TOEICの勉強してたら、なぜかリズムオタクになった。/僕なりの「勉強論」

僕は去年くらいから英語の勉強を続けている。理由は単純で、仕事で英語をバリバリに使ったからだ。英語の文章を読む機会や英語で誰かと会話する機会が多かったので、自然に英語を勉強しようという気持ちになった。よく海外在住の人が「英語なんて日常で使っていれば自然に身につく」というが、あれはある意味事実なんだろうなと思う。1日10分でも必要に迫られて英語を用いる環境にいると、英語力は相当に伸びるはずだ。

僕の場合、TOEICの点数はこの1年でかなり上がった。この前は875点を取った。スタディサプリのCMに出れるくらいに点数は伸びたが、「仕事でしばかれてたらTOEICの点数アップしました!!」っていうのは広告には不向きに違いない。華々しさがなさすぎる。

で、今日の本題だが、ある程度英語ないしTOEICができるようになると、「英語って結局役に立つの?」とか「TOEICって役に立つの?」とか悪意交じりに聞かれる場面に度々出くわす。この「○○って役に立つの?」という問いは現代社会の至る所で発せられ、様々な人がその答弁をしている。そしてそれは僕も例外ではない。ただの一般人である僕も「○○って役に立つの?」という圧力を常日頃から感じている。そのたびに僕は簡潔に自分の立場を表明するのだが、なかなか十分に説明しきれず、ある程度までしか話せないことも多い。そこで今回は僕なりの「英語(ないしはTOEIC)って役に立つの?」に対する答えを書いていきたいと思う。

まず根も葉もない話だが、「英語やTOEICを勉強することでより稼げるようになる」という点がある。これは「良い大学に入って、良い会社に入れば、お金持ちになれる」というのと同レベルの話であるが、僕はこれを無視せずちゃんと説明したい。確かに「英語でコミュニケーションを取れること」や「英語の情報にアクセスできること」も英語学習の大きなメリットだが、多くの人が「受験のための英語」を勉強している事実を考えると、ちゃんと受験英語のメリットも説明すべきだよなと思っている。経済学の学問の中には「教育経済学」という学問があり、自分への投資対象として勉強を捉える学問がある。教育経済学では教育に対する費用と教育によって得られた収益からROI(投資収益率)を算出する考え方もある。したがって「よりお金を稼ぐために英語を勉強する」という見方もまぁありといえばありなのだ。

しかしである。今までの話、随分きな臭い話になってしまった。お金の話しかしてないしw

でも「役立つんですか?」って聞かれたら「金になりますよ」って答え方くらいしかできないと思ってる。なぜなら、英語を勉強する、もしくはなにかを勉強する、という行為は、本来「役立つ」の外側に存在すると感じているからだ。

そもそもの話、僕は「役立つ」という概念が嫌いだ。「役立つ」だけでない。「努力」も「成長」も「頑張る」も嫌いだ。あんなのは欺瞞に過ぎないとすら思う。

~「役立つ」・「努力」・「成長」・「頑張る」が嫌いな理由~

「○○くん、頑張ってるね。」僕がそう言われたとしよう。そのときに僕は咄嗟にこう感じてしまう。「ああこの人は僕が労力を費やしている対象を好意的にとらえているんだな」と。「頑張ってるね」という発言は「その人が対象を好意的に捉えていて、かつ社会的にその対象の意義が十分に認められている」場合にのみ発せられると感じているからだ。「○○くん、英語の勉強頑張ってるね」と言われたとき、おそらく相手は英語の勉強を好ましいものであり、かつ社会的に十分に意義があると感じているはずだ。もし相手が英語の勉強を無意味だと感じていたり、社会的に英語を学ぶ意義が薄い場合には「英語の勉強頑張ってるね」とは言われず「そんなに英語の勉強して何か役に立つの」と言われてしまうのだ。(おそれく英語よりマイナーな言語を学んでいる人は「なんの役に立つの?」と聞かれる可能性も高いはずだ)つまり「役立つ」とか「頑張る」という言葉は相手の主観的判断や社会的な立ち位置によって使い分けされる言葉であり、これらの言葉は概念として「他者からの評価」が混じっているのだ。

そして時に人は勉強をし過ぎてしまう。そしてその結果、相手もその勉強の価値が分からず、社会的意義も確立されていない領域に突っ込んでしまうことがある。そのときしばしば言われるのだ、「それ、役に立つの?」って。

だがしかし、私は思うのだ。何かについて過剰に学び、他人から薄気味悪く思われるほどに知識を得たとき、勉強の神髄というのは遺憾なく発揮されるのだと。その瞬間「役立つ」とか「努力」とか「成長」とか「頑張る」は全て何の意味も持たなくなるのだ。

勉強によって「成長」する?バカバカしい。勉強がプラスの作用しか持たない訳がない。プラスがあればマイナスが、作用があれば反作用があるように、勉強とは単一の方向に作用するものではないはずだ。あるとすれば「成長」ではなく「変化」だけだ。そして勉強によって生じる変化の何が正の作用で何が負の作用かは、結局のところ自分にも分からないのだ。無論、他人には分かりようもない。何が良くて何が悪いのか分からなくなるほどに、過剰に学ぶ。その結果、相手にも価値が分からず、社会的意義も確立されていない領域について自由に考えることが出来るのだ。


僕の場合、最初は英語/TOEICの勉強をしていた。その中で洋楽・洋画や英語のニュース、スポーツ実況を聴くうちに、英語の持つリズム感にどんどんはまっていった。その中でもヒップホップにはドハマりした。(僕とヒップホップの馴れ初めは昔書いているので是非。)

他にも英語の勉強と同時並行で楽器の練習もしていたのもあって、ヒップホップのビートと英語のラップや歌がぴったりリズムにはまったときの気持ちよさに僕は虜になった。英語分かったうえでヒップホップ聴くと、ちょーーーーー気持ちいいです。(もちろん英語分からなくてもヒップホップは気持ちいいし、英語が分からないからこその気持ちよさもあります)それからというもの音楽・文章・コミュニケーションと様々な場面で僕はリズムを重視するようになりました。リズミカルな文章、リズミカルな歌、リズミカルなコミュニケーション。日常のあらゆる場面で微弱で心地よいビートを発しながら生きていたい。そう思うまでに僕のリズムへの憧憬は深まっていきました。

最後に言いたいことがあります。「役立つ」とか「頑張る」とかを無視して勉強していると、少々気味悪くなります。その代わり、ちょーーーーー気持ち良くなります。脳みそ湧きたつほどにね。皆様も周りを気にせず、過剰な学びの世界に一歩踏み出しましょう。



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