走錨

 夏めいた白い雲が、空の高いところに湧き、風が強いのだろう、千切れては帆船のように蒼穹をかき分けて進んでいった。雲の後ろから飛行機雲が現れると、しばらく雲を背にして直線上の軌跡を描き、再び雲の向こうへ消えた。雲が帆船ならば、あの飛行機は、さしずめ波間を駆ける飛魚といったところか。千切れて薄くなった白雲の奥で、飛行機雲だけが、青空に去来した動乱の名残をとどめている。平穏そのものといった光景ではあったが、どこへ行くでもなく漠とした青へ進水しゆく白雲をながめていると、幾分静心ない心持ちに襲われた。

 頭上高く船を戴いて、ここは海の底に相違なかった。さめざめと透きとおった、しかし万物に粘りついて地上に飽和するエーテルは、気管支から肺胞へと侵食し、身内から酸素を奪ってゆく。形あるものはすべて、俺の四囲で揺らめいていた。クラスメートの姿、声、おぼろにふるえる交感信号が、水面の光を反射して、ぷかりぷかりと明滅している。俺の脳裡に、まだ両親と生活していたころに訪れた水族館の思い出が、燦然と蘇った。次々と俺の前に現れる水槽群のなかで、所在なさげに、貧弱な海藻が揺れていた。覗き込む俺の目に、いつまでも変わらない濁った魚の目が続き、水槽は蜿蜿と伸びていった。水中では涙は流れないだろう。息苦しい気持ちが身体中を浸潤し、俺は、同級生たちの目をはばかりながら、自らの手を首元へ伸ばした。

 ざわめきながら回遊するクラスメートたちの間をすり抜けて教室を出ると、廊下は人まばらで、視界がにわかに静まりかえった。薄汚れた廊下のタイルが、夏の隙間のような冷たさだった。扉を一枚隔てた教室が、奇妙に遠く感じられる。と、またも俺の脳内で、幼時の物象が、何か訴えかけるらしかった——俺は感傷的になりすぎているのかもしれない。果てしない水槽群の奥から俺を見下ろしながら、俺の目ではない何か漠然としたものを見つつ、在りし日の母は、レプトケファルス、と囁いた。レプトケファルスを見ただけで成魚の種類を判別するのは非常にむつかしく、成長してから種が判明することもあるのだという。レプトケファルスどうしも、相手と自分を隔てる決定的なものを言表することができないために、反対方向へ泳ぎ去ることもできず、透明なからだに深い海を透かして、隣を游ぎ続けるといったことが、ないともいえない。透明な、正直なからだを、何か弱点でも隠すみたいに覆い隠しながら、扉の向こう、教室では、不実な肉体が、エーテルのなかをもがいている。四角いガラス窓のついた扉から覗く教室は、いかにも窮屈で、水槽のようにも思われた。

 生物室は午後の微睡みのなかにあった。微細な塵芥の効果で光線は曖昧に散乱し、生物どもは安息の時刻であった。そこここのプラスチックケースから浸透する重苦しい生命の気配に、俺はいたたまれない気がした。窓際には、後ろめたいような明るさのなか、グリーンイグアナとクワガタのケースが並んでいる。グッピーやら、フナやらのケースは、窓下から斜めに広がる影に入るように置かれている。教室後方のガラス戸棚にあるカモの標本と、ホルマリン漬けのヘビとカエルの剥製からは、いつも視線を感じて知らず知らずのうちに背がこわばるのだった。暗く埃に塗れたそれら沈黙した死体を暫時眺めると、俺は詰めていた息を吐き出して、グッピーの水槽の前にしゃがみ込んだ。

 餌を落してやると、ぴくぴくとからだをしならせて、グッピーが餌に群がった。薄暗がりのなかで、魚たちの鱗が、ちらちらと密やかな光に跳ねた。背骨が大きく湾曲した個体が、不器用に餌をつついている。俺はぼんやりと、新しい血を加えなければならないと考えていた。この閉塞したプールにざわめきを起こす新たな遺伝子を、早晩加えてやらねばならなかった。奇形の個体を取り除き、どこかから新しいグッピーを連れてくる、それだけのことが、どうにも億劫で手をつけられなかった。このごろ俺は何も見ることができなかったし、何も始められなかった。未来に何の希望も持てないどころか、久しく未来は尽きせぬ苦痛の源泉であった。俺はもやがかかった思考の表層で、わずかに、埃が浮かび上がらせる光の筋と、くぐもったエアーレーションの響きを感覚していた。

 横の流し台の蛇口をひねると、ごうと音がして、思わせぶりの時間の後、生温い水の感触が手のひらに広がった。俺は、ごろごろと排水溝へ下る水の流れに吸い込まれながら、依然としてそこにある息苦しさをはっきりと意識した。ただ幻惑する光の粒の奥にある、微細な塵芥の一粒を見きわめようとでもするかのように、目の前の光路を凝視する。俺には、その塵の来方がわかる気がした。未来から背けた俺の目は、過去へ過去へと逃れ去り、ともかくも今日という日は、海砂に沈む事物が海流に洗われて再び姿を見せるように、エーテルに溺れた俺の思い出を、再び時の流れに洗わせようと、引いては寄せる波の律動で、繰り返すらしかった。

