【R-18】伊頭家シリーズから考えるプレイヤーとゲームの関係
皆さんはエルフというゲーム会社をご存じだろうか?
20代前半の方はもう知らないかもしれない。
そもそもPCでゲームをする習慣がない人は知る機会すらないかもしれない。
株式会社エルフは90年代のアダルトゲームのブームをけん引したことで知られるゲーム会社であり、姉妹ブランドのシルキーズとともにヒット作を連発した。
代表作は「同級生」、「ドラゴンナイト」、「野々村病院の人々」、「河原崎家の一族」、「姫騎士アンジェリカ~あなたって、本当に最低の屑だわ!~」、2017年にPS4やNintendo Switch向けに「シュタインズゲート」で有名なMAGES開発によるリメイク版が出てテレビ向けのシリーズ作品としてアニメ化もされた「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」など多数。
そんなエルフのヒットシリーズに「伊頭家シリーズ」と呼ばれる三部作がある。
3作に共通して登場するのは伊頭〇作(〇には各シリーズ毎に異なる名称が入る)というオヤジ。
アダルトゲームのメジャーな作品では少年が可愛い少女たちと様々な恋愛の末に性行為に至るまでを描いたものが多い。
大人の事情により、学園ものだとしても具体的な年齢を作中で描写しないが、多くは高校生、もしくは大学生の男女(しかも処女と童貞の率が異常に高い)による楽しいセックスが大半だ。
しかし、伊頭家シリーズで描かれるのは汚いオヤジによる盗撮、のぞき、ストーキングの末に展開される監禁、ゆすり、強姦の連続。
モラルにも法律にも反する行為ばかりだが、こういった描写自体は数多くの映画や小説で描かれていることだし、アダルトビデオの世界にはもちろんあり、ゲームでも陵辱ものはジャンルとして成立するぐらいには大量に作られている。インモラルな行為に性的興奮を感じるのはそれほど不自然なことでもないだろう。
では、伊頭家シリーズは陵辱ものポルノなのか?と問われると少し違う。
もちろん、ポルノとしての機能は十分に備えているし、抜きゲーとして楽しむプレイヤーも多いだろう。
それなりに高いお金とプレイ環境を用意して、PCソフトコーナーの18歳未満お断りの暖簾を潜り抜ける、もしくは18歳以上の年齢確認ボタンを押してネットでポチリとするという、大きな壁を乗り越えて手に入れたのだからエロくなければ困る。さあて、エロいものみせてもらおうか!犯ってやるぜ~!
そんな血気盛んなプレイヤーに対して伊藤家シリーズは大きな課題を突きつける。そこには「プレイヤーとゲームの関係性」への深い考察が見られた。
3作品を1か月で一気にプレイしたことで見えたこのシリーズの凄さをニワカの人間ではあるが紹介してみよう。以下、文中にネタバレも含むが、古いゲームだし、有名な作品なので今更ネタバレに配慮する必要もないと考える。
この記事に性描写を含んだ画像は一切ないが、ゲームが成人向けであること、一部の単語が不適切と感じる人もいるかもしれないため、18歳以上の大人が自己責任で読むように!
「遺作」共犯者となるプレイヤー
シリーズ一本目はいきなり「遺作」 もちろんこれ一本で終わるわけではない。
後のシリーズとはシステム、作風ともに大きく異なるのが特徴。
プレイヤーは普通の高校生として行動し、同級生や教師と一緒に用務員の伊頭遺作によって夜の学校に閉じ込められる。校舎内を探索し、校舎から出るためのアイテムを手に入れて、脱出をすることが目的となる。成人指定の脱出ゲームと考えればいい。
「ペルソナ」一作目や「ウィザードリィ」のような主観視点による3Dマップのダンジョン探索に加えて、各地点でのポイント&クリック方式による調査パートが存在する。謎を求めてひたすら似たような画面の校舎を歩き回り、各地でマウスをクリックしまくる作業が続くのだが、所々でラッキースケベ的なエロはあるものの、場合によっては18禁に該当するようなシーンを全く見ずにエンディングを迎えることになる。2人のヒロインと恋仲になるエンディングが用意されているものの、それも裸の一枚絵で終了。
あれ?エッチしないの?不審に思ったプレイヤーは最初のプレイとは異なる動きを始めるだろう。
閉じ込められている仲間を忘れて先に進み、疑心暗鬼にかられて別行動を始める同級生を放置し、聞いておくべき話も聞かずに進めてみると、一人、また一人と仲間が消えていく。代わりに見つかるのはビデオテープ。視聴覚室のデッキで再生してみるとそこに映るのは遺作に拘束され、男女問わず陵辱される地獄の光景だった。「遺作」におけるエロシーンの全てがキャラクターが不幸な状態で終わる所謂BAD ENDでのみ鑑賞が可能となっている。そのため、本作をエロゲーとして堪能するためにはプレイヤーがキャラクターを不幸にする行動を選択する必要がある。
