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0710_とんぺい焼きと彼女

 毎日1つ、嬉しい出来事を記録する。

 近頃は、なにをやっても明るくなく、良いことがあっても『今だけだからなぁ』とか『どうせ明日にはもとに戻るしなぁ』などと思ってはその時をまったく素直に楽しめないのだった。

「お待たせ」
「私も今着いたところだよ。じゃあ行こうか」

 大学時代の友人と、仕事帰りに飲みに出ることにした。彼女は間もなく海外赴任となるらしい。

 店は、海外にはなさそうな小料理屋に入る。座敷が2つほど、あとはカウンターに6席の本当に小さな店だった。平日もまだ中盤だからか、客は私たちの他にはいない。

「ビールお願いします」

 はい、と言ったいわゆる女将さんはとても柔和な笑顔てある。仕事で疲れた帰りに寄るにはきっとこういう感じが丁度いい。

「では、気をつけていってらっしゃいと言うことで」

 私から彼女のグラスにビールを注ぐ。ありがとうと言って、今度は彼女が私のグラスに注いだ。半分が泡になっていて2人でけらけらと笑った。

「おめでたいことが続くね」

 私は一口目のビールを飲んで口にした。彼女は昨年初めに結婚をした。直後に昇格し、この度の海外赴任に繋がると言うことだ。30歳手前にしてとても順調ではないか。

「私ね、海外赴任、絶対に嫌だったのよ」

 少し申し訳なさそうに彼女が言う。

「英語も苦手だし、そもそも人見知りだしねー」
「じゃあ断りたかったの?」

 私は2杯めを自分で注ぎながら聞く。

「ううん。行きたくないと思っていたのは去年までで、今は嬉しい」
「なにかきっかけでも?」
「うん。結婚したときにね、必ず毎日嬉しかったことを記録しようと決めて、それ、続けているんだけどさ」

 今度は少し恥ずかしそうに笑う。

「そしたら段々、何しても嬉しいってなっちゃって」

 次には少し困ったような顔である。

「何しても嬉しいから、海外赴任もやったー!ってなった」

 以上!と、でも言うようにきっぱりと言った。そしてまた申し訳無さそうな顔をした。

「こんなこと、誰にも言えないんだけど、どうしても聞いて欲しくて」

 彼女の言葉に『誰でもいいから誰かに聞いてほしい』が滲んでいて私は笑った。
 
 彼女の、こういう素直なところが良いことを呼び寄せるのだろうなぁと思う。そして、穿った見方をする私はきっとそうではないのだろうなぁとも思う。

「私もいいこと探そうかな」
「最初は無理矢理でもいいんだよ。慣れてくるから」

 はい、と、差し出されたのはとんぺい焼きで、2人がいつも居酒屋で頼む料理であった。

「久々にとんぺい焼き食べた」

 私がポツリと言い、彼女が「そうそう、いいことだね」と、穏やかに柔らかく笑った。

 私の今日のいいことノートには、とんぺい焼きを頭に浮かべながら、久々に見た彼女の可愛い百面相!と書こうと思う。

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