 例えばそれは、四ヶ月ほど前のことだ。春、祝福された生誕の季節、ひやりと清澄な朝の空気を室内に呼び込みながら、俺は、生物室を整理していた。父——生物教師だった——が、生徒の水槽を置かせることになったから、場所をつくるようにと俺に言いつけたのだった。なかば腐ったカブトムシ用ゼリー、黄色く変色しひび割れたプラスチックケース、干からびた水草等を、ビニール袋に放り込み、水槽を一つ置くのに十分な空間を確保する。使用中のケースの間には、所狭しと雑多な品々が溢れかえっていた。俺はそれらも一緒に無造作にビニール袋に突っ込んだ。

 窓枠に手をかけると、校庭の向こう側に伸びるユキヤナギの花房の可憐な白さ、つややかな椿の赤が、目を射った。草花は光を食み、眩しいほどの生命の輝きだった。体育館の下に放置されたパイプ椅子は、春の光を浴びて輝かしくなり、誇りかな春風が押し寄せるなかで、美しい季節を祝福しているかのようであった。俺には、その無人の椅子の上に、何か喜ばしいもの、理想的なものがくつろいでいるように思われて、焦がれるような目で見つめた。その、何か希望のようなものに圧倒されながらも、そのなかには、確かに真実の一片ひとひらがあるに違いなかった。それだけに俺は、目を背けざるを得なかったのだ。

 件の水槽を持った人物は間も無く現れた。ひょろりとした長身と不幸そうな気配が目に付く男子生徒だった。水槽を運ぶのに苦労した跡が、よれよれのワイシャツのあちこちに見て取れる。みすぼらしく濡れたその服は、同情と軽蔑を誘った。青白い顔に張りついたおもねるような卑屈な笑みと、対照的に物怖じしない無遠慮なまなざしを捉えた俺は、この男を校内で見かけたことがあるのを思い出した。

 雑然とした窓下にぽっかりと開いた空間を見つけたらしく、ありがとう、と言って、そいつは静かに水槽を置いた。

「部屋に猫が入り込むようになって困ってたんだ」

 言い訳がましい台詞に、俺は瞬間毛が逆立つような感覚を覚えた。

 頷いて水槽に目をやると、水槽のなかで、水草と、半ばそれに埋もれながら、鮮やかな朱色の塊が見え隠れした。よく見ると、四、五匹のイモリが泳いでいる。朱色というのはイモリの腹部の色だった。鉄錆色のイモリがガラス壁に突き当たって旋回すると、毒毒しい朱色が翻った。

「生物部が面倒を見るわけじゃないから、別にお礼はいらない。餌を冷やしておく必要があるなら、生物準備室の冷蔵庫を使っていい」

 俺は教室の前方にあるドアを指さした。ドアに嵌めこまれたガラスには黒い布がかけられ、隣室の内部はわからない。

「よかった、こいつらはアカハライモリっていうんだけど、餌にレバーをあげてるから」

 尋ねてもいないのに説明しながら水草の位置をいじり、蓋が閉まっていることを慎重に確認するらしかった。男は春川千草と名乗って、ぎょろぎょろと室内を見回しながら出て行った。俺には、好き好んで生き物の世話をする心境が理解しがたく、丁寧に水槽を取り扱う様子が、どことなく胡乱なものに思われた。

 教室を後にする背中を見ると、校内で見かけた春川の姿が思い出される。それは、うずくまる春川の背中だった。歩き去る二人の男子生徒の後ろで、枝のような、それでいて妙に生々しい存在感を持った腕が、廊下に散らばったノートや教科書やらを拾い集めている。ひどくこわばった背中は、奇形のグッピーを思わせた。与えられた苦悩をぞんざいに許してしまうように、また、なにか痛みを忍んでいるようにも見えた。その背中にぞっとして思わず一冊のノートを拾い上げ、春川の顔に突きつけると、何を勘違いしたのか、春川はぎょろりとした目をいっそう大きく見開いて、それこそ馬鹿な畜生のように、熱っぽくお礼を言った。それは一時の衝動による偽善を後悔させるのに十分だった。日に焼けて茶色くなったあいつの髪が細いうなじに張りついているのを見て、俺は、心底気持ちが悪いと思った。

 放課後になると、俺は再び生物室に向かう。当番制の仕事には放課後の時間で十分すぎるのに、俺は、昼休みまでよけいに生物室に入り浸っているのだった。放課後の生物室にも、訪れる人はまれだった。二人の女子がやってくると、研究用のメダカに餌をやって帰っていった。無言のまま、軽い会釈が交わされる。教室は終始静まり返っていた。黙々とケースの清掃と餌やりを終わらせてゆくあいだに、少しずつ夏の午後の日は衰弱してゆき、ため息のような空気が、室内に堆積していった。

