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星野源の「恋」が好きじゃない理由が4年かけて分かった

まず勘違いして欲しくないのが、星野源自体は嫌いじゃないです。音楽も演技もかなり好きな部類です。それだけでなく彼の穏やかで知的で、かつ生きることを楽しみきる姿勢を僕はとても尊敬しています。

その上ではっきりいいます。星野源の「恋」、あれはやっぱりイケすかない。気に食わない。どうしても。

僕が嫌いなのは歌詞のこの部分
「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」
ここです。初めて聞いたときは漠然と
「は? なら歌わなきゃいいじゃん」と思ったわけです。人生の無意味さをわざわざ歌にしてどうすんだ、人生に意味を見出すのがアーティストとしての意義ではないかと。もちろん星野源が「暮らし」を何よりも大切に扱う人間であることは分かってるんですが、どこかその歌詞が鼻に付くというか引っかかる部分がありました。

とまぁ星野源に対して複雑な感情を抱いたわたしでしたが、その後リリースされたアルバム「POP VIRUS」が余りにも良かったので、僕の中でその苛立ちは収まり、「恋」を聴いても普通に楽しめるのではないかとちょっと期待したんです。「改めて聴いたらスゴい良い曲じゃん」ってならないかと思って。「あらやだわたしってば何を勘違いしてたの」ってならないかと思って。

だけどダメだった。マジで無理。改めて聴いたら嫌いな要素が一つ増えてしまった。
星野源の恋は「人生謳歌している側の目線」で書かれている。そんな気がしてマジでダメになってしまった。

改めて前述の歌詞「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」を踏まえて説明しようと思うんですが、この歌詞人生辛いときには歌えなくないです?俺がメンタル絶不調時の星野源に転生したらこの歌詞絶対書けないもん。その暮らしが辛いから音楽やってんだよ!!!ってなりそう。

何がいいたいかと言うとこの「暮らし」という歌詞は圧倒的に好意的なものとして使われていて、「今の暮らしが楽しければ、意味とか考えなくてもいいんじゃない?」というメッセージに感じたのです。そしてこの歌詞は今の暮らしが辛い人の視点が完全に抜け落ちている。

これは個人的な意見ですが、今の暮らしが苦しい人って必死に意味を見いだそうとして、勉強したり努力したりするもんだと思うんですよ。そういう人たちにとってこの歌詞は、苦しい暮らしを好転させるための努力を否定するように聴こえると思うんです。私は暮らしが苦しい側の人間なので、星野源の恋の歌詞に不快感を覚えたのかなと。さらに言えば星野源がずっと人生ハッピー!的なノリで生きてきたわけでなく、長い下積みや病気を乗り越えた人で、そんな人がようやく大ブレイクを果たした曲「恋」でそんなことを歌ったことに失望したのだと4年越しにようやく分かりました。

でも嫌いになった理由が明確になって、かえってよかったかもしれません。だって、今の星野源の曲好きだし。変な葛藤を抱えたまま星野源の曲を聴かなくてよくなったのは紛れもない収穫でしょう。

とまぁつらつら書きましたが、このレビューが恋アレルギーの人に届き、この曲によって拗れた自意識の供養になれば幸いです。
それでは。

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