プレイヤーは高い金の元を取ってやろうという心理と、単純なスケベ心からキャラクターを不幸にしていくわけだが、その結果が汚いオヤジによる陵辱ビデオなので、次第に遺作の共犯者のような気分になってくる。PCでゲームをしながら、ゲーム内でビデオを見るというメタな構造も手伝って、居心地の悪さがつきまとう作品だ。メタな視点については後の臭作、鬼作では他のブログ等でも頻繁に指摘されているが、1作目の時点で既にメタな構造を内在していることが他の陵辱ものエロゲーとは一線を隠す点だと思う。
「臭作」オヤジ化するプレイヤー
シリーズ2作目は前作で主人公を苦しめたオヤジ(見た目はそっくりだが別人)を操作することになる。
エロ目当てでオヤジの共犯者となっていく構造だった前作とは打って変わって、今度は最初からオヤジの側になった。
舞台は女子校の寮。寮の管理人となったオヤジを操作して、追放されるまでの2日間の間に部屋やトイレ、風呂場にカメラを設置してネタを収集、集めたネタを使って脅しをかけて寮の美少女たちを陵辱することが目的となる。
なんで、こんな汚いオヤジを操作しなければならんのだ?と思いつつ、カメラを設置してさて確認、、、あれれ?
何も映っていないじゃないか!落ち込むプレイヤーと一緒に黒い青春を返せとヘコむオヤジ。
本作は厳密なタイムスケジュールが厳密に定められており、各キャラクターは決まった時間に行動するため、それに合わせてカメラを設置していかなければ全くエロシーンを見ずに終わってしまう。しかも、写真を確保できたとしても写真の内容によっては逆に通報されてしまうため、決定打と言えるネタ集めに奔走することになる。管理人としての仕事をこなしつつの作業となるため、これが思った以上に難しいのだ。
ターゲットとなるキャラクターは8人。
その中でも、オヤジがこいつは落としたいと言っていた高部絵里を狙ってストーキングを開始したものの、なぜか決定打となる写真が回収できない。そうこうしているうちに、タイムリミットが来て終了。また最初からになってしまったが、同じ轍は踏むまいと今度はターゲットを変え、綿密なタイムスケジュールを立て、確実にネタを回収していくと、ついに決定打となる写真を回収!一度脅しに成功してしまえば、あとはタイムリミットまでの間に何度でも陵辱は可能。小娘に罵倒され、邪険に扱われ続け、ネタをロクに回収できないフラストレーションからか、前作であれほど嫌な気持ちになったオヤジを操作して陵辱の限りを尽くす私がそこにはいた。
何度もやっていくうちにプレイヤーは陵辱シーンの冒頭の選択肢でオヤジを昏倒させることが可能だと気づくだろう。
オヤジが昏倒している間は主観視点に切り替わり、オヤジを排除した自分が主体の陵辱シーンへと変化する。オヤジの存在を苦々しく思っていたプレイヤーはオヤジを排除した主体的な陵辱シーンを積極的に選択するだろう。そして、何周もプレイするうちに最終的には全員に脅しをかけることに成功するはずだ。さて、ゲームも終わりかな?と思っていると、なぜか高部絵里が管理人室にいる。どんなにネタを集めようとしても回収できなかった唯一の存在。彼女と過ごす2周目こそが本番だ。
2周めに突入しても、基本的に目的は同じだ。カメラを設置して脅しをかける。全員手篭めにしてトンズラこいて終わり。
しかし、今度は行く先々に高部絵里がつきまとう。何度カメラを設置しようとも高部が阻止してしまうし、管理人の仕事をサボってネタ集めをしようとしても高部の強引な誘いにより、一緒に食事の用意や風呂焚きをすることになる。陵辱の限りを尽くした1周目から一転して恋愛ゲームのような雰囲気となっていく。蔑まれ、罵倒され続けたプレイヤーにしてみれば思わぬ展開だろう。次第に高部に対して好意を持つようになるはずだ。こういうのも良いよなと。
もちろん、鬼畜なオヤジはそれを良しとしない。何も起きない展開に業を煮やしたオヤジはゲームの主導権をプレイヤーから奪取。無理にでもエロイベントを起こそうとし、選択肢に関してもオヤジの都合の良いものしか出さないなど徹底的な介入を始める。プレイヤーとオヤジとの関係性の逆転。そこでプレイヤーは気づくだろう。自分がこれまでのプレイで行ってきたことを。自分の選択によってゲーム内の架空のキャラクターとはいえ、少女を脅し、性行為を強要して、亀甲縛りに剃毛と変態フルコース。トドメに膣内射精という個人の尊厳を奪い続けた日々である。そんな最低最悪なプレイヤーに対しても高部絵里は好意を示してくれるのだ。都合が良すぎと思うかもしれないが、それも当然。だってゲームだもの。でも、悪い気分はしないだろ?