 気怠い空気を割いて、めずらしく顧問が姿を見せた。教卓の上をあさり、何か探しているらしい様子だった。いたたまれないような気がして、野菜を刻む自分のぎこちない手元に意識を集中させる。人参を切りながら、俺は時折自分自身の橈骨を切っている。アニサキスのような線虫が、断面から這い出し蠢いた。見極めようと目を細めると、その度に人参であったり橈骨であったりするのだった。ごりごりと、堅い感触を感じながら、力を込めて押し切る。横でチョークが砕ける音が響いた。手元から、野菜がごろりと転がった。教卓の方へ目を向けると、机上に放置されていたチョークを落としたらしい顧問と目があった。顧問は、不機嫌そうに顔を歪めた、

「お前はいちいち癇に障るな」

 低く呟くと、父は、数枚の書類を手にして扉のほうに身体を向けた。俺は立ちすくんだまま、誰にともなく、しかし父を意識しながら呟いた、俺は、……

「俺は……生物部に入りたくなかった……」

 何と続ければ良いのか、わからなかった。父は、物音に反応したという様子で教室に振り向いたが、何も言わずに出て行った。

 扉の閉まる音が聞こえると、俺は教卓の下にかがみ込んで、砕けたチョークの破片を拾い集めた。乾いたチョークの白い粉が指に付着し、息を吹きかけても、ティッシュペーパーで拭っても取れなかった。砂場で遊んだ幼い日の情景が蘇りかけたが、あの頃への帰路はどこにも見出せなかった。いっさいは変転し、自己の同一性を認めるならば、自分と、誰であれ誰かとの同一性をも、認めなければならないはずだった。流動するいっさいのなかにあって、しかし、苦しみの感覚が、厭わしくも俺を俺自身に引き戻すのだった。

 教室には再び沈黙が降りた。俯いた顔を持ち上げると、窓辺に置かれた瓶が目に映る。瓶には後ろの窓から光線が差し込み、奇妙に暗い水草だらけの水中を、機械仕掛けのメダカたちは、飽きもせずに行きつ戻りつを繰り返している。俺はまた息苦しくなっている自分を感じた。
 春川が静かに生物室に入って来た。俺が亀の水槽に餌を落とすかたわら、冷蔵庫からレバーを取り出し、まな板の上で叩きはじめる。ぼんやりとした表情を貼り付けていたグリーンイグアナは、その神経質な音をいささか不快に思っているようすだった。今は春川の顔など見たくもなかったから、急いで残りの仕事を片付けにかかる。春川は、三つある蛇口の真ん中を占領してイモリの水槽の水換えを行っていた。その隣に立って、手の中でもがくカメを押さえつけ、手早くスポンジで甲羅をこする。カメは、甲羅に引っ込んだり頭を出したりして、鈍重な抵抗を試みていた。俺は、顔をしかめながら、生臭くぬるつく生き物を、それでも丁寧に洗った。

 ようやくカメを水槽に戻してやると、とうに水換えを終えていた春川は、イモリの水槽の前に座り込み、真剣な眼差しでイモリを観察していた、ミイラのような骨ばった指で、イモリの朱い腹を、ガラス越しになぞりながら。春川の手は両生類のような湿り気を帯びていて、俺は、お似合いじゃないか、と考えていたが、透いて見える静脈の青い筋を見つけると、何か罪悪感に駆られて、俺はそっと目を逸らした。今にもイモリに向かって話しかけかねない様子を見ていると、得体の知れない苛立ちが心中に広がるのを感じ、ぞんざいに鞄をつかんだ。

「僕も帰るよ」後ろから春川が言った。

 良いとも悪いとも言わずに立ち止まると、もう帰る準備ができていたらしい春川は、リュックサックをつかんで立ち上がった。ちらりと顔を見ると、案の定気味の悪い笑みを浮かべている。春川の媚びるような作り笑いから漂ういかにも不幸といった感のために、春以来時折訪れるこうした出来事を、俺は全然好もしく思っていなかった。

 晩夏の太陽も盛りを過ぎて、校門の影は校舎に向かって斜交いに伸びていた。桜の葉は深い緑に染まり切り、さざ波を立てて、過ぎ去った風の思い出をしばしとどめるらしかった。数枚の葉が小枝からはがれ、中空に舞い上がる。かつての住処を忘れて、茫漠とした空へ吸い込まれていく。銘々の一日を終えた生徒たちは、放流された稚魚のように、盲滅法に、千々に道に散って行った。

 俺と春川は、人を避けるように川沿いの道を進むと、川の水面を視界から追いやって、狭い小路こみちに入った。屋根が空を狭めてにわかに薄暗く、土と木造建築の湿った匂いがした。気温が数度ばかり下がるのがわかった。黙って歩く春川の細く生白い腕が、仄暗い周囲の中でかすかに発光している。春川は自分から一緒に帰ろうと言うものの、学校を出ると口を開こうとはしなかったが、そのくせ何か話したいような、そわそわした態度を見せるのが腹立たしかった。俺は春川の様子に気づいていないように努めて振る舞っていた。

