わたしのふるさとシリーズ 2

わたしのふるさと
わたしのアイス
わたしのいのち
わたしのため
わたしの所為

私は "わたしの"という言葉を使うことが、なんとなく恥ずかしい。

言葉を扱う勉強を最近し始めたが、
言葉一つ一つの色、雰囲気とかイメージを吟味するようになった。

今まで何気なく使っていた言葉たち。
彼らの裏の顔というか、こいつは意外と腹黒かったのね、という新事実を突きつけられているような気分である。

言葉の持つ力に驚く一方で、その言葉を"ポジティブ"にするか"ネガティブ"にするか、言葉を操る人間側の力量が試されていると思った。

例えば、私が恥ずかしい『わたしの』という言葉。

なんで恥ずかしいのかというと、なんとなく人間のネガティブな部分を露出させるような気がするのである。

どんな清い人間でも、(例えばガンジーとか、キング牧師とか)『わたしの』という言葉を使うと途端にニンゲンみが出てしまう気がする。

『わたしの』に込められた所有者の念。
所有者が悪いわけではないのだが、
所有=独裁、自由の否定を言葉から感じる。
自由を重んじる現代において、なんとなく嫌なイメージがあると思う。

むしろ使わないことで、人間ではないひとつ上の存在へ近づいていくような気さえするのである。


『わたしの』という言葉を使っていいのは、もはやイエス・キリストや、ゴータマ・シッダールタ(お釈迦様)くらいの存在なのではないだろうか。

とするなら、神を目指せばいつか"恥ずかしい"という気持ちもなく使えるようになるのだろうか。


しかし、私は見つけてしまった。
恥ずかしげもなく、爽やかに『わたしの』を使う人物を土曜日17:00のテレビの中に見つけてしまった。

彼は、日本に生まれたならば知らない人はいないであろう。水色の猫型ロボットが、めがねインキャを、未来の秘密道具でお助けするというアニメに登場するガキ大将。

そう、ジャイアンである。

私は神を目指すのではなく、ジャイアンを目指せばいいのである。

剛田武という名前があるにもかかわらず、
ジャイアンなどという人によっては一生の傷になるようなあだ名を受け入れ、さらにはその名をネタにした歌を作り笑いまで取ろうとする。その上、クラスのインキャにも差別なく接し、たまにある大冒険では友の為命をも張る。

彼は言う。

お前のものは、オレのもの。
オレのものは、オレのもの。

私の言えない言葉を、こんなに堂々と爽やかに言い切るのは彼だけではないだろうか。

彼の『オレの』という完全な所有の言葉に
あまりイヤらしさがないのは、彼が自分の心に矛盾なく極めてクリアに 『オレの』を使っているからではないだろうか。

ここから言えることは、
〈透明性の高い人間は、言葉をポジティブに伝えられるのではないか〉
ということである。

透明性の高い人間とは、どういうことか。

先の行動、言動が読める。
つまり、わかりやすい人間である。ということである。

不透明で、なにを考えているかわからない人間。こういった人が言う言葉は、どんなにポジティブな言葉であっても受け取る相手は警戒してしまい、どこか恐ろしさを感じる。

底抜けに、わかりやすい人間であることが
相手に言葉を伝える一番のやり方なのではないだろうか。


ジャイアンの透明性は
今後言うだろう言葉をも、予想させる。

お前の傷は、オレの傷。

そんなこと言って、高校生になっても
自分の友達・家族を、守るのであろう。


お前の涙は、オレの涙。

そんなこと言って、大学で恋に破れたスネ夫を慰めるのであろう。


お前のふるさとは、俺のふるさと。

そんなこと言って、大企業のお嬢様の家へ
婿養子として入り、自分の実家も盛り上げていくのであろう。

おわり。

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