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0430_それではさよおなら

「さよおなら」

 私は、今、何度目かの『さよおなら』をしている。目の前には目を丸くした男が一人。

 この半年一緒にいた彼は電車で見かけた大学生だった。満員で身動きがとれない電車の中、彼の手がそわそわと動いていたのだ。その手をどこに持っていけば痴漢に間違われずにすむだろうかと思案していたのだと思う。私の肩に度々、彼の手の甲が触れるのだった。私はぐいっと彼の正面に向き直り、目線を合わせた。彼は大層困惑していたが、私は敢えてにこりと微笑んだ。

「手をつないでいましょう」

 これはもう、単なる痴女である。だがしかし、彼はその手をつかんでくれたのだった。ありがとう、そう言ってとても爽やかな顔で微笑んだ。

 それからしばらく私達は手をつなぎ、その日は別々に降車した。
 彼は学生で、私は社会人であり、毎朝同じ時間の電車を利用している。翌日にはどちらからともなく姿を見つけては、手に触れた。ぎゅっと握り、その熱や手の肉の厚さを確かめる。次第に手から腕へ、腕から首筋に指をすべらせる。滑らせた指は唇に変わり、満員電車の中、彼と私は恋をしていた。

 そして、その日もその翌日も、さらに次の日も、私たち二人は恋をして、それぞれ、降車駅で降りるのだった。

 それで、終わるのだった。

 これは恋ではない。
 もちろん愛でもなく、そして夢でもなかった。
 半年一緒にいたが、一緒だったのは朝の電車のその時間だけだった。
 電車を降りると、毎日驚くほどに彼を忘れた。彼に触れたどの熱も忘れ、彼に会うまで普通だった満員電車がもたらすぎゅうぎゅうの圧迫感のそれと、それから解放された爽快さだけが私の中に満ちるばかりで、甘くピンク色のものは一つも私の中に根付かなかった。

「さよおなら」

 私はもう一度伝える。
 彼は私の手を取り、最初に見たものと同じように、爽やかに笑った。

「こちらこそ、さよおなら。名前も知らないあなた」

 これまでに繋いだ手とは違う、特別になにも感じない、熱のない握手であった。

 彼はくるりと私に背を向け、颯爽とその場を去っていく。
 その背中を見て、私は初めて、彼に恋をした。


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