 とはいえ、これは一寸儀式めいた時間であるのは確かだった。いつも同じ言葉から始まる沈黙、響くのは川のせせらぎ、ついで、かごとがましい蝉の声。それは次第に車の騒音へと移り変わってゆく。

 けたたましい音を立てて、通りを車が往来していた。そこで俺は春川と別れ、それぞれの家路に入る。あいつはいつも、ぎょろりとした気味の悪い目で別れ際に俺を見下ろすのだが、俺はそのときだけ、深く息がつけるような気がするのだった。春川の目は不気味で、どこまでも深く暗い、深海のようだ、と俺は思っている。隠しているものを暴きながら、それでいて黙認するような、見るものを慄然とさせる眼差しだと思う。

 ぎくしゃくと統率の取れていない歩き方で、春川は帰ってゆく。あいつの向かう先は児童養護施設だった。大型トラックが轟音をあげて視界を遮り、その振動が消えると、もうそこに春川の影は残っていない。レプトケファルス。呟いて、俺も家路につく。


 夏の学校は音楽、とりわけ能か歌舞伎かの音楽に似ているように思われる。というのも、教師の声は最後列の席に届く前に床に吸い込まれてしまうので、五感が知らしめるところの外界の変遷に身体を浸すことになるからだ。朝の変化は穏やかなものだ、ゆっくりとクラスメートの眠気が空気へ浸透するので、空気は麻酔を打たれたように曖昧になってしまう。昼頃になると変温動物どもはにわかに活気づくと見えて、わけのわからないオイラー線の話はさておいて、潮の干満のようにささやきや忍び笑いを繰り返している。そして午後、活気が頂点に達すると、今度は一転、しきりに舟を漕ぎ始める。序破急。かくして一日は終了する。

 そのころになるともう息が詰まって、耐えがたいような気持をこらえつつ、俺は水飲場へ向かう。喉のつまりを洗い流してしまいたかった。陸に上げられた魚を思いながらリノリウムの床を踏みしめて行くと、水飲場は、少し奥まった薄暗い廊下の突当りでひそやかな様子だった。何か特別な理由がなければ、不便なこの場所まで足を伸ばす人はいなかったし、俺の場合はそれ自体が理由だった。水垢でくすんだ蛇口は、静けさに調和するひやりとした冷たさで、ゆっくりとひねると、生き物のようにうごめく水がしだらないアーチを描き、乾いたステンレスの上に広がっていく。埃っぽい空気の中で、水だけが窓からの光を反射してきらめいていた。動物めいた水を口に含むと、生ぬるく鉄くさい味が口蓋に張り付くのを感じる。ためらいながら呑み込んでみても、息苦しさは消えてはくれないらしかった。酸素を肺にかき集めるように深く息を吸って、カーンとさえかかった空を窓越しに見やった。……

 頭上で雲が流れてゆく。遠く空気をふるわしてチャイムの音が伝わる。

 帰り道では口を開こうとしない春川は、かと言って、生物室で何か有機的なことを話しはじめるわけでもなかった。俺が返事をしなければ独り言としても通じるような、十分に保身が施された一言を——というのは俺の僻目で、気の向くままに思いをこぼしているだけなのかもしれないが——漏らすのだった。

 生物室に入ると、誰かが蓋を閉め忘れていたようで、水槽のわきでグッピーが死んでいた。跳躍して、水槽の外へ飛び出してしまったのだ。俺は生物部の当番表を思い出しながら割箸を捜していた。すると、横で春川が例のごとき口調でつぶやいた、

「私たちは二度生まれる……」

 俺は不思議にはっとして春川の方を向いた。春川はアカハライモリの水槽の上にうなだれて、何かをこらえるように喉を動かした。静かな、穏やかな口調ではあったが、何か痛みを忍んでいるようにも見えた。それが何なのか俺には漠然とわかるような気がする、それは、人間として生まれ直す痛みだった。

 俺は一言、エミール、と呟き、がらくたの山から割箸を探り当てると、グッピーの死骸をつまんだ。力なく身をゆだねるそのグッピーが、奇形の個体であったことに気づく。春川は少し面食らったように、わずかにかすれた声で、そうだ、エミールだった、と微笑した。俺は見たくなかったものを見たように思って、思わず顔を背けた。

 もしも、と俺は考える、もしも春川だったら、俺の父親のことを許すだろうか、あのとき、故意に春川にぶつかって、笑いながら去って行った二人を、その背中で、腕で、許してしまったように。許すことと諦めることは同じだろうか。そうだとしても、俺は、すべてを諦めてしまいたいのに、許されたいとは思わないのだ。俺を許さないでほしい、でも軽蔑しないでくれ。春川にだけは軽蔑されたくない、あんな奴に軽蔑されてたまるものか、見るからに愚鈍な、軟弱そうな、そのくせ己を恥じるようなそぶりも見せないあんな奴に……。