やがて、オヤジの魔の手は高部に対しても向けられる。必死の抵抗をするものの、ついには高部とセックスすることに。
普通の恋愛ゲームならば望むべき展開なのだろうが、オヤジの強制によるものなので、気分は最悪だ。好意を寄せてくれた少女に対する行為が強姦だなんてあんまりだ。抵抗を続けるプレイヤーに対して高部が向けるのはどこまでも優しい言葉だった。陵辱ものエロゲーのはずが純愛作品に変化する瞬間だ。鬼畜なオヤジが入り込む余地はもうない。
そして、訪れる別れ。これまたメタな表現でもって別れが演出されているのだが、非常に感動的なものなので、是非プレイして体験して見てほしい。ゲームのキャラクターとの別れでこれほど名残惜しく感じた作品はない。
「臭作」は性的欲求を満たすためにキャラクターの尊厳を破壊する陵辱ポルノに対する批判を、プレイヤーがオヤジと同化する1周目と関係性を逆転させる2周目の2段重ねの極めてメタな構造で描いた作品だ。しかも、ただ批判するに留まらず、他人を思いやること、関係性を構築していくことの重要性も描くことで、陵辱ポルノとしての自らのゲーム性を転覆させた見事な構成になっている。メタな構造のゲームは数あれど、陵辱ものに始まってセックスのシーンで感動させて終わるゲームなんて本作しかないはずだ。
「鬼作」オヤジは大人の階段を登れるか?
伊頭シリーズ最終作。テーマを一言で表すとすれば、「オヤジたちよ、大人になれ」
今度のオヤジは1作目、2作目のオヤジの弟。3作目にして今までのオヤジたちは血縁関係にあることが発覚。オヤジユニバース!
最初は製薬会社の寮の管理人としてスタートするものの、早々に会社員、しかも営業マンとしてキャリアアップ。
その後も順調にキャリアを重ね、課長、部長、場合によっては社長にまで成り上がることも可能というどこかのサラリーマン金太郎のような展開。キャリアを重ねる最中に様々な美女と浮き名を流し、と言えば聞こえがいいが、実際は前作同様に弱みを握る→脅す→陵辱の流れである。
本作は前2作と比較するとかなりポップな雰囲気があり、オヤジのキャラクターも死んだ母への愛憎半ばする感情を持っていたり、兄弟へのコンプレックスがあるなど人間味のある人物として描かれているため明るい雰囲気が漂う。コメディ的な演出も多く、オヤジが道を渡れずに困っているお婆さんを助けてあげるなど、前作までなら考えられないようなシーンも存在する。もしかしていいヤツなのかもしれない。
そう思ったのもつかの間、陵辱シーンに突入するとやはり外道なオヤジだった。
陵辱シーンに関しては前2作よりもさらにパワーアップ。アニメーション追加版でプレイするとGIFアニメ的な繰り返しアニメーションでヌルヌルと動くようになったため、ビジュアル的なインパクトは強烈だ。しかも、プレイの内容はスカトロやアナルセックスを含むなど変態度もアップ。何より強烈なのは、馬のような巨根の持ち主のオヤジが痛い、痛いと苦しむ女性を強姦する場面を執拗に描いている点だ。ドSの変態さんは大喜びだろうが、まともな神経の持ち主の男ならば、苦しんでいる女性に無理やり突っ込んで気分が良いわけがない。だが、これもプレイヤーが選択した結果のため、お前がやっているんだぞ?と突きつけられている気分になる。ここまでは前作にあったオヤジとプレイヤーとの共犯者的な関係の拡大再生産だが、「鬼作」では女性キャラクターをステレオタイプ的な被害者像としないことで、別の切り口でプレイヤーに対する批判を展開している。
ターゲットとなるのは8人。
殆どが20代の社会人の女性という設定もあって、処女はほとんどいない。この時点で処女信仰があるエロゲープレイヤーの妄想を破壊している。陵辱シーンに突入しても、中にはオヤジのことを「悪い人ではない」と最後まで諭そうとする人物がいたり、陵辱の結果、精神的に変調をきたしてしまって退場してしまう人物もいるなど、個人の尊厳を破壊することで性的興奮を得ようとするこの手のゲームとしては気分を萎えさせる展開が多い。さらには、元AV女優の社長秘書はオヤジを利用してのし上がろうとする野心を見せたり、上司と不倫関係にあるからと言って別に尻軽というわけでもない人物が登場するなど、「男に陵辱されることに怯えて苦しむ女」という構造に当てはまらない女性描写がなされているのが印象的だ。特に、不倫している末広円香はオヤジフェチで鬼作との関係も割とあっさり受け入れてしまったり、「ちゃんと前戯してよ」と怒ったりなど、被害者っぽさが全くないどころか、膣内射精されても「分別のつかないガキじゃあるまいし・・・」と呆れるなど、血気盛んに陵辱に励もうとするプレイヤーが抱く女性に対する幻想や「子ども」っぽさを批判するものになっている。
