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0401_私の本

 本を開けると、そこに私はいなかった。

 雨が滴り、寒そうなのに妙に生ぬるい夜だった。気温は暖かく、朝方にはちょうどよかったやや厚手のコートでは蒸し暑く感じる。駅までの道を歩き始めてふと思う。
 おかしいな。

 私は、本来であればこの本の中に生きていたはずだった。創作した物語を執筆し、その時間を確保して結果さえ出していれば、好きな時に起きて好きな時間に眠ったり、愛する子供と適宜戯れる。固定した休日には家族で遊んだり、しっかりと休息をとったりする。そんな風に好きな空間のなかで好きなように生きているはずだった。

 私は今、雨の降る中、電車に乗っている。走る電車に雨粒が横に流れるようにして車体に当たっていた。その雫は窓にも付き、数秒ほど震えたのち流れ飛んでいった。
 こんな風に、疲れた頭とからだで、電車に揺られて雨粒を見ている未来などは思い描いていなかった。どこでこんな風になったのだろう。ボーッと窓の外を見ていると、とても小さな本屋がシャッターを下ろしているのを見かけた。

 そこに、私がいた。
 私がシャッターを下ろしている。

 雨の粒や電車の窓の掠れでうまく確認できないが、それは確かに私だった。お気に入りのトップスを着ているのも一瞬分かった。

 次の駅に向かう時、また窓の外に私がいた。どこかの誰かの家の中らしく、デスクライトに照らされながら書き物をしている。何かのクライマックスを書いているのか、楽しそうに必死な形相である。
 その下の商店街では、道中を子どもと手を繋ぎながら楽しそうに歩く私がいた。こちらはなんとも朗らかな笑顔で、子どもと同じように笑っている。

 見れば、そこここに私がいる。
 私の望んだ私が、いる。
 私は、とても健やかな表情をしているのだった。

 電車が止まる。
 改札を抜け、外に出る。雨は止み、見上げれば空には星がある。私は静かに口角を上げた。
 ここにいる私も、何とか笑えている。
 でも、ここじゃないどこかにも、私の望む私がいる。
 私は大きく息を吸い、一歩を踏み出した。遅すぎることなんて本当は一つもない。

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18時からの純文学
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★著者:あにぃ


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