 春川はぐったりした蒼銀色の輝きを見下ろし、きれいだね、と言った。何も言わずに頷くと、俺は努めて無感情に死骸をゴミ箱に落とした。もう一度春川の顔を見たときには、いつもと変わらぬ薄ら寒い笑みをそこに発見し、俺はかえって安堵するような気がした。春川は、光輝く蒼穹をぼんやり眺めながら、何か物思いにふけっているらしい様子だった。


 夏は終りゆきつつあった。生物室から見える風景は徐々に光を失って干からびてゆく。うるさかった蝉の鳴き声が聞かれなくなった。落日を追って秋の虫が鳴き始め、暮れ方のあわいに、何かさむざむしい感じを加えた。ふとすると吹き寄せる風が死人のような冷たさだった。俺は絶望した。こうしてうんざりするような年月を、自己に耐えるということ——生き長らえるということ。重い液体が景色を満たしていて、羽をとられた一羽の鳥が、翼をもつれさせながら、らせんを描いて落下すると、水を張ったプールに着水した。力なく水面に浮かび、その場で上下するかもめを、プールサイドにめぐらされた鉄条網の向こうにながめる。ニーナは死ななかった。いずれにせよいっさいは、何を意味してきたというのか? しかし、否応なしに、静かに死んでゆく風景の中にあって、滑稽ですらある要請が、俺の内部で膨張するのだった。俺はどうやら苦しかった。

 無人の生物室で、俺は、グリーンイグアナにやる野菜を刻んだ。どれも萎れ、干からびかけていた。俺は何もしたくなかった。まとわりつくエーテルが、胸の苦しさが、うっとうしくて仕方がなかった。不格好に切り刻まれた人参やかぼちゃ、手が滑り刻まれたまな板のえぐれを目にして、俺は、まだ指を切らずにいることが不思議にも、腹立たしくも思えた。指を切らないように注意しながら絶望しなければならないむなしさに俺は惑った。いくら疎ましく思おうが、最後まで、使い潰さないように気を配りながら、餌を与え、身体を洗ってやる……

 切りすぎた野菜を戻そうと、俺は生物準備室の冷蔵庫を開いた。そのとき、隣の生物室の扉が開かれる音を聞いた。春川だろうか。春川ではなかった、先生、と呼ぶ声が聞こえた。生物室へ続くドアを閉めきらなかったために、生徒が窓際に近づいたところで、その姿がドアの細い隙間から見えた。加藤だ、と俺は思う、春川に初めて会ったときに、廊下で見た二人のうちの一人だった。ドアから顔を出すと、俺は、顧問はいないよ、と言った。誰もいないと思っていたのだろう、加藤は少し動揺した様子だったが、すぐさまにこやかな態度で、どうも、と言葉を返した。勝手に見ていたから悪いことをしたとでも思ったのかもしれない。

 準備室の方に戻り、俺は冷蔵庫に野菜を戻した。再び生物室に行くと、加藤はすでにいなくなっていた。加藤がいたところに何となく目をやると、イモリの水槽のエアーレーションが切れていることに気づき、俺はスイッチを入れ直す、春川がまた入れ忘れたのだろうと思って。

 沈んでいるところで変に平静を装って加藤に話しかけたりしたものだから、俺は妙な気分だった。どこかちぐはぐで、的外れな気がした。平静を偽ることができたせいで、先の憂愁の海まで、虚構めいたものに変わってしまった。俺はイモリの水槽の前にしゃがみ込んだ。エアーレーションの音響をいつまでも聴いていたい。だんだんと失われていく光とともに、俺の存在も曖昧糢糊としたものになって、初めから自分が存在しなかったことになればいいと願った。

 生物室を出ると、窓から学校の中庭と下階が見える。一日中校舎の影に入るために、中庭は陰鬱な感じがした。心の臓を冷やすような風が吹き過ぎ、ツツジの植え込みから、茶色くしわがれた花弁が飛ばされて行った。一階の渡り廊下が目に入った俺は、そこに加藤と父の姿を見出した。平穏に会話が交わされているらしい様子を見ていると、俺は隠微な不安を覚えた、父は、俺について話しやしないだろうか。得体のしれない虚脱感が、使い古された感傷を伴って、俺の一日の軌跡を汚損した。

 重苦しい肉体を引きずり家路を行くと、交差点を過ぎたところで、今もやっているのか、それともとうの昔に廃業したのか定かでない、朽ちかけた写真館がある。黄土色のしっくいに、野ぶどうのつたがからんでいる。緑がかった野ぶどうの実が、玉ぎょくのように年古りた建築の棺を飾った。薄日の中で不鮮明な建物は、いつもより正直な佇まいに見えた。正面玄関横のショーケースに飾られた晴れがましい写真のなかで、振り袖を着た妙齢の女性が、嫣然とほほえんでいる。もう会うことはないであろう母の面影が、夕闇に紛れ、写真の上に漂っていた。近くで鈴虫が鳴き始めた。我に返って歩みを再開すると、遠ざかってから、再び鈴虫の声が響いた。

