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0411_今生

 平日の夕方である。
 春真っ盛りで、日中は上着がいらないほどである。ぽかぽかと言う表現がぴったりくる暖かさキープ。なんとなく歩く速度もゆっくりになり、時々空を見上げたり、自分の他に歩く人達を意味もなく眺めては自然に頬が緩むのだった。

 生きていると、実感している。

 何もしていないのに、何もしたくないのに、散る桜の花びらが足元を舞い、ベンチに座っているとそれが膝下まで舞い上がったりするので、まるで小さめの花吹雪が私の何かを祝ってくれているようだ。少し、嬉しい。

 私が何もしなくても、世の中は何も変わらないと思うと嬉しいし、そんなに何もしなくても大して変わらないのだなぁと思えて嬉しい。

 私の座るベンチの前を老夫婦が手を繋いで通り過ぎた。そして隣のベンチに腰を掛ける。にこにこと、2人で顔を見合わせていた。少しして、1人が上着のポケットから文庫本を取り出し、読み始めた。もう1人はそれをにっこりと見守り、時々空を見上げたり、周りを見渡したりして、『その場』を楽しんでいるようだった。

 この人たちも生きていると実感した。

 少なくとも今、この世の中で3人はこの老夫婦が生きているのだと実感している。彼らと私がそれである。

 ゆっくりと空を見上げたあと、つい、老夫婦のうちの1人と目があった。ふふふ、と笑ってくれた。

 少なくとも今、この世の中できっと3人が私が生きているというそのことを知ってくれている。そう思うと、どこか安心できた。

 また明日から忙しない日々に戻るのだけど、時々こうして何もせず、生きている実感だけを得る時間を作るのも幸福なのだと思う。

 風が冷たくなってきて、私は1人家に帰った。

 

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