もポケットに手を伸ばしてから、そういえば今日はスマホを持ってなかったと気づく。いつでもアクセスできて、まるで体の一部のようになっていたことをあらためて実感する。

一方でなにか清々しい気分にも気づく。理由がある程度わかる。スマホのスクリーンを眺めるとき、ぼくたちは必要にせまられているわけではなく、ただなんとなく見てしまうことが多い。各種SNSの通知、タイムラインやトレンドの確認、ふと頭に浮かんだ言葉の検索、ビットコインや株価の推移。別に必要はない。でもちょっとした間があるとクセで手が伸びる。下手すると期待と裏腹に政治家の失言や芸能人のスキャンダルと、それに乗っかって目立とうとする群れが目に入り、うっかり注意を奪われたりするのだが。。。スマホによって本来なら向き合っていたいことや街の風景から注意をそらされていることに気づいているのだ。だからそれができないことが清々しい。

ではそういった使い方をやめればいいのではないかと思うが、簡単ではない。というのも「見れない」のは受け入れざるをえない環境だが、「見れるけど見ない」のは我慢になる。スマホを修理に出してしまい、使うのが不可能になったことで異なる環境を体感できた。そしてどこか晴れ晴れとしていた。テレビのことを思い出す。ぼくは持っていたら見てしまうと思い10年以上テレビなしで生活している。実家に帰ったときにずっとテレビがついているとイライラするようになってしまったし、もう日常にテレビがある生活には戻れないだろう。意識だけで変えるのはむずかしいが、異なる環境にいることで人は変質する。スマホも環境であり、持っている人はスマホ的人間であることに抗えない。たとえば、わからないことはネットで調べればよいと思っていると自分の記憶に対する検索能力の必要性が下がる。

スマホを持たないという選択肢もあるが、あらゆるものが同居している性質上手放せなかったりする。電話やSNSは緊急時の連絡先として機能するし、英語のリスニングでも使っているし、高性能なカメラもキャッシュレス決済も使う。そしてインターネットを通じて膨大なデータや地図などの情報にいつもアクセスできることは自分の能力を拡張する手段としてもはや必須になっている。スマホを修理に出した数日間に味わった「非スマホ的生活」を心の中に同居させ、スマホとの距離感を自覚するヒントにして生きていくしかないのだ。

ノー・スマホ・デイズの教訓として、大きく逆に振ってみるっていうのは現状を相対化するのに有効な方法なのかもしれないな。

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