 俺は歩きながら、玄関から一瞬覗いた写真館の内部を思い出す、埃っぽい写真館の玄関では、一台の古さびた自転車が、ステンドグラスから差し込む光線で、おぼろに照らされていた。銀色の車体は、光を受けると、輝きもせずに、ほのかに明るむのだった。もうこれで十分だと思った。

 家に帰ってくるなり、父は機嫌が悪かった。大方学校で何か問題があったのだろうが、俺は身体が緊張するのを感じた。夕食が済んで叔母が帰宅すると、早速父は口を開いた、始まりは、俺の進路のことだった。父親は、大学進学にかかる費用のことやら、今までに俺にかけた養育費だのについて、重々しく宣告する。誰のおかげで生活できているのかと。ありがとうございます、すみません、という意味の言葉が繰り返される。ありがとうと言うたびに、俺は無性に春川の目が見たくなった。

「慎司は何もできないな」

 父は笑いながら言う。

「勉強ばかりできたところで、お前が社会で何の役に立つんだ」

 俺はもう何も言わなかった。

 自室に退避してから、昂った気持ちを抑えることができないのを感じた。部屋の窓からは、歩道橋に設置された案内標識が見える。××まで十二キロメートル。オレンジ色の道路照明に照らし出されたその文字に、心は千々に乱れた。どこでもよかった、ここでなければ。心さまよい我が身の重さ。俺の身体はベッドに沈み込んだ。

 身動きできずにうずくまりながら、水中に突き落されたようだった。知らず間に手で口を覆い、朦朧としながら、止まることのない感情の奔流のなすがままとなっていた。渾然とした情動が辺りを渦巻く。俺は脳内に、どうして、という声を聞いた。どうして私を置いて行くの? どうして止めてくれなかったの? あんなにあなたを慈しんだ私なのに。全身に燃え盛る情動とは、走り出さない車両のそれだった、今にも弾けそうな、薄汚い、言い訳めいた欲望に他ならなかった。何処かへ、ここではない、何処かへ……? 俺は目をきつく閉じて思う、どうして、俺はここにうずくまっているのか。一体、俺は何を感じているのだろうか。それは、どうして……

 包丁を振りかざしながら、母と俺のいる居間へ、父が入ってきた。俺たちは凍りついた。父が立ち止まったところで、俺は一目散に、玄関目掛けて逃げ出した。あの瞬間母が何と言っていたのかが、どうしても思い出せなかった、もう会うこともないであろう母の、最後に発した言葉を。

 俺が成長するにしたがって、父は暴力を振るわなくなっていった。今でも俺は父を許さない。母は俺を許さないだろう。あの日、各人は各人を——母は俺を諦めた。

 欠席した一ノ瀬に代わって、俺は翌日も生物室を訪った。春川が先に来て、入り口に背を向けて椅子に座っていた。俺は春川の様子に変わったところを感じたように思って、面食らった。その背中に判然と現れているのは、許容などではなかった、それは、いわばいっさいへの諦めだった。俺は、今まで春川の何を見ていたのだろうと思った、端から許してなぞいなかったのではなかったか。春川は向こうを見ているはずなのに、俺には、春川の表情がはっきりと目に浮かんだ。春川の顔から下卑た笑みが溶けるようにして消えた。辺りに溶け出したのだった。作り物の笑みはゆっくりと空気中に拡散していき、俺の爪先から肢体へ這い上がると、俺の肺に侵入した。息ができなくなった俺は、全身に突き刺すような痛みと眩暈を感じた。視界が白黒の点描画と化して、心臓の鼓動とともに点滅する。机の上、薄く広げられたティッシュペーパーに横たわる、四匹のイモリの死骸が目に映った。干からびたその体を、柔らかい褥が愛撫している。不意に、閃光のように、遠い日の失われた歌声が、あの瞳に映り込んだ雪灯りが、フットライトのくるめきが——十七年が閲する。食卓に生けられたカーネーションの、薄暗い部屋で赫赫と燃え盛り、萎れ、腐敗して、死んでいったさま。夜陰の底に浮び上る百日紅の白い、幽霊のごとき木肌。あの額に去来する、ディフェンシブな拒絶の翳り、脅かされたまなざし。そして、惑乱する僕の心、今、生れ出づる、月足らずの、僕の身体。

 春川が振り返った。そこには、俺の想像に反して、安堵したような表情があった。春川は水槽を指さした、

「見て、一匹しか残らなかった、みんな蓋の隙間から逃げちゃったんだ」

 春川は水槽を机の上に持ち上げた。水草の隙間から、不気味な光線が差し込む。大きく波打つ水の動きに、最後の一匹が弄ばれていた。この一見穏やかな夏に息を潜め沈んでいた無慈悲な予感が、春川を取り巻き飲み込んでいた。

