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0528_生温さ

 雨だった。梅雨が近づいてきているのか、どんよりとした空気も一緒にやってきた。
 私はわざと傘の外に手を伸ばし手のひらを上に向けてみる。一瞬にして右の手の平はびしょ濡れになった。それを、ジーンズの太ももあたりでゴシッと拭いた。ゴワつくジーンズが水をもってして少しだけ柔らかくなったように思えた。
 そのまま、ジーンズのポケットに右手を突っ込むと、じんわりと濡れて生ぬるい。微妙に濡れているし、生ぬるいのは気持ちが悪くて嫌な感じなのに、どこかその温かさにホッとしたのも事実。
 私は少しだけ、誰かに温めてほしいのかもしれないと思った。
 毎日、仕事で社内の人と接しているし、週に3日か4日通っているスポーツジムでの顔見知りや、トレーナーの女性とも楽しく接する。生活をする上でのある種の愛情はきっと足りているのだろう。それこそ生ぬるい愛情である。しかしそれであっても寂しく思うことはないし、割と充実していると思う。ではどのような温もりを求めているのだろうかと、ぼんやりしながらやってきたバスに乗り込んだ。
 駅に向かうバスの中、帰宅時間も相まって、乗客は多い。私は入口付近でつり革を持って立つ。右隣に、まだ1歳にも満たないだろう子を抱いた母親らしき女性が立っていた。バスの揺れに応じて、子はキャッキャと笑う。その声に、見ている私も自然と頬が緩むのがわかった。
 いくつかの停留所を経るたび、段々とその子の声が小さくなっていく。ちらと横を見ると子はすぅすぅと眠っているのだった。またも頬を緩ませ、かわいいなぁと見ていると、そのわずか上にある母親の顔も視界に入った。
 穏やかに、慈愛に満ちた柔らかいほほえみで子を見つめているのである。

 あっ、と思う。

 私は一瞬にして、その母親に抱かれている子の心を感じた。何の不安もなく、ただ1つの大きな愛で包まれてそこに眠る、その子の心。それはじんわりと温かく、私が欲していたそれだと思えた。私は密かに身もだえる。欲していたものが真隣にある。でも、触れることは出来ない。
 私は仕方なしに再び右手をジーンズのポケットに入れる。良かった、まだ生温かい。そのまま、ポケットの中で、ぎゅっと拳を握った。
 そっと、隣を見ると穏やかな母の笑顔の下で、眠りながらふにゃりと笑う子があった。
 

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