現代詩のために

一見奇抜で、斬新、時代を反映しようとする試みに失敗し、既存の詩に対する感受性を失ってしまった読者の萎びた感受性を再び呼び覚ますために書かれた詩、それが現代詩である。

そもそも新しい詩というのは新しい方法論でしかありえない。新しいことそれ自体に意味を見出すのは、人間の悪癖である忌むべき進歩主義の成れの果てであって、仮に芸術としての極地があるとして、そこに近づくための無数にある方法論を一つ明らかにしてみたところで、それに特段価値がないのは明白である。にも関わらず何か進歩主義的な考え方が太古から文壇をはじめとした芸術界を覆っていて、ただ新しいだけで良いことのように受け取られ評価される。この詩は素晴らしい。なぜなら新しいからだ。

詩の評価軸があるとするならば、それは一つしかないはずだ。いかに文学に近づいたかどうか、ただそれだけが目指すべき地所だ。ところで、新しいことは文学に近づいたかどうかに、何か関わりがあるだろうか。

そうは言っても、現代詩の奇抜さ、斬新さには抗い難い。目を見張るようなテクニック、今までにない表現方法。そもそも表現という表現が適当かすら怪しくなってくるものすらある。なぜなら、その作品はもはや何物かを表現しようとしていないからだ。詩が言葉そのものになろうとする瞬間を見ているようで、現代詩は刺激的である。

また、エミール・ゾラは言った。
“明らかなことは、それぞれの社会にはその独自の詩があるということだ。ところでわれわれの社会は一八三〇年のそれではないし、われわれの社会にはまだ詩がないので、この詩を見つけた者こそは、まさしく有名になるだろう”

時代が移ろっていく以上、詩もまたその形を変えていくのは当然であるのかもしれない。ただし、新しい詩を見つけたものは有名になるとは言うが、新しい詩が優れた詩であるかどうかはまた別の話ではある。そして、短歌ブームと昨今言われているのに対して、はたして詩はどうだろうか。現代詩がますます先鋭化していくのに反して、世間の関心も薄れていくようである。これでは現代詩が現代を反映しているとも言い難い。

さらに現代詩への中傷を続けると、現代詩などは素晴らしい数々の過去の詩に対する感受性を失ってしまった読者の萎びた感受性を再び呼び覚ますために書かれているのにすぎないのである。新しいものを求めるのは人間の病である。(そして人間は地球の疱瘡である。)

私は主張したい、多くの詩を読むのは恥ずべきことだと。なぜ人は素晴らしいただ一つの詩を胸に死んでいくことができないのか。食い散らかすように次から次へと新しい詩に目移りするのは恥ずべきことだ。

そして、既存の詩への感動をもはや呼び起こせなくなってしまった哀れな罪人たちへ用意されているのが現代詩だ。現代詩は先に述べた通り、麻薬のような刺激を麻痺した感受性へと注入し、奇抜さで度肝を抜いてくれる。私は現代詩を読むと、そうまでしないと感動できなくなってしまった現代人への憐れを感じずにはいられないのである。

呻きが言葉となり、ため息が詩となるのは一体いつの日になるのだろうか。それまでに人間は、崩れそうな塔を積み上げるように詩を進歩させていき、ますます先端は尖っていくだろう。私は尖り切った塔の尖端で詩の完成を宣言したい、鬱病の猿がついたかのような溜め息で以て。

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