 沈黙を破って教室の扉を開いたのは、加藤だった。口を開きかけた加藤の目が、机上に乗ったイモリに吸い寄せられる。俺はとっさに、前日の出来事を思い返した。俺がエアーレーションのスイッチを入れ直したとき、水槽の蓋はどうなっていただろうか。いつも神経質に蓋の締まり具合を確認していた、春川の様子が蘇った。

 一瞬、加藤と視線がぶつかった。加藤の鋭い視線が、俺が口を開くのを制しているように思われた。俺は言うべき言葉を探して、脳内がまっさらになった、出てきた言葉はこうだった、

「先生は今日もいないよ」

 みじめだった。昨日と同じように、加藤は、どうも、と言って、廊下に取って返した。加藤の、か黒い光を帯びた瞳が、俺には恐ろしかった。俺が何者なのかを、すでに父に知らされている気がして恐ろしかったのだ。

 教室を出しなに、加藤は言った、

「いつも死んだような顔しやがって」

 その言葉に込められたあまりの憎悪に、ガラス棚のホルマリン漬けのカエルまで、一瞬ガタリと音を立てた。

「君には殺すこともできないだろうさ」

 加藤は何も言葉を返さずに出ていった。

 どれほど経ってからだろうか、俺は惨めにその場から逃げ出した。足はもつれ、身体は震えていた。一階まで降りたところで、口を塞いでいた手から嗚咽が溢れ出した。俺は偽善者にすらなれなかった。母を裏切った俺は、漠然と、再び危機に晒されたときには、自分を破滅させる方を好むだろうと、思っていたのだ……

 河原の干からびた草や粘りつく暑気が、俺の歩みを妨げていた。水音がノイズと化して辺りに充満している。父が母を襲ったあの日の記憶はぼんやりと霞みがかっているが、今ならわかる、失われた草木の恨み歌や悪意を持った大気が、父と母、そして俺を、深く暗く冷たい底まで、引きずり込もうと取り巻いていた。

 どうして、どうして、という声が聞こえる。「ねえ、どうして……」

 俺は禍々しい大気のあまりの重さに、頭を抱えてしゃがみこんだ。水音は今や羽音のようにわんわんと辺りに木霊し、油膜のように光る足元の川はもちろん、吸い込まれそうな、果てしなく続く青空からも、容赦なく湧き出していた。俺は空の底で溺れていた。

「前田、大丈夫か」

 春川の声がして、肩が揺すられた。

 はっとして立ち上がると、不気味な騒音は再び川へ吸い込まれてゆき、漸く元の川のせせらぎが戻った。雲一つなかった空に目を凝らすと、薄い綿埃のような雲が伸びている。

「頭が痛かったんだ……」

 春川は黙って頷き、

「前田、僕も帰るよ」

と、誰もいない部屋に向かって呼びかけるように呟いた。

 俺は身体が徐々に透き通って消えてしまいそうな感覚を覚えながら、相槌を打って並んで歩き始める。いつもどおりに振る舞いながらも、春川の顔はいや増しに青白く、浅く水が張られただけで蓋も閉めない水槽に、最後のアカハライモリが揺れていた。

「最近元気がなかったから、この子だけ外に這い出せなかったんだろうね」

 春川は言った。

「何匹か捕まえてきて、一緒に飼育したりはしないのか」

 俺が言うと、春川は笑って首を横に振った。ぎょろぎょろとした目で、どこか懐かしむように、惜しむように、川面を見下ろした。涼やかな秋の風が、水の上を滑って行った。

 俺は今までで一番こいつが嫌いだと思った。むしろ憎んだ、平静を装った顔や、伝う汗で首筋に張り付く、だらしなく伸びきった髪の束を。こいつが振りまく不幸と、そして、こいつが浮き彫りにする俺の惨めったらしい卑劣さを。俺をなじり罵倒しない春川を憎悪した。こいつとの間に流れる静けさが耳を突き刺していけなかった。

 俺たちはどうしようもなく醜かった。内なる海から生れ出でようともがきながら、その海に溺れ息を引き取った二体の水死体だ。嵐がやって来るまで束の間繋ぎ停められてはいるが、いつ永久に彷徨い出すかわからない。そのくせ、俺は息苦しさと共に、ゆっくりと身体が干からびて塵になり、路傍の塵芥と区別がつかなくなるさまを、よく陶然と想像した。

 俺は、もう加藤のことを切り出すには遅すぎることを感じていた。あのとき、加藤の面前で、加藤に反駁される可能性を背負いながらでなければ、蓋を外したのは加藤だったかもしれないとは、とても言えなかった。小悪党、という言葉が浮かぶ。これほどうっとうしく思っている我が身を、保護する以外のことができないのが、屈辱的でならなかった。春川を直視できなかったが、隣を歩いていると、春川が拒絶した世界にいやでも俺は含まれていないことを、感ぜずにはいられなかった。はじめから、それは許容でも諦めでもなかった。

