アンナ・カヴァン『氷』を読んで

犠牲者であることを運命づけられていたと言っては言が過ぎるかもしれないが、少なくとも幼い頃の私は、暴力に怯えた力のない子供ではあった。写真を見返すと、しかしどの写真の私も、今よりもむしろ快活で屈託のない表情を浮かべている。これは何も不思議なことではない。暴力の最中に写真は撮られないというだけのことであって、抹殺された暴力の記録を思うと、私は今でも妙な感動を覚えずにはいられない。

あるいは、犠牲者の面持ちというものは、犠牲の自覚とともに生じてくるのかもしれない。幼い頃の私は犠牲者ではなかった。得体の知れない暴力に怯え、毎日救世主を夢想するだけの弱者であった。弱者が犠牲者となるのには、やはりそこに自分は犠牲者であるという自覚が芽生えることが必要なのだろう。そのようにして私は、一個の犠牲者となって呻吟する毎日を運命付けられた。そうした日々を『氷』は侵略し始めたのであった。

わたしは氷が侵略を進める世界で、熱烈に少女を求め探し回る。少女は幼い頃の母親の仕打ちによって、犠牲者たることを運命付けられている者である。わたしの前に現れる少女はわたしを拒み、姿を消し、そしてまたわたしの前に姿を現す。アルビノの少女の銀色にたなびく髪の毛は、凍てつく世界の象徴のようでもある。

この小説の特筆すべきところは、小説の大原則をいとも容易く破っているというところにある。心理学における「心の理論」というものが形成されているかどうかを測るテストとして、「サリーとアン課題」というものがある。少女Aが箱Aに人形を入れる。その後、少女Aから見えないところで、少女Bは箱Aから箱Bに人形を移す。その後戻ってきた少女Aは、どちらに人形が入っていると思うか、という課題である。少女Aは少女Bが人形を移したことは知らないのだから、箱Aに人形が入っていると思うはずである。このルールは小説においても大原則であり、一人称の小説である以上、主人公が知り得る情報は限られてくる。これを嘲笑うかのように、『氷』では、わたしが知り得ないことまで知っており、それは実際に起きたことなのである。この仕掛けがスリップストリームというものなのだろうか。

この仕掛けには、単に読者の目を眩ませる以上の小説上の効果が生まれているのも確かである。わたしは激しく、執念的に少女を追跡していくのだが、その執念があだかも生き霊のように、少女にまとわりつき追っていくような印象をもたらしている。と同時に、しばしばわたしが見る少女の幻影と現実の少女の境が曖昧になり、夢と現実の境が溶けていくような印象も受ける。一人称小説のルールが破られることで、小説は未知の領域へと侵入していく。

この仕掛けについて触れたのは半ば義務感からのことではあった。これほど大きな特徴を読み逃していると思われるのは心外だからである。私としてはそれよりも、氷とは何か、少女とは何かについて考えることが、この小説を真摯に読むことにつながるのではないかと思う。

急速な氷河期が訪れたかのように氷は各国を凍らせていき、その中で各国は手を取り合うこともできず終末へと向かっていく。危機的な状況下においても人間は手を取ることができないというのが、妙に生々しく感じられる。わたしは長官とともに乗り込んだ飛行機から、そりたつ氷の壁が海を越えて侵略してくるのを見、もはや誰にも生き延びる道は残されていないことを悟る。

少女に拒絶されたわたしであったが、わたしはやはり最後に少女に会いたいという衝動を抑えきれず、少女の下へ命懸けの旅をする。そこで少女は、衝撃的な言葉を告げる。あれほどわたしのことを拒絶しておきながら、少女はずっとわたしのことを待っていたというのだ。氷が世界を覆い尽くすまでの束の間、二人は車であてもなく雪の中を突き進んでいく。

ここで、氷とは少女であると考えると、この奇妙な小説の正体に一歩近づけはしないだろうか。

痛めつけられたことのある者にはわかる感覚というものがある。果てしなく世界全体が自分を痛めつける存在となって、自己を侵略してくるのである。世界が怖い。世界が恐ろしい。この感覚は人から意志を奪い去って、日々襲い掛かる恐怖の奴隷とする。

私は父親が恐ろしかった。私はいつまで経っても幼い犠牲者であった。幼い頃の苦しい思いは、ようやく大人になってから息を吹き返し、私の生活を苦渋に満ちたものに変えてしまった。私が怯えているのはもはや父親に対してではなかった。私は世界を恐れていた。

少女の中の犠牲者であるという自覚、それは際限なく膨らんでいき、世界を氷漬けにするまでに至った。少女自身の再現のない犠牲者であるという意識が少女と共に少女の生きる世界全体を痛めつけるのである。少女は時に自らを苦しめる選択をする。少女は自ら少女自身を痛めつける世界となっているのである。この点で、氷とは少女だと言うことができる。

このように考えると、この小説は、犠牲者であった少女が、正しく自分が犠牲者であることを受容するまでの物語であるととらえることができる。少女は最後の瞬間に至るまで、自分を救おうとしているわたしを許容することができない。わたしはもちろん優しいだけの救世主ではない。時には少女を打擲する苛烈な救世主である。しかし、世界は自ずから険しいものであることを受容することで、決して優しいだけではない救いの手を受け入れることができるのである。

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