こうして、ステレオタイプ的女性像を破壊していくことに加えて、2周目で始まる正体不明の子どもとの同居生活によって本作はプレイヤーに対して「子ども」から「大人」への階段を登ることを促していく。もちろん、プレイヤーの選択によっては子どもを放置して元の鬼畜の道に戻ることも可能だ。「子ども」のままでいることも人生における選択肢の一つだから。でも、少しでも「大人」になりたいのであれば、子どもと触れ合う時間を設け、仕事でも結果を出し、職場の同僚とも良好な関係を結ぶ必要がある。つまり、陵辱ポルノとしてのゲーム性をプレイヤー自身が否定していく必要がある。「大人の階段」はエロゲーにとっては死の13階段なのだ。階段を登った先に待つエンディングを終わりと考えるか、新たな始まりと捉えるかはプレイヤー自身に委ねられている。
エロゲー批判と自己否定
伊頭家シリーズをプレイヤーとゲームの関係性から紹介してきたが、シリーズを通して描かれているのは、エロゲーの登場人物を性的に消費しようとするプレイヤーに対する批判だと思う。共犯者的な関係をゲーム中の存在と結ばせ、ゲーム内でメタな視点を導入することで、それを顕在化、さらにはステレオタイプから離れたキャラクター像を導入することで、プレイヤーが抱く幻想を指摘している。伊頭家シリーズは3本かけて展開されたエロゲーとプレイヤーの関係に対する批評だ。しかも、単にプレイヤーを糾弾するだけではなく、それを提供しているのは自分たちであるとの自意識も確かにある。ポルノとしての機能は十分に果たしているけど、反ポルノ。ここまで複雑な心理が存在するゲームはエロゲーに限らず稀有な存在だろう。
90年代の夢の跡
最後に、本シリーズを制作したクリエイターにも触れておく。
3本全てのディレクターとライターを務めたのは蛭田昌人。エルフ創設時から代表とメインのディレクターを兼務していた氏は「同級生」で恋愛ゲーム、「野々村病院の人々」で探偵ものミステリーを制作する一方で、伊頭家シリーズでは鬼畜オヤジを主役にプレイヤー批判を展開した。そんな氏が最後にディレクションした作品が2003年の「河原崎家の一族2」だ。
洋館に囚われた主人公がなんとか恋人を連れて脱出しようとするのだが、何度出ても引き戻されてしまう。その度に周囲の女性が拷問、陵辱を受けることになるが、一定のところに進むとまた最初からやり直しとなるというループものの構造のため、何度も何度も地獄は繰り返される。極めて陰湿かつ悲惨なシーンの連続なので、最初はポルノとして触れようとしたプレイヤーの心は次第に削られ、クライマックスに至っては本当に心が折れそうになるキツいシーンが待っている。手法は違えど、これもまたスケベ心をもったプレイヤーに対する強烈な一撃だ。蛭田氏はキャリアの最後に至っても批評精神を持ってゲームを制作していたのだろう。エロゲーとしての出来がいいだけに余計にアンビバレントな感覚がある。
↑「河原崎家の一族2」のヒロイン、杏奈さん。酷い目に遭いまくる彼女ですが、ラストでは救いもあるので、なんとかこの絵までたどり着いてください。。。
傑作を量産していたエルフだが、2000年代以降は業績が下降し始め、スタッフの引き抜きもあって制作力は衰退、2017年には公式サイトも閉鎖され、事実上の解散状態となった。現在は作品の権利をDMMが管理しており(「YU-NO」はMAGESが権利を所有)、DMMにてダウンロード版の購入が可能。今回紹介した作品の殆どはDMM GAMESのサブスクリプションサービス「DMM遊び放題」の対象作品になっているため、購入せずとも定額で遊ぶことも可能だ。プレイヤーとしては作品に触れやすい状態でありがたいが、エルフ名義で新作が作られることは今後ない。兵どもが夢の跡。90年代の夢の跡を追体験する意味でも伊頭家シリーズ、さらにはエルフの作品をプレイしてみるのも面白いと思う。
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