 川の支流に降りてゆくと、鬱蒼とした木立に囲まれて、小さな池にたどり着いた。夏草の蒸しかえるようなにおいが、かすかに残留し、夏の熱気を偲ばせる。春川はガラスケースを土に置くと、両手でそっとイモリを包んだ。俺は何だか寂しかった。イモリがいなくなることではなかった。思い出には帰路がなく、目の前にも道はなかった。水際で春川がやおら手を開くと、イモリはしばらく手の温もりを惜しむようだったが、広がる大海原に気が付いて、未練もなくそのなかへ滑り込んだ。手を離れてからも、春川はしばらく、イモリが水面に残した波紋を見つめていたが、池の面が何も語らなくなると、意を決したように立ち上がった、へらへらと例の笑いを貼りつけながら。

 交差点で背を向けた俺の肩を、春川は突然叩いた。無言で振り返ると、死んだような魚の目をして、水中にいるようなくぐもった声で、ありがとう、のようなことを言った。不快だった、親しい者同士がするような仕草や、無意味でイノセントな言葉が、酷く癇に障った。あいつのぎょろぎょろした目の中に本物の感謝があるのを見てとると、俺はにわかにたじろいだ。俺はそのような目で見られることに耐え難い苦痛を味わった。

 我に返って、なんのことだよ、と取り繕うように言うと、俺の言葉は無視して、

「前田にそのつもりがなかったとしても、君は僕の救いだった——同じ苦しみに繋がれていたものだから」

とだけ言って、あいつはゆらゆらと軽く手を振って去っていった。

 俺は不意に、春川が無言のうちに語りかけ、俺の方では気づいていないと信じるべく努めてきた言葉が、ついに零れ出たのを悟った。しばらくの間、あいつが喋るときの唇の動きや、話し終わったときに睫毛の陰が目元に落ちた様子が、脳裡にちらついていた。


 翌日、春川は生物室へ来なかった。翌々日も来なかった。そして、春川が生物室に姿を現わす日は未来永劫訪れず、あのまなざしも既に失われたものであると知ることになった。俺がそのとき感覚したのは、確かにある種の敬虔な感情であったような気がする。通夜のざわめきのなかで、あいつは児童養護施設にある木にシーツを掛けて首を吊ったらしいと聞いた。他では目にしない真紅の百日紅の花が、施設の庭で美しく咲いていた時期だろう。茂った緑と赤く色付いた花の間から、血の気を失って真白になったあいつの顔が覗くさまが、あざあざと眼前に浮かんだ。生命の係留から逃れたあいつの身体は、冷えたシーツを滑り抜けると、空を泳ぎ、遠空へと消えていった。俺は、春川が死んだ理由を尋ねたり、あるか知らない春川の遺書を暴いたりしたいとは思えなかった。ただ、ある避けがたい圧力が、存在を死へ押し出した、他のあらゆる原因による死の場合と同じように。試みたのはこれが初めてだったかもしれないし、紐が切れたり人が通りかかったりして断念するのを、すでに何度も繰り返していたのかもしれない。春川はもういない。

 大した関わりを持っていた奴など誰も居なかったが、感じやすく心優しい幾人かのクラスメート達は、遥か遠くなってしまった春川を涙で濯いだ。春川の机に置かれた、グロテスクに生き生きとした花束を廊下から見ながら、とうとう世界から切り離されたような気がして胸が詰まった。クラスメートの訃報を聞いた叔母は、台所に立ったまま春川について尋ねた。俺は、よくわからない奴だった、と、健康な高校生が答えるように答えたが、あいつは一人で空を眺めているような奴だったと、あるいはそういう答えが適切に俺の心を表していたのかもしれない。春川の不在は、春川の机や、残り少なくなった冷蔵庫のレバー片が撤去されるのにしたがって希薄になり、あいつのいた場所も、呼吸を奪うエーテルで満たされていった。

 お馴染みの息苦しさを感じながら生物室に向かったのは、日の落ち掛けた頃だった。渾渾と、水の湧き出る音がする。どこかの教室の開いた窓から流れ込む風が、踊り場の掲示物をはためかせる。俺は一足ごとに重くなる足を持ち上げて四階まで登り切ると、生物室の扉を開いた。階段を登っているときから聞こえていた水音を、そこに見出した。流しは夕日に赤く染まり、中央の蛇口が開けられたままになっていて、上向きになったその蛇口から、力無い放物線を描いて、内側から微かに赤く発光し、生命の哀しさといった趣でのたうちながら、生きているかのように、透明な水がほとばしっていた。汗が首筋を伝うのを感じ、俺はあいつとの最後の会話を思い出した。息を詰めて蛇口を閉めると、なお蛇口から水滴が次々とあふれて、くすんだ金属の表面を濡らして涙のように垂れた。そうして、俺はようやく、なぜあれほどあいつを憎んでいたのかを理解したのだった。

 窓から覗く暮れ方の空が、ゆっくりと滲んでいった。

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