わたしのふるさとシリーズ 3
わたしのふるさと。
このお題を、先生からいただいたとき。
3秒考えてこう思った。
「私ふるさとなくね?」
家が心休まる場所ではないのか??
と心配してくださった方、ありがとうございます。私の家は最高です。
ふるさとというのは、ふるさとの外に出なければ感じることはできない場所。
私の場合は、ふるさとであろう場所を一度も出たことがない。出る気もあまりない。だから、ふるさとはまだ無い。
と3秒で結論づけたのである。
そんな詭弁を述べても話が進まない。
今は失ってしまった場所はあるか、小学生の頃まで遡ってみる。
女子は小学校高学年にまでなると、集団での自分の役割や立ち位置を考えるようになる。
ちなみに私は、小学校4年生まで4年連続クラス代表に立候補し、投票で選ばれ、代表を嬉々としてやるようなクソガキだった。
だが小学校5年生になり自我に目覚め、パタりとそういった代表になることはなくなった。
代表などという目立つ者になろうとすることへの羞恥心。
立候補して承諾してもらうより、
立候補せず、みんなに推薦されてやることがかっこいい。
とか色々と可愛げのないことを考えだし、私はクラス代表の席を別のやりたい子に譲った。(立候補しない私はもちろん選ばれない)
選ばれなかったくせに謎の自信に満ち溢れている私は、新米議長があくせくまとめている議論を隠居した元議長(相談役)のような超上から目線でニコニコ聞いていた。
そしてたまに、核心を突くような意見を述べたり、ずれた議論をさりげなく修正したりすることに新たな快感を見出していた。
そういった態度は、友人関係にも変化をもたらした。
女子はグループに分かれて貶めあったりする。という話は、渡部健の不倫と同じくらい有名な話だが、私はどこかのグループに所属することを良しとはしなかった。日毎にグループを渡り歩き、遊んでいた。
貶めあったりする関係がイヤで入らなかったのではない。
ご隠居の視点を手に入れた私は、至る所に首を突っ込める美味みを知り、一つのグループに身を置いて得られる楽しさだけでは物足りなくなってしまったのだ。
和、洋、中を日替わりで食べている、そんな感覚である。
あえて所属をつけるのであれば、
私は無所属に所属していたのである。
そして、現在。
流れるように就職した結果、私は百貨店に所属した。
「○○の佐藤です。」
セリフのようだと初めは思っていたのに、
今ではなにも感じない。
無所属は、どこまでも自分勝手に、自由に、やりたいことを好きなだけ、責任は自分に、を許してくれた。
無所属 さとうあかり
都知事選投票所への道すがら、懐かしき登校路を歩きながら、私は心の中で立候補した。
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